「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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私がインターネット上でGLAの方針に関する意見表明を始めてから4ヶ月、ブログを開始してから2ヶ月半が経過しました。これまでの意見表明にて、私の申し上げたかったことはほぼ申し上げ尽くしたのではないかと思います。さらに表明すべき意見があるのかどうか解りませんが、現時点では全く思い当たりません。
インターネット上で意見表明をすることはGLA総合本部のご指示に背くことであり、私自身がGLAを退会する必要がありました。本ブログの冒頭にて申し上げましたように退会すべきかどうか迷いましたが、これは誰かが引き受けなければならないことであり、その「誰か」とはおそらく私であると思われたため、引き受ける決断をしました。それは、単純に私が決断したというよりは、「退会してでも意見を開示せよ」という神の御意志を感じ、神の御意志(と私が信じるもの)に従ったという側面もありました。
しかし、その判断が本当に正しかったのかどうかは、今後のGLAの推移を拝見しなければ解りません。このブログが千年の伝承を果たしてゆくことに対して多少なりとも役立ったのであれば、それは「退会」という犠牲を払ってでも開示する価値があったということでしょうし、全く役に立たないものであれば、そもそも開示する必要がなく退会する必要も無かったということになるでしょう。
開示しました内容には、様々な視点落ちがあるのではないかと思います。しかし、「弟子が青写真にアクセスする」ということは、多くの場合、「先智慧・実行・後智慧のサイクルを回して青写真に迫ってゆく」ということになるはずであり、高橋佳子先生と同じように「いきなり確度の高いヴィジョンを提示する」ということは不可能な場合が多いのではないかと思います。それゆえ、「7つのプログラム」についても、「千年構想」についても、最初に描く仮説は「凡その方向性で間違っていない」という程度の段階から始めなければならず、その最初の仮説を描くにあたって参考になるだけの情報は開示できたのではないかと思います。
さらに表明すべき意見を見出した場合には、またブログを再開するかもしれませんが、現時点の記事にて一応終了させて頂きたいと思います。本ブログは、しばらくの間は、閲覧可能な状態にしておきます。
GLA随想9「千年構想」のレポートでは、現時点での千年構想の小目的として「2029 年までに高橋信次先生の法を復活する」ということを掲げましたが、この小目的について現時点で考えておりますことをもう少し詳細に説明させて頂きたいと思います。
千年構想の検討の進め方について、若干思うことがあります。
それは、現在の青年層、青年シニア層の皆様の意見を重視して方針を決定すべきではないかということです。
その世代の皆様は、高橋佳子先生がご帰天された後にGLA共同体を支える使命を持たれています。私は「神理のローカライズ」や「導入教義の設計」などが青写真に相違ないのではないかと考えていますが、将来GLA共同体を支える使命を持たれた皆様は、必ずやそのことに共感して下さると思います。
「神理のローカライズ」や「導入教義の設計」などを先生のご指導の下で実践することと先生のご指導が頂けない状況で実践することとは全く次元の異なることであり、そのような困難な使命を実際に担う方々に、ぜひ検討に関って頂くべきではないかと思います。彼らよりも年長の世代は、ある意味では、彼らの使命が成就できるように基礎を築くことが最も重要な使命なのかもしれません。
前記事の鍛錬の意味について、もう少し考えてみたいと思います。
信次先生が、関芳郎氏を通じて相当数の人の想念を呪縛されたのはなぜでしょうか。それは、私たちが如何に「快感原則」に基づいて動いているかを教えて下さるためではないかと思います。
「キーワードを使った通信のルール」の話を聞いたとき、何の疑問も持たずに納得してしまった人は、「信次先生の仰ったことだから、当否を吟味することなく納得してしまった」と認識されているかもしれません。しかし、「GLA随想1」のレポートにもありますように、佳子先生が「グループ力・響働力に基づくお世話構造の整備」を指示されたのに、ご指示が放置されたことを思い出す必要があると思います。「これは佳子先生の仰ったことだから、当否を吟味することなくご指示に従おう」とは、なぜ思えなかったのでしょうか。同レポートにありますように、ご指示を放置したのは事務局内の一部の方々かもしれませんが、私たちは自分自身の問題として、「事態を自らに引き寄せる」ことが必要かと思います。
「通信のルール」のお話はスムーズに納得できたのに、「お世話構造」のお話は納得できなかったのはなぜでしょうか?それは、「通信のルール」のお話は私たちに「快」をもたらすのに対して、「お世話構造」のお話は私たちに「苦」をもたらす点が相違するのからではないでしょうか。「キーワードを使ったルールを決めれば天上界と安全に通信できる」ということは、「弟子が青写真にアクセスする苦労を払わずとも、天上界から解り易い指示を頂ける」ということを連想させ、私たちの「快=安楽」が保障されたように感じ、スムーズに受け入れることができるのではないでしょうか。
一方、「お世話構造」のご指示を完遂するためには、お世話の現場を担っておられる方々と意見交換しながら、「先智慧・実行・後智慧」のサイクルを回してゆくということであり、これは時間がかかるし面倒である点で自分たちに「苦」をもたらすように感じ、放置してしまったのではないでしょうか。
このように、私たちは「自分自身の快苦=快感原則」というものを何よりも優先する判断基準にしてしまっていることを自覚する必要があるのではないでしょうか。
そして、私たちが「快感原則」から離れない限り、「千年の伝承」というものは果たせないのではないかと思います。「千年構想」についての私の考えは、「GLA随想9」のレポートに発表させて頂きました。このレポートには様々な点で視点落ちがあろうかと思いますが、「大体の方向性」という点で大きな間違いは無いのではないかと思っています。そうしますと、「千年構想」というものは「快苦」の尺度からとらえると、「面倒なこと=苦をもたらすこと」が大変に多いということになります。
「高橋佳子先生の説かれた神理を何も変えず、そのまま伝えればよい」という考え方は、現在の私たちに「快=安楽」をもたらすものですが、それではGLAは「二十世紀から二十一世紀にかけての日本の言語、文化、風俗、社会情勢に通じた特殊な人々の共同体」になってしまい、多くの人々を救済してゆく力は失われます。
また、同レポートでは「地獄滅消」ということについて記述が薄かったと思いますので、若干、補足説明します。地獄を滅消してゆくために必要なことは、「地獄界との縁が深い人々に地獄界との縁を断って頂く」ということが不可欠になります。そして、私自身が何名かの「地獄界との縁が深い人々」に関わった経験によると、その人々には「なかなか佳子先生の法に共感できない」という傾向があるのではなかと思われました。従って、地獄を滅消してゆくためには、GLAの側からそのような人々に手を差し伸べる必要があり、同レポートにあります「導入教義」「信次先生の法の復活」「憑依問題への対応」は、正に「地獄滅消」を果たしてゆくために不可欠なものと考えています。
ところで、信次先生ご自身は、御帰天前に「通信のルール」を関芳郎氏に伝えられた際、上述のようなことは認識されていなかったのではないでしょうか。信次先生はただ「キーワードを使った通信のルールを関芳郎氏に伝えよ」という神の御意志を感じられ、その通りにされただけであったと思います。「快感原則を脱し、千年の伝承を果たせ」と呼びかけておられるのは大いなる存在、神ではないでしょうか。
次に、法の継承後に入会された方々も含めて相当数の人が受けておられる鍛錬について説明しますが、その前に高橋佳子先生が御帰天された後のGLAについて考えてみたいと思います。
GLA共同体の運営方針は「神意・青写真」に基づいて決定されるべきであり、佳子先生が御帰天された後は、弟子が響働して「神意・青写真」にアクセスしてゆかなければなりません。ここで「弟子が神意・青写真にアクセスできなくても、通信して頂ければよいのではないか」と思われる方もおられるかもしれませんし、そのような形でご助力を頂く必要が生じる場合があるかもしれません。
しかし、魔界の者が天上界の方々の名を騙って通信を送ってくる事は避けられないことであり、しかもそれが相当に巧妙であることを私たちは心しておく必要があります。東北研修会における信次先生の御指導によれば、モーセは、ヤーベを騙るサタンに騙されて、山羊や羊の生き血を神に捧げるようなことをしてしまいました。その事は、二百年後、人身供犠を求めるバール信仰をイスラエルに導入する遠因になってしまったようです。「モーセですら騙された」という歴史的事実に鑑みれば、私達にとって「自分は大丈夫。騙されない」と確信できる道理は無いと思われます。
そのため、将来のGLAでは、天上界から通信を受けた(ように思える)場合には、「その通信の内容が真に神意・青写真に適うのか否か」という事を慎重に見極め、「神意・青写真に適う」と判断した事のみを実行してゆく必要があるのではないでしょうか。しかし、通信に頼ることは危険であるため、これは例外的なことと考えるべきかと思われます。
本題に入りますが、相当数の人が受けておられる鍛錬とは、信次先生からの通信に関することです。これは関芳郎氏が大勢の会員の前で何度かお話されていたことですが、信次先生は、御帰天後に信次先生からの本物の通信と偽物の通信を弁別するために、通信を送られる際のルールを決められ、関芳郎氏に伝えられたということでした。それはある種のキーワードを使ったルールのようです。関芳郎氏によれば、「佳子先生が伝えて下さった信次先生のメッセージは全てこのルールに適ったものであり、真正なものに間違いない」ということでした。
私はこのお話をお聞きしたとき、とてもおかしな話であると思いました。それは、悪魔は他人の心を読み取ることができるため、信次先生の名を騙ろうとする悪魔に対しては、ルールのことなど全て筒抜けになってしまい、何の意味も持たないと思われたからです。しかし、おそらく関芳郎氏は信次先生のお言葉を何の吟味もされることなく受け入れてしまわれたため、その「おかしさ」に気づかれないのではないでしょうか。そして、それによって、関芳郎氏はある種の「呪縛」にかけられているように見受けられます。
この呪縛にかかってしまいますと、正しい判断ができなくなってしまうようです。例えば、神意・青写真にアクセスする力を育むために佳子先生が下さったテーマに対して、なおざりな態度を示してしまうことが症状として見受けられます。「お世話構造の十年ヴィジョン」「7つのプログラム」「千年構想」の何れにおいても、青写真にアクセスするために関芳郎氏が弟子の力を結集しようとされたことはなかったのではないでしょうか。それは、「弟子は青写真にアクセスできなくても大丈夫である。佳子先生が御帰天された後は通信して下されば良いのであって、信次先生のときと同様に、キーワードを使ったルールを決めて頂ければ悪魔の干渉は防止できる」という考え方が根底にあったのではないかと思われます。
この「呪縛」がある限り、関芳郎氏にリーダーシップを発揮して頂くことは難しいわけですが、このブログに発表するような形で呪縛を解いてはならないものと私は思っておりました。それは、この呪縛は関芳郎氏の鍛錬のために信次先生がかけられたものであるため、本人が自ら気付いて呪縛を解かない限り、他人は口出しすべきではないと思われたためでした。そして、「呪縛」にかかっているのが関芳郎氏一人であれば、周囲の人がフォローすれば対処できるのではないかとも考えておりました。
しかし、私自身がうっかりしていたのですが、「この呪縛は伝染する」ということを見落としていました。関芳郎氏から「キーワードを使った通信のルール」の話を聞いたとき、「何かおかしい」と疑問を持たれた人には、呪縛は伝染しません。しかし、何の疑問も持たずに納得してしまった人は、その瞬間から関芳郎氏と同じ呪縛にかかります。「法の継承後に入会された方々も含めて相当数の人が鍛錬を受けておられる」と申しましたのは、このような意味です。
関芳郎氏の周囲に同じ呪縛にかかっている人が多ければ、彼をフォローすることも難しくなります。それゆえ、このブログにて、私の考えを公開することにしました。