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GLA随想のコピー

「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。

歴史の整備:法の継承時の鍛錬のさらなる意味について

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歴史の整備:法の継承時の鍛錬のさらなる意味について

 「法の継承時の鍛錬」の意味については、「GLA随想3」のレポートや、その他本ブログの記事にて、私の考えを何度か発表させて頂きました。その中で「神の御意志のままに働くための試練」という視点が抜けていたのではないかと思われましたので、この点に触れさせて頂きます。

 まず、「神の御意志を感じる」というのは、どのような事であるのかを考えてみたいと思います。信次先生の御著書で何度も警告されているように、自分の耳元で「神」を名乗る存在が囁いてくるというのは「悪霊」と考えて間違いないでしょう。本物の「神」はそのようなことはされません。佳子先生は「神は鉱物の中で眠り、植物の中で目覚め、動物の中で動き回り、人間の中で思惟する」というウパニシャドの言葉を何度か引用されたことがありました。正にこの「神は人間の中で思惟する」との言葉の通り、神は人間の意識の中に入って、「人間の中で思惟する」ことによって人間に御意志を伝えられます。ただ、その時に「神が人間の中で思惟されたこと」と「その人間が勝手に思惟したこと」との区別をつけることは、非常に難しい面があります。私自身もその難しさというものに直面しました。

 私は、以前からGLAの事務局のあり方について問題意識を持っていたことは事実です。しかし、問題意識を持つことと、それをインターネット上で発表することとは別問題です。私がインターネット上で意見を発表しているのは、「そのようにせよ」という神の御意志を感じたからに他なりません。つまり、「神が私の意識の中に入ってそのように思惟された」ということです。しかし、「本当にそれが神の思惟されたことなのか」という疑問はずっと持っていました。もしかすると、私自身の中にある「批判・正論癖」のカルマが「神の御意志のような虚像」を意識の中で作り出しているのではないか、と思ったこともありました。また、本来の神の御意志が私の意識のフィルターを通る時に「批判・正論癖」のカルマによって歪められているのではないか、と思ったこともありました。

 「神が人間の中で思惟されたこと」と「その人間が勝手に思惟したこと」とを明確に区別するためには、その人間が自らのカルマを客観的に把握するとともに徹底的に浄化してゆくしかありません。そのため、神の御意志のままに働きたいと願う人には、カルマを看取り徹底的に浄化するための厳しい試練が与えられる場合が多いのではないかと思われます。「法の継承時の鍛錬」について「信次先生のされた事は厳しすぎるのではないか」と思われた方も多いのではないでしょうか。しかし、それは「神の御意志のままに働きたい」という本人の願いが引き寄せた試練ではないかと私は考えます。

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