「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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前記事に述べましたように、二つの「Q&A」は、その内容如何にかかわらずGLAの見識が疑われかねないものであると考えますが、内容についても相当に問題があると思われますので、指摘させて頂きます。
まず、罰天使氏による投稿記事について、「ただ、仮に投稿者本人がGLAに対する名誉毀損を理由に削除を求めても、インターネットのシステム上の制約により、当該投稿記事を消去できないという状況があり得、現にこのような事態の発生を確認しております」とのコメントがあります。
このコメントを読む限り、「GLAの意向としては投稿記事を削除させたいのであるが、GLAの意向を阻害する要因が存在するため、削除が実現できていない」という悔しさが伝わってきます。そこで、「GLAの意向を阻害する要因」とは何であるのか考えてみます。
記事を投稿したのは罰天使氏であったとしても、投稿された記事を削除することは掲示板の管理人のみができることです。記事の削除を実現するためには、罰天使氏を相手にしても無駄であり、管理人に対して法的措置を講じなければならないことは自明です。しかし、GLAが管理人に対して法的措置を講じた形跡は見当たりませんので、そもそも法的措置を講じていないのではないでしょうか。
GLAが管理人に対して法的措置を講じなかった理由は、高橋佳子先生から「罰天使氏に対して法的措置を講じてもよいが、管理人に対して講じてはならない」とのご指示があったからではないでしょうか。その通りであるとすると、「GLAの意向を阻害する要因とは、高橋佳子先生である」という、なんとも呆れた結果が導かれてしまいます。
先生は「愛を第一の動機として」ということを伝えて下さったことがありました。先生が罰天使氏に対する法的措置を容認されたのは、記事の削除を目的とするものではなく、「罰天使氏に目を覚ましてほしい」という愛の想いがベースになっているのではないかと考えます。
一方、管理人に対する法的措置を禁止されたのは、「このような投稿記事が残ったとしても、GLAとして何も困ることはないため、管理人に対して要求することはない」というご判断に基づくものであると考えます。
次に、『高橋信次の霊言』と主張するものについて、「GLAでもすでにそうした方々に対して幾度も正式に申し入れし、抗議してまいりました。今後もその姿勢は貫いてゆきます」とのコメントがあります。しかし、このコメントを実行に移すことは、相当にリスクの高いことであると思います。
「霊言」ということについては、外見上同じように見えることを、過去にGLA自身がやってきたということを忘れてはならないと思います。その際の対象としては、モーセやイエス・キリストなど、他宗教の教祖も含まれています。
すると、抗議を受けた相手側から、「GLAがやってきたことを、なぜ私たちがやってはならないのか?」という質問を受けるかもしれません。この質問に対して、「GLAがやってきた霊道現証は本物であるが、あなたがたがやっていることは偽物である」と回答したとしましょう。
すると、相手側は、「GLAの霊道現証が本物であると主張するなら、証拠を見せてほしい」と反論してくるかもしれません。あるいは、「ただいまより四年後(1981年)に、あなたがたの予想を越えた世界的なショックが襲うでしょう」とのガブリエル大天使のメッセージ(GLA随想2、3ページ参照)について、「GLAでは、これを本当にガブリエル大天使のメッセージであると考えているのか?ならば、なぜそう考えるのか、私たちにも理解できるように理由を説明してほしい」と要求されるかもしれません。
相手側の立場に立てば、他にも色々な反論を考えることができますが、おそらくGLAはその全てに対してまともに回答することができないのではないでしょうか。相手側は、GLAとの議論の内容を世間に公開して、GLAを笑いものにしようとするかもしれません。
『高橋信次の霊言』と主張するものに対してGLAが抗議することは、このように大変リスクが高いことではないかと考えます。
考えてみると、今まで上述のような事態が生じなかったことが不思議であり、他教団に抗議しようとする動きに対して佳子先生がストップをかけられなかったことも不思議です。おそらく、佳子先生は、交渉相手が上述のような議論を仕掛けてくる程度の奸智を持っていないことを見抜いて、ストップをかけられなかったのではないかと思います。佳子先生を頼りにするにしても、このような頼り方はおかしいのではないでしょうか。交渉相手の立場に立って少し考えれば解る程度のリスクは、弟子が察知して回避すべきことではないかと思います。
「1981年に世界的なショックが襲う」との予言が外れた意義についてさらに考えてみますと、「GLAは、霊言が本物であるとか偽物であるとかの議論に加わるべきではない」との呼びかけが響いているように思えます。この種の話題については「ノーコメントを貫く」ということが必要ではないでしょうか。
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