「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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法の継承時の鍛錬については、「GLA随想3」のレポートにて私の考えを発表させて頂きましたが、この点についてGLAからなんらかの形で(例えば書籍として)公式見解を発表して頂く必要があるのではないかと考えています。 それは、分派の方々の誤解を解き、神理を学ぶ場を再び統合してゆく ことが呼びかけられているのではないかと思われるためです。
私のレポートの内容については、GLAに対して著作権などを主張するつもりはありませんので、自由に使って頂いて結構ですが、「GLA随想3」のレポートの内容をそのまま公式見解にしたとしても、「これはGLAにとって都合のいい解釈を並べているだけでしょう」などと言われ、分派の方々の理解を頂くことは難しいのではないかと考えています。
同レポートの内容は、まだ「理論」「仮説」の段階であり、分派の方々の理解を頂くためには「実証」が必要ではないかと考えます。そして、「実証」を果たすためには、法の継承時に鍛錬を受けられた方々のうち、GLAに残った方々による「如是我聞」が必須ではないでしょうか。GLAに残った方々のうち鍛錬を受けられた方々がどなたであるのか、私は詳細には存じませんが、少なくとも高橋一栄会長と高橋興和講師のお二人は、含まれているのではないかと考えています。
まず、高橋一栄会長について考えてみたいと思います。「GLA随想3」の中で挙げさせて頂いたS氏が発表した情報によりますと、大講演会の席上で佳子先生が一栄会長に向かって「あなたは私を産んだことを感謝しなさい」と仰り、一栄会長はひざまづいて「あなた様を産ませて頂いたことを感謝します」と仰ったことがあったそうです。S氏は、この出来事に対して「良識ある人々のひんしゅくを買った」と評していましたが、確かに表面上の出来事だけをとらえると、そのように言われても反論のしようがありません。
S氏が発表した他の情報によりますと、法の継承直後の時期には、一栄会長は佳子先生に対して不信感、猜疑心を抱いておられたようであり、この不信感、猜疑心が上述の出来事の背景にあったのではないかと考えられます。例えば、一栄会長は大講演会の際に「こんな娘など産まなければよかった」とふと想われたのではないでしょうか。その瞬間、その想いを佳子先生が察知され、上述のように仰ったのではないかと私は推測しています。
一栄会長が佳子先生に対して不信感、猜疑心を抱かれたとすると、その原因は信次先生が一栄会長に課された鍛錬によるものではないでしょうか。すなわち、一栄会長は元々不信感、猜疑心を抱きやすいカルマを持たれており、そのカルマのエネルギーを最大限に引き出すように信次先生が関わられたのではないでしょうか。
実際のところどうであったのか、真相は一栄会長から発表して頂かなければ解りませんが、背景の説明が無いままに表面的な出来事ばかりが伝わってしまいますと、これは佳子先生に対する誤解を今後とも生み出し続ける要因になり、未来千年に渡って禍根を残してしまうことになるのではないでしょうか。一栄会長には、「如是我聞」という形で真相を開示して頂く必要性を感じます。
次に、高橋興和講師について考えてみたいと思います。S氏が発表した情報によりますと、 白浜研修会の際、興和講師は「高橋信次先生はニセモノである」「この研修会が終ったら私はGLAをやめる」という発言をされたようです。このことから、興和講師も元々不信感、猜疑心を抱きやすいカルマを持たれており、やはりカルマのエネルギーを最大限に引き出すように、信次先生は興和講師に対しても関わられたのではないでしょうか。従って、興和講師にも「如是我聞」という形で真相を開示して頂く必要性を感じます。
お二人の他にも鍛錬を受けられた方々はおられるかもしれませんが、如是我聞をして頂くことは必ずしも容易ではないと思われます。それは、S氏の事例から推察しますと、鍛錬は相当に厳しいものであったように見受けられ、鍛錬を受けられた方々が、「もうこの話は忘れてしまいたい。蒸し返さないでほしい」と思われていても不思議ではないからです。
如是我聞を実現してゆくためには、職員の皆様によって「同苦同哀」の風土を事務局の中で育んで頂く必要があるのではないでしょうか。S氏の事例について振り返ってみても「内界の闇を看取り浄化すること」はなかなか難しいものであることが解ります。私自身も、もしS氏と同じような形で鍛錬を受けていたら、同じように悩乱してしまったのではないかと思います。そのように考えますと、一人一人が鍛錬を「自分自身のこと」として引き寄せることは難しいことではないと思います。
また、実際に鍛錬を受けられた方々は、全ての弟子を代表して厳しい鍛錬を受けられたわけですから、そのことを思いますと、「畏敬」と「感謝」の念も自然に湧いてくるのではないでしょうか。
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