「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
6月5日、6日の記事(2つの「Q&A」について思うこと(1)~(3))では、GLAのホームページに掲載されている2つの「Q&A」(インターネット上の批判的投稿および『高橋信次の霊言』と称するもの)について、私の意見を述べさせて頂きました。しかし、半年以上経過しても、これらのQ&Aが依然として削除されず残っていますので、さらに意見を追加したいと思います。
2つのQ&Aについて考えるときに、GLA以外の宗教団体の事を心に置いてみるとどうでしょうか。誹謗中傷を受けた教団はGLAだけではありません。GLAおよび他教団が「誹謗中傷に対して如何に対応しているか」という事は、否応無く世間の人々に比較されてしまいます。その結果、何が起こるのかを考えてみるべきかと思います。
「宗教団体に対する誹謗中傷」と言われて、多くの人が思い起こすことは立正佼成会に起こった「読売事件」ではないかと思います。昭和31年1月から約3ヶ月に渡って、読売新聞が立正佼成会を弾叫するキャンペーンを張ったことがありました。それは、立正佼成会の土地取得に不正があったなどとする記事を連日報道するものであり、開祖(当時の会長)の庭野日敬氏が参考人として衆議院の法務委員会に呼ばれる事態にまで発展しました。この煽りを受けて立正佼成会の会員数が激減してしまいましたが、立正佼成会は関係機関に「土地の不正取得は無かった」との調査結果を配布した以外は、完全に沈黙を守りました。
会の内部には「報道が虚偽であるなら読売新聞を訴えるべき」という声もあったようですが、庭野氏は「それは宗教者の取るべき道ではない」として退けました。「報道された事実は無かったけれども、周辺住民の不安を煽っていたという点で私達に至らない点があったのではないか。読売新聞はその事を戒めて下さった仏の使いであり、私達の師である」とし、読売新聞のことを「読売菩薩」と呼んで感謝したということでした。この出来事は、正に「試練は呼びかけ」「私が変わります」という神理実践そのものであり、神理はGLAの独占物ではないということを改めて感じます。
以上の点を踏まえて、2つのQ&Aをもう一度読み直してみますと、そこには「GLAは全く悪くない。悪いのはGLAを誹謗中傷している人達である。だから、GLAは彼らを黙らせればそれで良い」という思想が根底に流れていることが感じられます。そこには「試練は呼びかけ」も無ければ、「私が変わります」もありません。勘違いして頂きたくないのは、私は「法的措置を講じることが正しいか否か」を問題にしているのではありません。法的措置を講じたのは、佳子先生のご指示によるものと思いますし、それは「魂を救済する」という目的があったものと理解しています。そうではなく、「誹謗中傷を契機として神理実践を果たす志を示せるのか否か」という事が問題であり、志を示せないのであればQ&Aは削除すべきということです。
このQ&Aを放置するならば、「GLAは言っていることは立派であるが、正にGLAが提唱している神理実践において、GLAは立正佼成会に見劣りする」という誤解が生じてしまうのではないかと思います。弟子の一人一人には、魂の道程というものがあり、その途上では神理を体認体解できず、神理から外れた思想を抱いてしまう事も止むを得ないことかもしれません。しかし、「個人の至らなさ」というものが「GLA全体の至らなさ」であるかのように誤解される事は避けなければならないものと思われます。
そのためには、多くの人が意見を交換して、ホームページの内容の妥当性を維持してゆく必要があるのではないかと思われます。「多くの人」と言いましても、現状では在家の会員の意見表明が制限されているわけですから、職員の皆様に果たして頂く必要があるのではないでしょうか。さらに広く考えますと、この種の神理に反する思想というものは、ホームページには掲載されない「会員のみに対する発信」であったとしても、問題が大きいように思えます。私は、職員の皆様一人一人が職掌範囲を超えて「GLAの方針全般について責任を負う」という事が必要ではないかと考えます。
もし、この私の考えが正しいとすると、これは私が申し上げる以前に、佳子先生が職員の方々に指示されたことではないかと思います。少なくとも、2つのQ&Aが掲載される事を未然に防止できるようなご指示、あるいは、掲載されたとしてもすぐに削除できるようなご指示は、必ず存在すると思われますので、「過去に佳子先生から頂いたご指示・ご指導」を改めて振り返って頂き、「ご指示頂いたことをご指示頂いた通りに遂行する」ということの大切さを再認識して頂きたいと思います。
ただ、佳子先生のご指示が遂行されなかったのは、遂行されなかっただけの理由があると思いますので、その点を次に考えてみたいと思います。
このブログで何度か述べましたように、7つのプログラムが進捗しない直接的な原因は佳子先生が具体的なご指導を下さらないからであり、ご指導を下さらない理由は職員の皆様が佳子先生のご指示を無視した無手勝流のやり方で進めようとされているからであると私は推測します。この推測が正しいものとして、なぜ佳子先生のご指示に従えないのか考えてみたいと思います。
ご指示に従えない一つの原因として思いますことは、「何をやったところで、自分たちは青写真にアクセスできるようにはならないのだ」という諦めムードが事務局の中で蔓延しているのかもしれません。私は「佳子先生のご指示・ご指導に愚直に従えば、青写真にアクセスできるようになるはず」と漠然と考えていたことがありました。しかし、このブログで取り上げてきましたように、千年構想、7つのプログラム、ホームページ中の「GLAの教義」のページなどの出来栄えは相当に思わしくないものであり、しかもそれは何十年も佳子先生からマンツーマンでご指導を頂いてきた人の手によるものであることを冷静に考えますと、以前に私が考えていたような簡単なことではないのかもしれません。
ご指示に従えない二つ目の原因として思いますことは、ご指示の内容が、かなり手間のかかる面倒なものであるのかもしれません。一例として、私が「具現の王道」と呼んだものについて考えてみたいと思います。これは、「ベースとなる佳子先生の具現を見出す」「佳子先生の具現と今回の具現との条件の違いを見出す」「条件の違いに応じて具現のあり方を変えてゆく」という3つのステップから成ります。これは、具現の進め方について佳子先生の説かれた事とどれほど整合しているのか私には解りませんが、大筋では誤っていないと思いますので、その通りの内容を佳子先生が説かれたものと仮定してみます。
「具現の王道」というものは、思いつくままにウィズダム(らしきもの)を書く場合と比較して、かなり手間のかかる面倒なものである事は否めません。手間をかけることによって青写真にアクセスできるようになるならば、モチベーションを保つことはできますが、「結局、何をやっても青写真にアクセスできるようにはならない」ということであれば、楽な方向に流されてしまうのかもしれません。
しかし、たとえどれほど出来栄えの悪いものであっても、具現の進め方は佳子先生のご指示に忠実に従うものでなければならないはずです。その理由は、12月19日の記事(有余の菩薩について(2))にて述べた通りであり、ご指示から外れた方法による具現に対して佳子先生がご指導されたところで、それは「未来千年」のことを考えますと、全く不要で無駄なものになってしまうからです。「ご指示の通り進めても青写真にアクセスできるようにならないかもしれない」という事を承知しつつも、ご指示に忠実に従うことは、「未来千年の礎になる」という事の一つの形ではないかと思います。
もし「未来千年」ということにリアリティが持てない場合には、現在の青年層、青年シニア層の方々のことを思い浮かべてみるとどうでしょうか。現在の職員の皆様にとって、彼らは顔も名前も知っている相手ですから、リアリティを持ちやすいのではないかと思います。彼らは、佳子先生が御帰天された後にGLA共同体を担う使命を持っておられます。佳子先生が御帰天された後に具現を果たす場合は、佳子先生の遺されたご指示・ご指導に忠実に従う以外に方法はありませんが、それがどれほど大変な事であるのか容易に想像できるのではないでしょうか。
具現の進め方について佳子先生が「一般論」として説かれたことのみでは、実際に弟子のみで具現を進めてゆくためには足りず、具体的な事例が数多く必要ではないかと思われます。それによって具現の進め方について理解が深まってきますし、如何なる点で間違いや視点落ちを招きやすいのか、という事なども見えてくるようになるのではないでしょうか。事例を揃えるためには、現在の職員の皆様が佳子先生の示された手順に忠実に従って挑戦を果たされ、様々な失敗を重ねられるとともに、ご指導を頂く事が必要ではないでしょうか。そのような記録が残っていると、現在の青年層、青年シニア層の方々にとって、どれほど心強いことかと思います。
つまり、現在の職員の皆様が「佳子先生の示された手順に忠実に従う」ということは、ある意味では、「現在の青年層、青年シニア層の方々が飛躍するための踏み台になる」ということになります。他の人が飛躍するための踏み台になる役割を自ら買って出る人がいるとすると、それは飛躍する人に対して友情を感じているからではないでしょうか。従って、「佳子先生の示された手順に忠実に従う」ということは、現在の青年層、青年シニア層の方々に対して「世代を超えた友情の証を示す」ということであり、それは自然に「未来千年の礎になる」ということにつながってゆくのではないかと思います。
(前記事の続きです)
また、GLAで責任ある立場を担うためには、「信次先生から通信を頂いた」との主張を慎んで頂く必要があるように思えます。多くの人がその理由について思い当たることは、信次先生が「御帰天後に通信される相手は佳子先生のみである」と遺言されたことであろうと思います。
しかし、私は信次先生の遺言のことよりも、7月22日の記事(相当数の人が受けておられる鍛錬について)に認めましたように、通信に頼る風潮がGLAの中に生じてしまいますと、悪魔の干渉を招きやすくなるという危険が生じることを留意すべきではないかと思います。同記事では、“将来のGLAでは、天上界から通信を受けた(ように思える)場合には、「その通信の内容が真に神意・青写真に適うのか否か」という事を慎重に見極め、「神意・青写真に適う」と判断した事のみを実行してゆく必要がある”と書きました。しかし、もっと徹底して、「天上界からの通信と主張する如何なるものも真正なものとは認めない」という方針を貫いた方が望ましいのではないかと思えてきました。
この方針の下で、例えば「信次先生から神理を通信された」と認識した人がどのような行動を取ればよろしいのかを考えてみます。その人は、ただ佳子先生の説かれた神理と響き合い一体化するように心がけて、通信された内容を説けばよろしいのではないでしょうか。その内容が真に「神理」と呼べるものであり、また人々にとって必要なものであるならば、信次先生のお名前を出さなくとも広まってゆくはずではないでしょうか。
12月14日の記事(GLAの第三代目会長について)について、少々追加したいと思います。
GLAで責任ある立場を担うためには、「自己流」のものは全て捨て去る必要があるものと思われます。佳子先生の説かれる神理を愚直に学び実践することは絶対に欠かせないことではないでしょうか。私の想定している方は、その点で数十年のブランクがありますが、それは大した障害にはならないものと思います。
空海は、師である恵果和尚から真言密教の継承者に指名されましたが、空海が恵果和尚に師事した期間は、僅か半年でした。「半年」というのは極端な例かもしれませんが、過去世に相応の鍛錬を積んだ人であれば、神理を理解し吸収する速度も他の人とは異なります。
その後、その方が具現を果たされる場合も「佳子先生の果たされた具現をベースに置く」という事を心がけて頂く必要があると思いますし、神理を説かれる場合も「佳子先生の説かれた神理と響き合い、一体化するように説く」という事を心がけて頂く必要があると思います。そのような形で鍛錬を積んでゆけば、「その方が第三代目会長に相応しい」という事を誰もが認めるようになるのではないでしょうか。
9月14日の記事(有余の菩薩について)では、初代弟子としてほとんど有余の菩薩(まだ修行すべきことが有り余っている菩薩)ばかりが選抜された理由について考察しました。しかし、この理由について、また新たな気づきがありました。
初代弟子としてほとんど有余の菩薩ばかりが選抜された結果として何が起こったかと考えてみますと、それは「弟子のみではほとんど具現を進めることがでず、具現を進めるためには佳子先生から頻繁にご指導を頂く必要が生じる」ということではないでしょうか。それは「佳子先生のお仕事が増える」という結果につながります。しかし、佳子先生が初代弟子に下さったご指導は未来千年に渡って伝承されますから、将来の弟子にとっても大切なご指導であるということになります。すると、佳子先生のお仕事が増える結果になったとしても、未来千年のことを考えますと、「ご指導は多ければ多いほど望ましい」ということになるのではないでしょうか。
逆に、僅かなご指導に基づいて具現を進められる人が事務局にいると何が起こるかを考えてみますと、それは「その人に対するご指導が少なくなる」ということになります。しかし、それは言葉を変えると、「未来千年のために必要なご指導が大幅に削られる」という結果につながります。従って、現在のGLAの事務局では、そのような人は「迷惑で邪魔な存在」になってしまい、排除せざるを得ないのかもしれません。あるいは、「会員の皆様のお世話」など限定した役割を与えて、他の事には口出ししないように釘を刺されているのかもしれません。
そうしますと、至らない点を露呈して佳子先生からご指導を頂くことは、有余の菩薩の使命であると考えられます。従って、与えられたテーマに行き詰ったときは、佳子先生に対して堂々とご指導をお願いしても構わないのではないでしょうか。しかし、それは「その人のため」ではなく、あくまでも「未来千年のため」という事を忘れてはならず、「未来千年のため」にならないご指導をお願いすることは、慎まなければならないものと考えます。
「未来千年のため」にならないご指導の最たるものは、「無手勝流の具現」に対するご指導ではないでしょうか。佳子先生は具現の進め方について、様々なご指示・ご指導を下さっているものと思われます。それらを無視して無手勝流の具現を進めようとして行き詰ったとしましょう。仮に、その進め方を容認した形で佳子先生がご指導されたとしても、それは「未来千年」のことを考えますと、全く不要で無駄なものではないでしょうか。
12月4日の記事(私の役割について(2))の繰り返しになりますが、「過去に頂いたご指示・ご指導を一覧表にまとめて整理した上で、その一つ一つを刻印して愚直に実践してゆく」という事が、未来千年のために必要なご指導を残してゆくために不可欠なことではないかと思われます。