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GLA随想のコピー

「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。

再び、霊操行の必要性について(2)

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再び、霊操行の必要性について(2)

 多くの方々が霊操行に取り組まれた場合に予想されることについて考えてみたいと思います。

 霊操行による果報は、人によって大きな差が生じるのではないかと私は考えています。つまり、ある人は少し取り組んだだけであっても大きな果報が現れるのに対し、別の人は何年取り組んでもなかなか果報を実感できない、という現象が生じるのではないでしょうか。

 果報に差が生じる原因は、過去世における取り組みに差があるためであると考えられます。つまり、前者の人は過去世においても霊操行に取り組まれた人であり、過去世に獲得した境地を「思い出す」ことによって早期に果報が現れるのでしょう。一方、後者の人は過去世の蓄積があまり無いために果報が現れにくいのではないかと思われます。

 「GLA随想8」のレポートでは、アッシジのフランシスコの例を挙げて霊操行の大切さについて述べましたので、「霊操行の起源はアッシジのフランシスコである」と思われている方も多いかもしれません。しかし、メシヤとの一体化を深めてゆく霊操行は、キリスト教が成立する以前の太古の昔から存在していたものと思われ、「過去世からの蓄積」という点では大きな個人差が生じているのではないかと思われます。

 しかし、この事は、逆に考えると、なかなか果報を実感できない人にとっても希望になるのではないでしょうか。霊操行は難しい行であるため、何年取り組んでもなかなか果報を実感できないかもしれません。しかし、今生の取り組みは、魂の記憶として蓄積され、来世につながってゆくものではないでしょうか。

 また、過去世に霊操行に取り組まれた実績が無かった方々についても、今生は霊操行を始めてゆく最高の環境が整っているのではないかと考えます。仮に、霊操行の対象として「イエス・キリスト」を選ぶとどうなるかを考えて頂きたいと思います。福音書に残されているイエス・キリストの言葉は非常に少なく、また、その内容がどこまで正確であるのかよく解らない面があります。これで霊操行に取り組むのは、かなり厳しいと言わざるを得ません。しかし、GLAが誕生する以前の時代は、そのような困難を引き受けながら実践してゆく以外に道は無かったのではないでしょうか。その点、現在であれば、充分な分量の佳子先生のお言葉が極めて正確な形で残されています。これは、霊操行を始めようとする人にとって、これ以上は望めない最高の環境ではないでしょうか。

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