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GLA随想のコピー

「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。

数多の菩薩湧出のヴィジョン(2)

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数多の菩薩湧出のヴィジョン(2)

 「一人の菩薩を生み出す」という事が非常に困難なことであるのに対して、佳子先生が「数多の菩薩を湧出させる」というヴィジョンを描けるのはなぜなのか、さらに考察を進めてみたいと思います。

 まず、如来が弟子を菩薩の境地に導こうとするとき、どのような鍛錬を与えるのかを考えてみます。最初、如来は弟子に対して、漠然としたヒントを与えて青写真にアクセスするように指示されるのではないでしょうか。弟子はヒントに基づいて青写真にアクセスしようと試みますが、どこかで行き詰まってしまいます。そのとき、如来は、行き詰まりを解消して先に進めるようなヒントを与えられるのではないでしょうか。そのような事を繰り返しているうちに、弟子は自ら青写真にアクセスする智慧を徐々に育んでゆける、という事が期待できます。

 このような指導のあり方というのは、佳子先生も他の如来の方も大きく変わらないと思われますが、佳子先生の場合はヒントを出すタイミングと内容について「ぎりぎりの線を見極める」という点が違っているのではないでしょうか。弟子が行き詰っているように見えても、まだ先に進める余地があるならば、ヒントを出さずにぎりぎりまで見守る事が正しい選択になります。また、ヒントを出す場合であっても、そのヒントによって気づけるのか気づけないのかぎりぎりの内容のものが最善ということになります。しかし、弟子の魂の状態を正確に把握できなければ「ぎりぎりの線を見極める」という事が難しくなり、早すぎるタイミングでヒントを出してしまったり、易しすぎるヒントを出してしまう事もあるでしょう。そうしますと、「弟子が青写真に到達できた」というゴールは同じように見えても、「弟子の育んだ境地」という点では大差が生じてしまいます。おそらく、真に弟子の境地を育むヒントとは、「ぎりぎりのタイミングで出されたぎりぎりの内容のヒント」のみではないでしょうか。如来クラスの方にとっても「一人の菩薩を生み出す」という事が非常に困難である理由は、このような点にあるのではないかと思います。

 私は、「相手の魂の状態を正確に把握する」点、およびそれに基づいて「ぎりぎりの線を見極める」点において、佳子先生は他の如来の方々よりも格段に高い力を持っておられるのではないかと考えます。それゆえ、一回の鍛錬で弟子の境地を最大限に引き上げることができ、他の如来の方々にとって不可能な「数多の菩薩を湧出させる」という事が可能になるのではないでしょうか。但し、佳子先生のご指導が効果を発揮するためには、弟子が100%の力を出し切って「ぎりぎりの線」まで到達する事が不可欠になります。もし、弟子が力の出し惜しみをして、例えば80%の力しか出さなかったとすると、いつまで経っても「ぎりぎりの線」まで到達することはできません。すると、佳子先生が初回のヒントを出された後、いつまで経っても2回目のヒントを出されるタイミングが訪れません。100%の力を出し切ろうとしない弟子を菩薩の境地に導くという事は、佳子先生にとっても不可能なことではないでしょうか。

 そのような事が実際に起こっている例が「7つのプログラム」ではないかと思います。7つのプログラムの総合本部方針案の問題点はこのブログで何度も取り上げてきましたが、「一度も方針案が変更されなかった」という点も大きな問題であると思います。7つのプログラムの方針案は2008年善友の集いで発表されました。その際には検討期間が短かったと思いますので、出来が悪かったとしても止むを得ない面があったのかもしれません。しかし、その後、何年経っても方針案が変更されなかったのは何故でしょうか。「100%の力を出し切って検討を続けたが、何度検討を重ねても、当初の方針案が正しいとしか思えなかった」という事であれば、それが到達できる「ぎりぎりの線」であったということになります。

 しかし、本当にそれが「ぎりぎりの線」であったのであれば、方針案の変更の必要性を示唆するヒントを佳子先生が下さったのではないかと思います。もし、佳子先生がそのようなヒントを全く下さらなかったとすると、それは「ノーヒントで弟子が気づけるはずである」と判断されたからであり、「ぎりぎりの線」まで到達していないという事に他ならないのではないでしょうか。方針案の妥当性について検討を重ねることなく漫然と当初の方針案を維持したのであれば、それは「力の出し惜しみ」であると言わざるを得ません。このように、「7つのプログラム」が進捗しなかった原因は、「弟子が力の出し惜しみをしたから」という点にあるように思います。

 「力の出し惜しみ」の典型の一つに「佳子先生のお役割を勝手に決める」ということがあるように思います。例えば、「7つのプログラムの方針案が誤っているのであれば、それを指摘して下さるべきだ」というものです。しかし、佳子先生のお役割は、「弟子が100%の力を出し切って『ぎりぎりの線』まで到達したとき、先に進めるようなご助力を下さる」という事であり、具体的にいつ、どのような形でご助力を下さるのか、弟子が事前に予測することは不可能であると心得るべきではないでしょうか。

 このように考えてゆきますと、前記事に述べました「4つのステップ」についても、考えを改める必要があるように思えました。「ステップ2:○×式の鍛錬」というものは、本来は無い方が望ましいものではないでしょうか。佳子先生からマンツーマンでご指導を頂いている方々は、佳子先生の示されたヒントに基づいて鍛錬を積んでゆくことが理想であるはずです。そこに他人が割り込んでヴィジョンを開示してしまうという事は、ある意味では鍛錬を受けておられる方々が自ら気づいてゆける機会を奪ってしまうという事であり、鍛錬を妨害する事にもなりかねません。しかし、私がこのブログを開設したのは神の御意志に基づく正しい事であったと考えます。「○×式の鍛錬」は、「それを導入しなければ間に合わなくなる」という理由で導入された「非常手段」のようなものではないでしょうか。

 ここで、「○×式の鍛錬というものが必要であるならば、佳子先生にその事を明示して頂きたい」と思う人もおられるかもしれません。しかし、それは「佳子先生のお役割を勝手に決める」という「力の出し惜しみ」であり、おそらく佳子先生はそのような事を一言も仰ることはないと思います。弟子の果たすべきことは、現在入手可能な情報に基づいて、100%の力を出し切って「ぎりぎりの線」まで到達することに尽きるのではないでしょうか。そのために○×式の鍛錬が必要であると思われるのであれば取り組まれるべきであるし、他にもっと有効な方法があると思われるのであれば、その方法を試してみるべきです。

 しかし、私がこのブログで開示したヴィジョンのうち青写真に適うものに対しては、「そのまま採用し、詳細を詰めて実現してゆく」という以外に出来ることは無いはずです。「7つのプログラム」を「ぎりぎりの線」まで進捗させてゆくためには、「○×式の鍛錬」というものを否応無く実行してゆく以外に方法は無くなっているのではないでしょうか。「○×式の鍛錬」といいましても、青写真に適うヴィジョンとそうではないヴィジョンを弁別することはかなり難しい場合があり、佳子先生からご指導を頂かなければ果たせない部分もあるのではないかと思います。また、正しいヴィジョンの「詳細を詰める」という点においてもご指導が必要になる場合があると思われます。しかし、何れの場合も、ご指導を頂くためには「弟子が100%の力を出し切る」という事が不可欠であり、力の出し惜しみを続けている限りご指導は頂けないものと思われます。

 もし、このまま力の出し惜しみを続けておりますと、やがて佳子先生が「最後の非常手段」を取られる事になると思われます。それは、「佳子先生ご自身が青写真を全て開示される」という事です。こうなりますと、「ステップ1:先生の御旨を我が旨とする鍛錬」以外に弟子のできる事はなくなります。そのような事になる前に、ぜひ発心して鍛錬を積んで頂きたいと思います。

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