「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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私は以前から、GLAの中で信次先生、佳子先生が神格化されていることを問題に思っていました。ただ、信次先生を神格化することは信次先生ご自身が戒めておられたのに対し、佳子先生はその点をあまり戒めておられず、また、佳子先生ご自身が神格化を助長されているようにも見受けられる点があり、どのように考えるべきか迷っていました。今回、ようやく一つの結論に達しましたので、発表させて頂きたいと思います。
まず、例えば佳子先生について「神格化」とは、佳子先生を神の如く思ってしまうことを指します。おそらくそれは、「神がして下さったこと」と「佳子先生がして下さったこと」が曖昧漠然となっており、神がして下さったことまで佳子先生がして下さっているように認識してしまった結果として、起こってしまうことではないでしょうか。従って、神格化を脱却するために為すべき事は、「神がして下さったこと」と「佳子先生がして下さったこと」を峻別することではないでしょうか。
これまで「歴史の整備」に関する本ブログの記事やレポートでは、私の智慧の及ぶ範囲で両者を峻別してきたつもりです。その結果見えてきましたことは、佳子先生が如何にパースピレーション、すなわち人間的努力を果たしてこられたかということでした。千年の伝承を果たすということは、ある意味では「佳子先生がして下さったこと」を弟子が果たしてゆくということであり、「佳子先生がして下さったこと」が何であるのか見えていなければ、何を果たしてゆくべきか解らなくなってしまいます。このように、佳子先生を神格化するということは、「千年の伝承」のために何を果たしてゆくべきか解らなくなるということであり、「千年の伝承」を果たしてゆきたいと願うならば、「神格化」から脱却してゆく必要があるのではないでしょうか。
一方、佳子先生ご自身が神格化を助長されているようにも見受けられる点があります。一例を挙げますと、佳子先生は「危急の時には心の中で三度私の名を呼びなさい。必ず助けに行きます。肉体を救えないときには魂を救います」と仰ったことがありました。私は、このお言葉をお言葉通りに受け取らせて頂くことができませんでした。
その第一の理由は、「天上界の役割分担」ということを考えてみたとき、佳子先生のお役割は佳子先生にしか果たせないことに限られるべきであって、他の天使に果たせることは他の天使が担うべきであると考えられるためです。また、第二の理由は、将来はこのお言葉は実現不可能になると考えられるためです。現在、実際にどの程度の頻度で会員の皆様が佳子先生を呼び出しておられるのか解りませんが、一日に一回程度はあろうかと思いますので、ここでは「一日に一回」の頻度であると仮定します。この「一日に一回」というのは、「GLAの会員数が4万人」という前提の上での仮定であり、例えば将来、GLAの会員数が一万倍の4億人になると、呼び出される頻度は「一日に一万回」ということになります。これでは対応不可能になることが明白ではないでしょうか。
おそらく、会員の方が佳子先生に対して救済をお願いされたとき、神は救済を求める念が佳子先生に直接届かないようにコントロールされるとともに、他の天使に救済を命じておられるのではないかと私は考えています。しかし、時折は、本当に佳子先生に対して救済を命じられることがあるのではないでしょうか。その結果がGLAの中で公表されますと、「本当に佳子先生は仰った通りのことをして下さるのだ」との会員の皆様の認識が形成されてゆくことになります。
しかし、なぜ会員の皆様は佳子先生に対して救済をお願いしなければならないのでしょうか。なぜ神に対して直接救済をお願いしてはいけないのでしょうか。現在のほとんどの会員の皆様のことを想定すると、救済をお願いする相手が「神」であっても「佳子先生」であっても、大きな違いが無いように思えます。しかし、両者に大きな違いが生じる場合があります。
会員の皆様の中には、他の信仰と掛け持ちしながら、どっち付かずの状態で神理を学んでおられる方々もおられます。今後、会員のすそ野が一層広がってくると、そのような方々の割合が増えてくるのではないでしょうか。そのような方が危急の状態に陥って、神に救済をお願いしたところ、奇跡的な力が働いて救われたとしましょう。その事実は、その方にとって、信仰の姿勢を改める動機にはならないかもしれません。一方、「神に救済をお願いしても何の救済も頂けなかった。そこで、佳子先生に救済をお願いすると、奇跡的な力が働いて救われた」という事実がありますと、それは、その方が「他の信仰を捨てて神理一本でやっていこう」と決心される契機になるのではないでしょうか。従って、少なくとも信仰が確立していない方々が含まれている場においては、「救済をお願いする相手は(神ではなく)佳子先生でなければならない」と発信して頂く必要があるのではないかと思われます。
以上まとめますと、伝承の責任を担う方々は「神格化」ということから離れなければならず、同時に方便としての「神格化」を駆使してゆくことが呼びかけられているのではないでしょうか。
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