「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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前記事では、信次先生のお言葉を根拠とし、関芳郎氏が願いと志を表明されるのであれば、佳子先生に多大な負担を背負って頂いても、彼に書籍の執筆を担って頂くべきであるとの考えを述べさせて頂きました。しかし、この点について周囲の皆様のご理解とご協力を頂くためには、もっと直接的な根拠を示さなければならないのではないかと思われました。
インターネット上の情報によりますと、関芳郎氏はかつて洗礼者ヨハネとしてイスラエルに出生されたということです。この話が真実であるのかどうか私には解りませんが、お二人はとてもよく似た人物であるように思えますので、その情報が正しいものとして、考察を進めてみたいと思います。聖書によりますと、洗礼者ヨハネは、領主ヘロデが弟の妻であったヘロディアと結婚した際、「汝、兄弟の妻を犯してはならない」というモーセの言葉を根拠として、「それは姦淫であるからよろしくない」と意見しました。これによって洗礼者ヨハネはヘロデに疎まれて投獄され、さらにヘロディアの策略によって斬首されることになりました。彼は「イエス・キリストを証し、イエス・キリストの歩む道を整える」という使命を持っていたようですが、結局その使命を果たすことなく人生を終えることになりました。
その後悔を生き直すため、関芳郎氏は今生の人生にて「佳子先生をお証しする」という使命を持たれたのではないかと考えられます。洗礼者ヨハネが使命を果たせなかった原因は、「そもそもなぜ姦淫してはならないのか」というモーセの教えの本質というものに彼が迫ることができず、ただモーセの言葉を表面的に解釈することしか出来なかった事にあると思われます。そのような「心の働かせ方」が使命を果たせなかった原因であるならば、その「心の働かせ方」そのものから変革してゆかなければ「後悔を生き直す」事にはならないのではないかと思われます。
「佳子先生をお証しする」という事は、「佳子先生の法と法華経は、その本質(イデア)において同一である」という事を書籍などによって世に知らしめるという事であり、そのためには書籍の執筆者自身がその事をよく理解していなければお話になりません。「表面的に現れた言葉」という意味では、佳子先生の法と法華経とは全く異なりますので、言葉を表面的に解釈するような「心の働かせ方」では両者の共通の本質に迫ってゆくことはできません。これは、おそらく関芳郎氏にとって最も苦手とすることではないかと思われますので、彼自身も多大な苦労を背負われることになり、佳子先生にも多大な負担を背負って頂くことになるのではないかと思われます。しかし、逆に、そうであるからこそ「過去世の後悔の生き直し」が果たされてゆくのではないでしょうか。
但し、「心の働かせ方」を変革してゆく事はなかなか難しい面があるのは確かであると思います。私が提案させて頂いた「霊操行」は、「心の働かせ方」を変革してゆくために有効な行であると思いますが、周囲の職員の方々のご協力も欠かせないのではないでしょうか。普段の関わりの中で関芳郎氏の「心の働かせ方」が何か変だと感じた場合は、その事をすかさず指摘して頂くとともに、彼がその指摘を理解できない場合には理解できるように智慧を使って説明を果たして頂く事も必要かと思われます。また、実際に職員の方々がそのように動かれるためには、関芳郎氏から職員の方々に対して「そのようにして下さい」とお願いされる必要もあると思われますし、何よりも感謝の想いで職員の方々からの指摘を受け止めて頂く必要もあるのではないでしょうか。これらの事も彼にとって「100%の力を出し切る」という事に含まれるはずだと思われます。
「GLA随想6 法華経に基づく伝道」のレポートでは、GLAと法華経の関係を証した書籍を発刊する必要があること、および、そのプロジェクトリーダーを関芳郎氏に担って頂くことが呼びかけられているのではないか、との考えを発表させて頂きました。後者については、信次先生が関芳郎氏に対して「どうか、佳子の事を証して下さい」と仰った事が根拠になっています。
しかし、GLAホームページの出来栄えや、彼がこれまで果たしてこられた事を考えますと、彼がその役割を担われる事は、ほとんど無理ではないかと思えて仕方がありません。法華経信仰されている方々を感動に導くような文章は、彼には到底執筆できない、というのが私の正直な考えです。ただ、それは「絶対に不可能」という意味ではありません。彼が自らそれを発心することは可能ですし、佳子先生のご指導に従って彼が「100%の力を出し切る」ことも可能かと思われます。従って、佳子先生が詳細な点に至るまでご指導されるならば、彼が執筆を進めてゆくことも可能になるものと思われます。「100%の力を出し切る」というのは、ただがむしゃらに一生懸命取り組めば良い、という事ではない筈です。これまでこのブログで述べてきましたように、「一度頂いたご指導は日々反芻して刻印する」という事も必要かと思いますし、「佳子先生のお役割を勝手に決めない」という姿勢も必要かと思われます。
但し、もし関芳郎氏が書籍を執筆されるならば、佳子先生ご自身が執筆される場合や、他の弟子が執筆して佳子先生が監修される場合と比較して、佳子先生に何倍もの負担を背負って頂く必要が生じます。しかもそれは他の誰のためでもなく「関芳郎氏お一人のため」であり、彼がその役割を担われなかったとしても他の人は誰も困りません。本当に佳子先生にそれだけの負担を背負って頂くとすると、何よりも関芳郎氏ご自身がそれだけの願いと志を表明される事が絶対条件ではないでしょうか。「GLAと法華経の関係を証した書籍をぜひ執筆したい」「それによって佳子先生をお証する使命を果たしたい」と彼が心底から願われるならば、それは実現してゆく事が予定されているのではないかと思えます。
前記事で述べましたように、「数多の菩薩湧出のヴィジョン」を実現するためには、弟子の一人一人が「100%の力を出し切る」という事が不可欠であると考えます。そうしますと、7つのプログラム等を進捗させてゆく「GLA全体の態勢」としても、「職員および希望する会員の全員が100%の力を出し切れる態勢」を整える必要があるのではないかと思われます。それが如何なる態勢であるのかを考えてみたいと思います。
7つのプログラムは多岐に渡りますので、一人の弟子が様々なテーマについて100%の力を出し切って「ぎりぎりの線」まで到達するというのは、実際には難しい点があるものと思われます。各テーマ毎に検討チームを設けて、チーム毎に青写真へのアクセスに挑戦してゆくことが現実的ではないでしょうか。そこで、まず、事務局の中の態勢について考えてみます。私は、検討チームを編成する際に注意すべきこととして、「一つのチームには青写真にアクセスする力が同等である人を集める」という事が必要ではないかと考えます。それは、他のメンバーよりも青写真にアクセスする力の高い人が混じっておりますと、必然的にその人がどんどん智慧を出してゆくことになり、他のメンバーは、ただ賛同・追従するだけで「100%の力を出し切る」という事が難しくなってしまうのではないかと予想されるためです。
ここで、「青写真にアクセスする鍛錬」は、「7つのプログラム」に限られるものではなく、様々なセミナーや集いの運営など、事務局の普段の活動の中においても行われているはずです。従って、現在の事務局内の組織態勢の中で「青写真にアクセスする力が同等である人を一つの部門に集める」という事は、既に佳子先生が果たされているのではないかと私は推測します。もし、その通りであるとすると、「現在の事務局内の部門毎に、検討チームを編成する」という方針が正しいのではないかと思われます。
次に、在家の会員の参画について考えてみたいと思います。昨年12月16日の記事(「押し上げる力の結集」についての再考)にありますように、様々な経歴や職業を持つ人の視点を導入し「広い視野」からGLAの方針を決定してゆくことは、やはり必要であると思われます。このため、GLA公式Facebookページを活用し、在家の会員の皆様が関心を持つテーマについて、自由に意見表明できるようにすることが望ましいのではないかと思われます。昨年10月11日の記事(GLA公式Facebookページについて(4))では、「ボーディ・サットヴァ・ウィズダムを在家の会員に開示して頂くべき」との考えを認めましたが、この考えは誤っていたのではないかと思います。在家の会員は、各々の経歴や職業によって育まれた智慧に基づいて意見表明して頂く事が正しいのではないかと思われます。在家の会員による提案をボーディ・サットヴァ・ウィズダムに整合する水準に引き上げてゆくことは必要ですが、これは昨年12月16日の記事にありますように、職員の皆様に担って頂くべきではないかと考えます。
在家の会員にボーディ・サットヴァ・ウィズダムを開示すべきではないと考えるもう一つの理由は、在家の会員の中、特に佳子先生ご帰天後のGLAを担う世代の中に、「青写真にアクセスする力が格別に高い方々」が含まれているように見受けられるからです。逆に、そうでなければ、GLAが将来行き詰ってしまうのではないかと思われます。その方々に対して職員と同等の情報を与えてしまいますと、その方々が全ての青写真にアクセスして発表してしまうことになり、職員の皆様が「100%の力を出し切る」という事が難しくなるのではないかと予想されます。その方々は、現時点では「ボーディ・サットヴァ・ウィズダムを拝読することなく、如何にその水準に迫れるか」という事に100%の力を出し切って挑戦して頂くことが正しいのではないかと思われます。
以上述べましたことがGLA共同体の実情にどこまで適っているのか、私にはよく解らない点はありますが、「職員および希望する会員の全員が100%の力を出し切れる態勢」の青写真は必ず存在するものと思われ、その態勢を整えてゆくことによって「数多の菩薩湧出のヴィジョン」が現実になってゆくのではないでしょうか。
「一人の菩薩を生み出す」という事が非常に困難なことであるのに対して、佳子先生が「数多の菩薩を湧出させる」というヴィジョンを描けるのはなぜなのか、さらに考察を進めてみたいと思います。
まず、如来が弟子を菩薩の境地に導こうとするとき、どのような鍛錬を与えるのかを考えてみます。最初、如来は弟子に対して、漠然としたヒントを与えて青写真にアクセスするように指示されるのではないでしょうか。弟子はヒントに基づいて青写真にアクセスしようと試みますが、どこかで行き詰まってしまいます。そのとき、如来は、行き詰まりを解消して先に進めるようなヒントを与えられるのではないでしょうか。そのような事を繰り返しているうちに、弟子は自ら青写真にアクセスする智慧を徐々に育んでゆける、という事が期待できます。
このような指導のあり方というのは、佳子先生も他の如来の方も大きく変わらないと思われますが、佳子先生の場合はヒントを出すタイミングと内容について「ぎりぎりの線を見極める」という点が違っているのではないでしょうか。弟子が行き詰っているように見えても、まだ先に進める余地があるならば、ヒントを出さずにぎりぎりまで見守る事が正しい選択になります。また、ヒントを出す場合であっても、そのヒントによって気づけるのか気づけないのかぎりぎりの内容のものが最善ということになります。しかし、弟子の魂の状態を正確に把握できなければ「ぎりぎりの線を見極める」という事が難しくなり、早すぎるタイミングでヒントを出してしまったり、易しすぎるヒントを出してしまう事もあるでしょう。そうしますと、「弟子が青写真に到達できた」というゴールは同じように見えても、「弟子の育んだ境地」という点では大差が生じてしまいます。おそらく、真に弟子の境地を育むヒントとは、「ぎりぎりのタイミングで出されたぎりぎりの内容のヒント」のみではないでしょうか。如来クラスの方にとっても「一人の菩薩を生み出す」という事が非常に困難である理由は、このような点にあるのではないかと思います。
私は、「相手の魂の状態を正確に把握する」点、およびそれに基づいて「ぎりぎりの線を見極める」点において、佳子先生は他の如来の方々よりも格段に高い力を持っておられるのではないかと考えます。それゆえ、一回の鍛錬で弟子の境地を最大限に引き上げることができ、他の如来の方々にとって不可能な「数多の菩薩を湧出させる」という事が可能になるのではないでしょうか。但し、佳子先生のご指導が効果を発揮するためには、弟子が100%の力を出し切って「ぎりぎりの線」まで到達する事が不可欠になります。もし、弟子が力の出し惜しみをして、例えば80%の力しか出さなかったとすると、いつまで経っても「ぎりぎりの線」まで到達することはできません。すると、佳子先生が初回のヒントを出された後、いつまで経っても2回目のヒントを出されるタイミングが訪れません。100%の力を出し切ろうとしない弟子を菩薩の境地に導くという事は、佳子先生にとっても不可能なことではないでしょうか。
そのような事が実際に起こっている例が「7つのプログラム」ではないかと思います。7つのプログラムの総合本部方針案の問題点はこのブログで何度も取り上げてきましたが、「一度も方針案が変更されなかった」という点も大きな問題であると思います。7つのプログラムの方針案は2008年善友の集いで発表されました。その際には検討期間が短かったと思いますので、出来が悪かったとしても止むを得ない面があったのかもしれません。しかし、その後、何年経っても方針案が変更されなかったのは何故でしょうか。「100%の力を出し切って検討を続けたが、何度検討を重ねても、当初の方針案が正しいとしか思えなかった」という事であれば、それが到達できる「ぎりぎりの線」であったということになります。
しかし、本当にそれが「ぎりぎりの線」であったのであれば、方針案の変更の必要性を示唆するヒントを佳子先生が下さったのではないかと思います。もし、佳子先生がそのようなヒントを全く下さらなかったとすると、それは「ノーヒントで弟子が気づけるはずである」と判断されたからであり、「ぎりぎりの線」まで到達していないという事に他ならないのではないでしょうか。方針案の妥当性について検討を重ねることなく漫然と当初の方針案を維持したのであれば、それは「力の出し惜しみ」であると言わざるを得ません。このように、「7つのプログラム」が進捗しなかった原因は、「弟子が力の出し惜しみをしたから」という点にあるように思います。
「力の出し惜しみ」の典型の一つに「佳子先生のお役割を勝手に決める」ということがあるように思います。例えば、「7つのプログラムの方針案が誤っているのであれば、それを指摘して下さるべきだ」というものです。しかし、佳子先生のお役割は、「弟子が100%の力を出し切って『ぎりぎりの線』まで到達したとき、先に進めるようなご助力を下さる」という事であり、具体的にいつ、どのような形でご助力を下さるのか、弟子が事前に予測することは不可能であると心得るべきではないでしょうか。
このように考えてゆきますと、前記事に述べました「4つのステップ」についても、考えを改める必要があるように思えました。「ステップ2:○×式の鍛錬」というものは、本来は無い方が望ましいものではないでしょうか。佳子先生からマンツーマンでご指導を頂いている方々は、佳子先生の示されたヒントに基づいて鍛錬を積んでゆくことが理想であるはずです。そこに他人が割り込んでヴィジョンを開示してしまうという事は、ある意味では鍛錬を受けておられる方々が自ら気づいてゆける機会を奪ってしまうという事であり、鍛錬を妨害する事にもなりかねません。しかし、私がこのブログを開設したのは神の御意志に基づく正しい事であったと考えます。「○×式の鍛錬」は、「それを導入しなければ間に合わなくなる」という理由で導入された「非常手段」のようなものではないでしょうか。
ここで、「○×式の鍛錬というものが必要であるならば、佳子先生にその事を明示して頂きたい」と思う人もおられるかもしれません。しかし、それは「佳子先生のお役割を勝手に決める」という「力の出し惜しみ」であり、おそらく佳子先生はそのような事を一言も仰ることはないと思います。弟子の果たすべきことは、現在入手可能な情報に基づいて、100%の力を出し切って「ぎりぎりの線」まで到達することに尽きるのではないでしょうか。そのために○×式の鍛錬が必要であると思われるのであれば取り組まれるべきであるし、他にもっと有効な方法があると思われるのであれば、その方法を試してみるべきです。
しかし、私がこのブログで開示したヴィジョンのうち青写真に適うものに対しては、「そのまま採用し、詳細を詰めて実現してゆく」という以外に出来ることは無いはずです。「7つのプログラム」を「ぎりぎりの線」まで進捗させてゆくためには、「○×式の鍛錬」というものを否応無く実行してゆく以外に方法は無くなっているのではないでしょうか。「○×式の鍛錬」といいましても、青写真に適うヴィジョンとそうではないヴィジョンを弁別することはかなり難しい場合があり、佳子先生からご指導を頂かなければ果たせない部分もあるのではないかと思います。また、正しいヴィジョンの「詳細を詰める」という点においてもご指導が必要になる場合があると思われます。しかし、何れの場合も、ご指導を頂くためには「弟子が100%の力を出し切る」という事が不可欠であり、力の出し惜しみを続けている限りご指導は頂けないものと思われます。
もし、このまま力の出し惜しみを続けておりますと、やがて佳子先生が「最後の非常手段」を取られる事になると思われます。それは、「佳子先生ご自身が青写真を全て開示される」という事です。こうなりますと、「ステップ1:先生の御旨を我が旨とする鍛錬」以外に弟子のできる事はなくなります。そのような事になる前に、ぜひ発心して鍛錬を積んで頂きたいと思います。
佳子先生は「数多(あまた)の菩薩が湧出するヴィジョン」というものを何度かお話されたことがありました。果たしてそのような事が可能であるのかどうか以前にはよく解らなかったのですが、そのヴィジョンらしきものがようやく見えてきたように思いますので、報告させて頂きたいと思います。また、その事と同時に、私がこのブログを開設した意味もようやく見えてきたように思います。
最初に、「一人の菩薩を生み出す」という事が如何に困難な事であるのか考えてみたいと思います。信次先生は、人類は3億6千万年前に他の天体から地球に移住してきたことを明かされました。また、地球における菩薩の人数は、天上界と地上界を合わせておよそ2万人であることも明かされました。この2万人の菩薩のうち、過去3億6千万年の間に地球にてその境地を獲得した人の割合を半分の1万人であると仮定します。すると、菩薩ではなかった人が菩薩になれる頻度は「3万6千年に一人」という事になります。この計算は前提がどこまで正しいのかよく解らない点がありますが、一人の菩薩が誕生する頻度は「万年単位」である事は間違い無いと思われます。すると、菩薩ではない人が菩薩になるというのは「まず不可能」という事になります。如何に願おうとも、如何なる覚者に師事しようとも、如何に努力しようとも「まず不可能」であり、ただ数万年に一人ぐらいは例外が起こる場合もある、というのがこれまでの実情であったのではないでしょうか。
次に、菩薩の悟りの内容から、その困難さを考えてみたいと思います。悟りの第九段階の表では、第七段階の悟りの内容は「回心(慙愧と歓喜)が訪れる」「個の目的と全体の目的との合一が起こる」とされています。前者については少々解りづらい点がありますので、後者について考えてみたいと思います。「個の目的」とは個人が願っている事であり、「全体の目的」とは全体に対して神の描かれた青写真という意味ではないかと私は考えます。「全体の目的」の最も解りやすい具体例は「佳子先生が示されたGLAの方針、ヴィジョン」ではないでしょうか。一人の個人が「GLAはこうあるべき。ぜひ、その事を実現したい」と願ったとしましょう。その後、佳子先生が全く同様の事を「GLAの方針、あるいはヴィジョン」として発表されたとしましょう。そのような現実が「個の目的と全体の目的との合一」という事であり、その人が菩薩である事の証明になるのではないでしょうか。
「佳子先生がヴィジョンを示される前にそのヴィジョンを自ら描いて自らの願いとする」というのは、多くの方が「不可能である」と考えられるのではないでしょうか。それは、「個の目的と全体の目的とを合一させる事は不可能」という事になってしまいます。すると、やはり菩薩ではない人が菩薩になるというのは「まず不可能」という事になってしまいます。「数多の菩薩湧出のヴィジョン」は、次に述べます4つのステップによって、不可能であるはずの事を具現してゆくものではないかと考えます。
◆ステップ1:先生の御旨を我が旨とする鍛錬
「個の目的と全体の目的との合一」を起こしてゆく第一歩は、「全体の目的」を明確な形で佳子先生に開示して頂いた上で、「個の目的」をそこに合わせてゆくことから始まるのではないでしょうか。これは、「先生の御旨を我が旨とする」という事であり、GLAでは相当以前から実践されてきました。その事はとても大切な事ではありますが、このステップのみでは、菩薩の境地から程遠いのではないかと思われます。佳子先生の示された方針やヴィジョンは、全て「全体の目的」すなわち神意・青写真に適うものですから、安心して「個の目的」をそこに合わせてゆくことができます。しかし、それだけでは神意・青写真に適うものとそれ以外のものとを弁別する力を育む事が難しくなるのではないでしょうか。そのため、次の段階の鍛錬として考えられるものが○×式の鍛錬であると思われます。
◆ステップ2:○×式の鍛錬
「○×式の鍛錬」とは、青写真に適う正しいヴィジョンと、青写真から外れた誤ったヴィジョンとを混在させ、「正しいものには○を付け、誤ったものには×を付ける」という事であり、「正しいものは具現してゆき、誤ったものには手を出さない」という事でもあります。この鍛錬を実施するためには、正しいヴィジョンと誤ったヴィジョンとを混在させたものが必要になりますが、正にこのブログがその役割を果たすのではないかと思います。
以前に何度か申し上げたことですが、私は神のご意志を感じたためにこのブログを開設しましたものの、その理由についてよく解らない点がありました。それは、私はボーディ・サットヴァ・ウィズダムというものを一度も拝読した事が無く、GLAの内情にも疎いためです。このような状態でGLAの方針についてヴィジョンを述べますと、部分的には正しい事を言えたとしても、多くの誤りが含まれることは避けられないのではないかと思われました。しかし、「○×式の鍛錬の問題集を作る」という事であれば、「玉石混交」のものが望ましいわけであり、そのような意味では充分に役割を果たせたのではないかと今では思います。
◆ステップ3:ヒントに基づいて青写真にアクセスする鍛錬
ステップ2の鍛錬では、青写真から外れた誤ったヴィジョンについては「手を出さない」という事でしたが、そのまま何もせず放置して良いはずはありません。佳子先生が下さったヒント、ボーディ・サットヴァ・ウィズダム、その他様々な情報に基づいて「青写真にアクセスする」という鍛錬が欠かせないのではないかと思われます。「ヒント」と一口に言いましても「解りやすいヒント」から「漠然としたヒント」まで様々な段階があると思いますが、その点は佳子先生が状況に応じて調節して下さるのではないでしょうか。
◆ステップ4:ノーヒントで青写真にアクセスする鍛錬
佳子先生から頂いたヒントに基づいて青写真にアクセスする鍛錬を続けてゆくと、やがてノーヒントで青写真にアクセスしてゆける力を育んでゆけるのではないかと思われます。それが「個の目的と全体の目的との合一」という菩薩の境地であると思われます。多くの人が響働して上述の各ステップを歩んでゆくことにより、「数多の菩薩が湧出する」というヴィジョンを実現してゆけるのではないでしょうか。