「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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映像配信システムに関して、若干の疑問を感じていましたが、ようやく解答らしきものにたどり着くことができましたので発表させて頂きます。
実は、私は、2008年3月、会員の自宅等に四聖日等の映像を配信する映像配信システムを整えることが呼びかけられていると感じましたので、関芳郎氏に対し、そのシステムを整えて頂けるようにお願いするお手紙を差し上げたことがありました。その理由は、勿論、高齢者など介護の必要な方がGLAの集いに参加されることの困難性を解消するためです。私は関芳郎氏が動かれるかどうか疑問に思っておりましたし、多額の費用がかかることでもありますから、佳子先生にもお手紙の写しを送らせて頂きました。これは、要するに、関芳郎氏が動かれない場合には佳子先生が動いて下さることを期待していたということです。
その当時から映像配信システムを整える計画はあったのかもしれませんが、実際に2009年にGLAから全会員に発表されるまで、私はその計画について全く何も存じておりませんでした。つまり、私にとって「本来の目的を伏せたまま映像配信システムを整えて頂く」という形のヒントは、不要であったということです。また、職員の中にも、ノーヒントで映像配信システムのヴィジョンに共感できた方はおられたのではないかと思われます。例えば、1980年代に佳子先生のお写真がGLA誌に掲載されるように動かれた方であれば、共感して下さったのではないでしょうか。そのような方が総合本部長に就任されていたならば、ノーヒントで、弟子の発心のみに基づいて映像配信システムが構築され、構築された当初から本来の目的のために使われていたに相違ない、としか思えません。
実際にそうなっていない理由は、これまでの記事で述べさせて頂いたように、佳子先生によって「自ら発心して動くことができる人」の力が押さえ込まれているからであり、それは「できない人」すなわち一部の職員の鍛錬のためであったと考えています。そして、「できない人」に動いて頂くためには、解りやすいヒントも必要であったということでしょう。
私が感じていた疑問とは、「鍛錬のための犠牲が大きすぎるのではないか」ということでした。本当に映像配信システムを必要としている人は、人生の時間があまり残されていない人が多いと思われますし、実際に映像配信システムの恩恵を受けることなく旅立たれた人も相当数に昇るのでは思われます。一部の職員の鍛錬のために、これだけの犠牲を会員の皆様に課すということは、どうにも納得しきれないものを感じていました。
大きな犠牲の上に立ってでも鍛錬を遂行しなければならない理由を考えておりましたところ、それは「“千年続く”誰もが菩薩になれる道」を構築するためではないかと気づかせて頂きました。10月28日の記事にもありますように、将来のGLAにおいては、縁覚段階の人を育む「縁」を提供することが難しくなるものと予想されます。そうしますと、現在のGLAにて佳子先生が提供して下さっている「縁」と、その「縁」によって目覚めた人の如是我聞が大きな役割を果たすのではないでしょうか。つまり、将来のGLAにおいては、これらの如是我聞を霊操し追体験することが縁覚段階の人の重要な修行になるのではないかと考えられます。
そのように考えますと、「できない人」には、「会員の皆様の大きな犠牲の上に立って修行をさせて頂いている」という自覚を確かにして頂くとともに、是が非でも発心して動いて頂き、如是我聞に結んで頂くことが必要ではないかと思えます。
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