「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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「GLA40年を振り返り、未来千年の礎とする」というテーマは、広い意味があり、様々な見方が出来るのではないかと思いますので、前記事とは別の側面で検討してみたいと思います。
「GLA40年」および「未来千年」という言葉を厳密に解釈しますと、「GLA40年」とは1969年4月8日~2009年4月7日であり、「未来千年」とは2009年4月8日~3009年4月7日であると考えることができます。すると、既に「未来千年」が始まって4年半の期間が経過したことになります。なお、この場合、「礎とする」は「行動や判断の基礎とする」という意味になります。なぜ、時期について厳密な解釈をするのかと申しますと、ちょうど「未来千年」が始まった頃を境として、「GLAの方針」と「高橋佳子先生の方針(と思えるもの)」との間で、乖離が目立つようになったからです。これは、既にGLA40年を礎にして方針を決定すべき時期に突入しているということではないかと思われます。
例えば、GLA誌に掲載されていた7つのプログラムの方針案のことを考えてみたいと思います。これは、佳子先生が元々下さったお言葉が不明になるような形で発信されました。佳子先生がその事を注意されなかったのは、「GLA40年を礎にして判断せよ」ということであり、弟子が下した判断については極力干渉されない方針を採っておられるからではないでしょうか。GLA40年の期間に佳子先生が下さった一つ一つのお言葉の重さと深さを振り返り、その振り返った結果を礎として検討しますと、オリジナルのお言葉が解らなくなるように改変して会員に発信することが正しいのか否か、自ずと明らかになるのではないでしょうか。
また、映像配信システムが本来の目的(高齢者や病気の方の自宅等に四聖日等の映像を配信すること)のために使われていないことも、その現れではないでしょうか。GLA40年の期間、信次先生、佳子先生が弟子にどれほどの御慈愛を注いで下さったのかを振り返り、その振り返った結果を礎として検討しますと、映像配信システムの本来の用途が何であるかについても自ずと明らかになるのではないでしょうか。
「GLA随想2 GLAの歴史概観」のレポートにありますように、「歴史の整備」について佳子先生が元々下さったヒントは「GLA40年を振り返り、未来千年の礎とする」ではなかったかと推測します。この「未来千年の礎」の意味についてよく吟味できていなかったと思いますので、もう一度考えてみることにします。
GLA40年の歴史というものは、ある側面から眺めますと、「人を排除していった歴史」と呼べるのではないでしょうか。具体的には、これまでのレポートや記事にありますように、法の継承時の鍛錬、1981年の予言、「人間のまなざし」シリーズの学びなどが該当します。そして、現在も「佳子先生の法に共感できること」「面接にあたっておかしな様子が見られないこと」を入会承認の基準としていることは、「人の排除」が依然として続いているという事ではないでしょうか。
これらは全て神の御意志に基づくものであり、止むを得ない事情があったという点では、確かにその通りであると思いますが、それだけでは割り切れない「痛み」を感じることも事実ではないでしょうか。そうしますと、その「痛み」を「一人も排除しないGLAを実現する」という「願い」に転換することができるはずですし、その「願い」こそを「未来千年の礎」とすべきではないかと思われます。「一人も排除しない」ということは、「一切の人を救済する」と同義であるとも考えられますが、「目の前に集ってきた人を一人も排除しない」という意味に考えますと、かなり具体的で身口意に結びやすいことではないでしょうか。
但し、「一人も排除しない」ということは相当に難しいことであり、智慧と努力を尽くして、その願いに一歩一歩近づいてゆくしかありません。特に外国においては、ほとんど共同体の基盤が整っておらず、今後「人」「理」「場・システム」のバランスを取りながらすそ野を広げてゆく必要がありますので、「一人も排除しない」ということとは両立できないかもしれません。それでも、現時点で会員を制限するのは「一人も排除しないGLA」を実現するためである、という「願い」は確かにして頂く必要があるのではないでしょうか。
ここで、「一人も排除しない」ということを具体的に考えてみたいと思います。例えば上述の入会承認の基準については、単に基準を緩和したところで何の解決にもなりません。信次先生の法を求める人々、憑依に悩む人々を充分にお世話できる態勢を整えるということが「排除しない」ということではないでしょうか。そのためには信次先生の法の復活を果たしてゆくしか道は無いものと考えます。
また、将来予想される「集団帰依」についても同様です。「GLA随想9 千年構想」のレポートに認めさせて頂いたことですが、他教団がGLAに集団帰依することを決断したとしても、「今まで通りの信仰を続けたい」と思う方々は必ず存在するはずです。同レポートでは、その方々のために「導入教義を設計する」というヴィジョンを示しましたが、その方々を排除しても構わないのであれば、もっと安易な方法があります。それは、別教団を設立し、相応の財産分けをした上で穏便に離れて頂く、という方法です。「一人も排除しない」という願いと決意がなければ、このような安易な方法に流されてしまい、「導入教義の設計」という重荷を背負うことはできないのではないでしょうか。
「GLA随想10 高橋信次先生の法の復活」のレポートでは、「法の継承時の鍛錬の真相についてGLAが書籍等の形で公式な見解を発表することが欠かせない」との考えを発表させて頂きました。「書籍等」というのは、「書籍またはホームページ」ということですが、このテーマについては「書籍」という形が妥当ではないかと考えます。書籍の凡そのストラクチャーは、「魂の因果律の説明」「鍛錬内容の説明」「鍛錬を頂いた方々の如是我聞」の順でよろしいのではないかと思われますが、ここで「魂の因果律の説明」をどのように構成するか、という点で問題を感じておりました。
「GLA随想3 法の継承時の鍛錬」のレポートでは、「意識のシステム」すなわち「潜在意識」「想念帯」「表面意識」の三層の相互関係に基づいて魂の因果律の全体像を明らかにしましたが、これは神理を学んでいない一般人に理解して頂けるのかどうかということが、感じていた問題です。佳子先生による一般向けの御著書や御講演では、「意識のシステム」に関する解説は、ほとんど見当たりません。これは、ほとんどの一般人にとっては、人間の内界を「魂」と「心」の二層に分けて認識することが限界であり、「潜在意識」「想念帯」「表面意識」の三層に分けて認識することは難しい、ということではないかと思われます。
魂の因果律と意識のシステムとの関係を考えてみますと、「潜在意識は魂に属する」「表面意識は心に属する」ということは常に成立すると思われますが、想念帯がどちらに属するのかという点で、次の二つの関係A,Bが考えられます。
佳子先生は会員向けの御講義の中で「“魂”を因とし、三つの「ち」を縁とし、果報として“心”が生じる」と明かされましたので、そうしますと「関係Aが正しく関係Bは誤りである」ということになります。しかし、御著書の中では三つの「ち」が縁になる、ということが明記されておりませんので、関係A,Bの何れが正しいのか曖昧になっているのではないでしょうか。魂の因果律が明かされている御著書は「あなたが生まれてきた理由」「Calling---試練はよびかける」「魂の冒険」の三点ですが、関係A,Bの双方を念頭に置いて読み進めてみますと、何れが正しいとも決め難い内容になっています。御講演の内容は精査していませんが、おそらく同様ではないかと思われます。
これは、「一般向けの御著書、御講演では、関係A,Bの何れが正しいのか曖昧にしておき、場合によって使い分ける」という方針ではないかと考えられます。「法の継承時の鍛錬」の書籍における「魂の因果律の説明」の箇所も、この方針に従って、佳子先生の御著書、御講演と歩調を合わせる内容にし、新たな概念は導入しないことが得策であるように思えます。「鍛錬内容の説明」の箇所では、例えば、「“魂”に増長慢のカルマを抱えていた人は、信次先生のお言葉を契機として、カルマのエネルギーが“心”に流れ込み、増長慢で悩乱した」という説明の仕方をすることになると思われます。この説明の仕方によれば、三つの「ち」による影響が省略されてはいますが、特に不自然な点はなく、充分に納得して頂ける内容になるのではないでしょうか。
「法の継承時の鍛錬」の書籍は社会発信の一端であるため、その編纂は開けゆく道の皆様に担って頂くことが妥当であると考えられます。ただ、書籍の編纂に取り掛かる前に、まず、GLAのホームページにて、神理を解説する鍛錬を積まれた方がよろしいのではないかと思われます。「GLA随想4」のレポートでは、「魂の学」エッセンスの中の「運命を変えよう」のページを骨格として「GLA の教義」のページを構成すべき、との考えを発表させて頂きました。この考えは正しいと思いますが、さらに「魂の因果律」の解説も付け加えると如何かと思います。
ホームページに掲載される「魂の因果律」の解説は、後に「法の継承時の鍛錬」の書籍に掲載される内容であり、過去の佳子先生の御著書、御講演の何れにも無かった「法の継承時の鍛錬の意味を解説してゆく土台を整える」という目的を有しています。従って、御著書、御講演のストラクチャーをそのまま流用するわけにはいかず、これらを参考にしつつ、弟子がストラクチャーを構築しなければなりません。ホームページ上の「魂の因果律」の解説が、本当にその目的に適ったものになっているのか、また、一般人に解りやすい内容になっているのかなどの点について、会員の皆様から意見を頂きながら改訂してゆくことにより、後に発刊される書籍の水準も高まってゆくのではないかと思われます。
「コミュニティ・デザイン2001」を遵守する必要性についてはこれまで何度か申し上げてきましたが、現在のGLAホームページの「GLAの教義」のページの内容に基づいて、その必要性について改めて説明してみたいと思います。
最初に、高橋佳子先生がご著書やご講演を通じて一般人に「魂の因果律」を説かれるときに、どのようにされているのかを振り返って頂きたいと思います。そうすると、「前置きが長い」ということに気付かれるのではないでしょうか。佳子先生は「魂の因果律」という本題に入る前に、「魂とは如何なるものか」「心とは如何なるものか」という前置きに相当のページ(あるいは時間)を割いておられます。なぜ、そこまで前置きを長くする必要があるのでしょうか。
「GLA随想3」のレポートでは「魂の因果律」と「意識のシステム」の関係について私の考えを発表させて頂きました。これは、「魂」は潜在意識に該当し「心」は想念帯および表面意識に該当する、というものですが、この考えはおそらく現在のGLAにおいては正しいのではないでしょうか。「現在のGLAにおいては」というのは、「過去のGLAにおいては違っている」ということです。信次先生のご著書「心の指針」(旧版)の122~125ページによれば、「心」とは「神仏の精を受ける場、器であり、意識の中心をなしているもの」であり、「魂」とは「心を含めて、潜在意識、想念帯、表面意識の全体」であると説明されています。
信次先生のご説明に従えば、「魂の因果律」なるものは成立しなくなります。しかし、これは、信次先生のご説明は間違っているということではありません。元々の日本語において「魂」「心」という言葉の意味や概念というものは曖昧漠然としており、「魂」「心」という言葉を如何に定義付け、また如何に使ってゆくかは、神理を説く人の方針によって違ってくるのではないでしょうか。この場合では、信次先生と佳子先生では、言葉の使い方についての方針が違っていたということです。
一般人のことを考えてみますと、特に「魂」という言葉の概念が非常に曖昧であると思われます。「魂とは心のことである」と認識している人もいるでしょうし、「魂とは幽霊のような存在である」と認識している人もいるでしょう。その認識を放置したままで「魂を因として、果報として心が生じる」などと説明されても、理解できるはずがありません。「魂」を「潜在意識」、「心」を「想念帯と表面意識」とする現在のGLAの概念は、おそらく世界中を探してもほとんど例が見られない独特のものではないでしょうか。従って、「魂の因果律」を一般人に説くためには、「魂」「心」という言葉の概念を「現在のGLAの概念」に合わせて認識して頂くことが不可欠になるものと思われます。
ここで、表面意識、想念帯、潜在意識のことを考えてみますと、表面意識は比較的認識しやすいものではないかと思われます。想念帯は、ある程度止観シートに取り組まなければ認識しにくく、潜在意識すなわち現在のGLAの概念における「魂」は最も認識しにくいものではないでしょうか。「魂」という言葉を説明するために、「魂とは潜在意識のことである」と説明することも考えられます。しかし、心理学用語で「潜在意識」という言葉は、GLAの用語では「想念帯のつぶやき」に相当するようです。これが「魂」であると誤解されては困ります。GLAの用語で「潜在意識」とは仏教の八識論でいう「アラヤ識」に相当しますので、「魂とはアラヤ識のことである」と説明することも考えられます。しかし、「アラヤ識」という言葉自体、一般人には馴染みの薄い言葉ではないでしょうか。
結局、「現在のGLAの概念」における「魂」を一般人に理解して頂くためには、数多くの事例を使って、様々な側面から概念を形成して頂くしか方法が無いように思えます。佳子先生が「魂の因果律」を説かれるときに前置きが長くなるのは、このような事情によるものと考えられます。
以上のような前提に立って、「GLAの教義」のページの内容を見てみますと、冒頭に以下の文章があり、その後に「魂の因果律」の解説が続いています。
『人間は魂の存在
わが国の高度経済成長期、人々の心が物質的な豊かさに傾いていた時代にあって、高橋信次先生は、人間の内なる次元の大切さを説かれました。人間は死んだら終わりではなく、永遠の時を生き続ける魂の存在であること、誰の人生にも目的と使命があることを訴えられたのです。「魂の学」の基には、そのように、人間を、肉体の存在としてだけではなく、魂の存在として見るまなざしがあります。忘れていた魂の感覚を蘇らせ、永遠のまなざしから一瞬一瞬を全力で生きてゆくことの大切さを教えてくれるのです。「魂の学」の中核となる理論 ――「魂の因果律」
では、私たちは、魂の存在として、この世界をどのように生きてゆけばよいのでしょうか ──。高橋佳子先生は、私たちが永遠の魂として今を生きることができる道を具体的に解き明かされています。その中核となるのが、「魂の因果律」という理論です。』
しかし、この短い文章で、「魂」という概念と、「心」という概念とを明確に区別した上で認識することは、多くの一般人の方にとって不可能なことではないではないでしょうか。「魂」と「心」を区別できなければ、「魂の因果律」も理解することはできません。
「GLAの教義」のページを作成された方は、佳子先生のご著書やご講演に基づいて社会発信の智慧を吸収できるような力をまだ育んでおられないように見受けられます。それゆえ、一般人にとって理解し難い文章をホームページに掲載してしまったのではないでしょうか。その力を育むためには、9月28日の記事にも書かせて頂いたように、「対象(会員または非会員のうち何れか一方)を限定して自らを『型』に投げ入れる」という鍛錬が必要であり、そのためにも「コミュニティ・デザイン2001」を遵守して頂く必要性を感じます。
9月27日の記事では、職員の皆様の希望に基づいてGLA公式FacebookページにてGLAの活動に関する議論が解禁されるべき、との考えを発表しましたが、ボーディ・サットヴァ・ウィズダムについての考え方が誤っていたように思いますので訂正します。
現在のところボーディ・サットヴァ・ウィズダムは在家の会員に開示されていませんが、これは在家の会員にも開示されるべきではないかと考えます。その理由は、ボーディ・サットヴァ・ウィズダムを拝読していない人がGLAの活動に関することを提案したとしても、それはボーディ・サットヴァ・ウィズダムに整合しないものになってしまい、採用できないものになる可能性が大きいためです。公式Facebookページにおける議論を有意義なものにするためには、ボーディ・サットヴァ・ウィズダムを開示して頂く必要があるのではないでしょうか。
従って、「公式FacebookページにてGLAの活動に関する議論を解禁すること」と、「ボーディ・サットヴァ・ウィズダムを在家の会員に開示すること」とはセットで考える必要があるのではないかと思われます。