「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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前日の記事にもありますように、関芳郎氏には「組織態勢に不備があるときに、(暗転の現実を引き起こすことによって)その事を教えて下さる教師」としての役割を担って頂くことになるものと考えますが、私たちはその事について関芳郎氏に対して感謝の念を抱かなければならないのではないかと思います。
これまで関芳郎氏が様々な暗転の現実を引き起こしてこられ、また今後とも引き起こすことが予定されているのは、要するに「総合本部長」を担えるだけの(本来的な意味での)「適性が無い」ということです。しかし、GLA会員を、総合本部長を担えるだけの適性が有る人と無い人に分類すると、「適性が無い」人が大多数を占めるはずです。従って「適性が無い」ということは、「大多数の中の一人」であるということに過ぎず、そのこと自体は恥ずかしいことでも忌むべきことでもないものと考えます。
高橋佳子先生が関芳郎氏を総合本部長に任命されたのは、千年の伝承を果たす磐石な組織態勢を構築してゆくためには、彼が現在担っておられる役割を誰かが担わなければならず、彼はその辛い役割を担うことを約束して出生してこれらた方だからではないでしょうか。もし、関芳郎氏が出生前に「こんな役割を担うのは嫌だ」と拒否されたならば、誰か別の人がその役割を担わなければならなかったものと考えます。
このように考えますと、自然に感謝の念が湧いてくるのではないでしょうか。
GLAの組織変革の必要性が認識できたとき、関芳郎氏が総合本部長である意味についても、さらに見えてくることがあります。
弟子の果たすべき責任が大きくなっている現在においても、高橋佳子先生が総合本部長を変更されない理由は、「ボーディ・サットヴァ・ウィズダムに示してある通りに組織変革を遂行すれば、関芳郎氏が総合本部長であっても、GLA共同体を支障なく運営できるはずである」ということではないでしょうか。 「支障なく運営できる」ということは、
・先生の示されたご指示が放置されることなく遂行される、
・7つのプログラム、千年構想を推進させてゆくことができる、
・会員に対して不合理な指示がされない、
などの形で現れてくるものと考えます。
もし、組織変革を遂行したはずなのに共同体の運営に支障が生じたとすると、それは「関芳郎氏が悪い」ということではなく、「組織態勢について、何か見落としている点や不十分な点がある」という呼びかけではないでしょうか。GLA共同体が千年の伝承を果たしてゆく過程では、問題のある人物が責任ある立場に就いてしまうということもあるでしょう。そのような事態においても大過なく共同体を運営してゆくためには、そこまで磐石の組織態勢を現時点で確立してゆく必要があるのではないでしょうか。
その意味では、関芳郎氏については、「組織態勢に不備があるときに、その事を教えて下さる教師である」と受け止めさせて頂くことが正しいものと考えます。
私のGLAに関する意見の中で、まだ取りこぼしているものがありました。それは、「GLAの組織変革」ということです。
GLA共同体の中で、このブログで取り上げさせて頂いた様々な問題が生じている背景には、「高橋佳子先生が具体的・明示的なご指示をされない」ということが一つの要因になっているように見受けられます。それは、数十年後、先生が御帰天される時を見据えて、先生はGLA共同体の方針を決定する権限を段階的に弟子に委譲されつつあり、「弟子に委譲されたことについては、極力干渉されない」という方針を採っておられるからではないかと考えます。
そうしますと、現在のGLAでは、過去と比較して「弟子が持つ権限」というものが強くなっており、その傾向は、今後も加速してゆくことが予定されているのではないでしょうか。「弟子が持つ権限」が強くなってきますと、「弟子の煩悩」も過去とは比較にならないほど強い影響を及ぼすようになり、GLAの場に様々な混乱や停滞を引き起こすようになります。
例えば、自分自身の「見栄」や「体面」に対する執着の強い人が権限を握ってしまった場合に何が起こるかを考えてみたいと思います。GLAの場に混乱や停滞が起こり、それを収束させてゆく方向に意見を表明しようとする会員が現れた際、執着の強い人は、「その意見を表明されることがGLAにとってプラスに働くのか否か」ということよりも、「その意見を表明されることが自分の体面を傷つけるのか否か」ということに関心が向き、与えられた権限を、自分自身の体面を守るために、言論を封殺するような形で使ってしまうようなことが考えられます。多くの場合、「会員が意見を表明する」ということは、GLAにとってマイナスに働くことは無いものと私は考えます。会員が表明する意見の中には、見当外れなものが含まれる場合も多いと思いますが、GLAとしては、見当はずれな意見は採用しなければいいだけであって、何も困ることは無いと思われるためです。
従って、GLAの組織の中で「弟子が持つ権限」が本来的な方向に使われているのか否か常にチェックし、必要な場合は是正してゆく機構が必要であり、「弟子の煩悩」が混乱や停滞を引き起こしにくくするような組織変革が必要ではないかと考えます。
次に、組織改革の内容を検討する前に、「先生はこの問題についてどう対処されているか」ということを考えてみたいと思います。私は、GLAの組織変革の必要性について今しがた気付いたばかりですが、これまで私が何かGLAの問題点に気付いたときは、大抵の場合、先生は遥か以前にその問題に気付いておられ既に必要な手を打っておられました。「GLAの組織変革」についても、おそらくそうされているのではないかと思います。
私は、ボーディ・サットヴァ・ウィズダムというものを拝読したことはありませんが、おそらく「コミュニティ・デザイン2001」あるいは、その他のボーディ・サットヴァ・ウィズダムに、「GLAの組織変革」について必要な事は全て開示されているのではないでしょうか。おそらく、その中には、「弟子の煩悩」が混乱や停滞を引き起こしにくくするような智慧が随所に盛り込まれているものと考えます。そうしますと、現にGLAの場に混乱や停滞が起こっているのは、ボーディ・サットヴァ・ウィズダムの内容が放置され実現されていないからではないかと考えざるを得ません。
もし、先生が組織変革について充分な内容を開示されていないのであれば、組織変革の内容は弟子が検討する必要があるということになります。もし、その必要があるならば、「7つのプログラム」に「GLAの組織変革」というプログラムが付け加えられたはずであり、「7つのプログラム」の中にそのようなテーマが見当たらないということは、「弟子は組織変革の内容について検討する必要はなく、先生が示された通りの事を実現すればよい」という意味に理解してよろしいのではないかと考えます。
従って、組織変革について弟子の果たすべきことでは、月並みではありますが、「先生が示された通りの事を実行する」ということに尽きるのではないでしょうか。
このブログの先頭の記事(ブログ開設のご挨拶)にありますように、私はGLA総合本部から、「GLA総合本部の方針に托身して研鑽奉仕されている会員の皆様に無用の混乱を招き、ご心配をかけることになる」という理由により、「ホームページ草案をインターネット上で発信することはやめるよう指示します」「この指示は、内容を再検討して頂きたいという意味ではなく、このホームページの発信自体を今後ともやめるよう指示するものです」とのご指示を頂きました。
私は、このご指示はおかしなものであると思いましたので、このブログにて「当該ご指示は撤回して頂くべき」との主張を展開しようかと考えたこともありました。今日までそれを実行しなかったのは理由があります。それは、私に対するご指示を撤回して頂くかどうかという問題は、直接影響を受けるの人が私一人であり「小さな問題」に過ぎないのではないかと思われたためです。一方、本ブログでとりあげたかった問題は、GLA全体に関わる「大きな問題」でした。
「大きな問題」の一つの側面は、一昨日の記事にありますように、「自由な議論を通じて多くの人の智慧を結集しない限り、千年構想は進まない」という認識がGLAの中で共有されるようにする、ということであると考えることができます。もし、それが達成できたのであれば、私に対して情報発信を禁じたGLA総合本部のご指示について、「そのご指示は明らかにおかしなものであり、考慮する必要は無い」との認識を誰しもが持てるようになるのではないでしょうか。このように、「大きな問題」に対して解決の道をつけてゆけば「小さな問題」は自ずと解決してゆくことであり、「小さな問題」は横に置いて「大きな問題」に意識を集中して頂くことが正しいのではないかと思っておりました。
しかし、今後GLAにおいて、弟子が青写真にアクセスし具現してゆく過程を考えますと、一度発表した「総合本部の方針」を撤回する必要性に迫られる場合がしばしば生じるのではないかと思います。その際に見栄や体面を気にして方針の撤回を躊躇していますと、歪みがどんどん大きくなるのではないでしょうか。「間違い」というものは誰にもあることですから、「方針が間違っていた」と認識できた場合には、一度発表した方針を撤回し、原点に戻って再検討する風土を育むことも大切なことではないかと思います。私に対するご指示を撤回して頂くということは、「GLA総合本部が書状によって会員に一度指示したことを撤回する」ということであり、それが果たせるようになれば、他の様々な方針についても「撤回すべきものは速やかに撤回する」ということが果たせるようになるのではないでしょうか。
このように、「私に対するご指示を撤回して頂く」ということは、「小さな問題」のように見えて、実は「大きな問題」に道をつけてゆくことになるのではないかと考え直しました。それゆえ、GLA総合本部は、私に対して情報発信を禁止したご指示を速やかに撤回して頂くことが必要ではないかと考えます。蛇足になるかもしれませんが、当該ご指示が「おかしい」と思う理由について、以下説明します。
(1)まず、書状の中にある「GLA総合本部の方針」という言葉についてですが、これには二種類あります。一つは「高橋佳子先生が示された方針」であり、もう一つは「弟子が示した方針」です。両者は全く次元の異なるものであり、「GLA総合本部の方針」という言葉を使うときには、どちらを指しているのか明確に意識化すべきではないかと考えます。
(2)「高橋佳子先生が示された方針」について、弟子は「疑問を持つ」ことは許されることかと思いますが、「まずは托身してその方針に従う」という態度を取ることが大切であると考えます。托身しなければ、先生が示された方針の意味についても、結局は解らないままになるのではないでしょうか。その意味では、私が総合本部に提出した「ホームページ草案」および本ブログの内容は、全く問題が無いものと考えます。私は、「高橋佳子先生が示された方針」(と思われるもの)を尊重しておりますし、異論を唱えたという認識はありません。先生が示された方針に托身して研鑽奉仕されている会員の皆様に対して、「無用の混乱を招き、ご心配をかける」ような余地は全く無いものと考えます。
(3)一方、「弟子が示した方針」については、青写真から外れたものが混入する危険が大きく、議論と検証を通じて軌道修正してゆくこととが最初から予定されているものと考えます。そのような方針に無条件に托身している人が実際に存在しているとすると、その事自体が問題ではないでしょうか。従って、総合本部から会員の皆様に対して、「これは托身するものではなく、議論と検証が必要なものである」ことを共有して頂き、広く意見を求めることも必要ではないかと考えます。それによって「無用の混乱を招き、ご心配をかける」ということもなくなるものと考えます。
今後のことについて考えておりますことも認めさせて頂きたいと思います。
おそらく数年後か十数年後に、GLA公式Facebookページにて、GLAの方針に関する自由な議論が解禁される時が訪れると思います。それは単に「規制が解除される」ということにとどまらず、「自由な議論を通じて多くの人の智慧を結集しない限り、千年構想は進まない」 という認識がGLAの中で共有されるようになるのではないかと思っています。
その際には、私が「非会員」という立場でこのブログを公開し続ける意味もなくなると思いますので、このブログを閉鎖してGLAに復帰させて頂きたいと思います。 ただ、そのときは「ブログを続けるのも閉鎖するのもあなたが自由に決めて下さい。どちらにしてもGLAは何も困りません」言われるのではないかと思います。そのような度量の大きさがなければ、千年の伝承を果たすことなど無理ではないかと思われるからです。
復帰までの期間は、「法華経に基づく伝道」および「高橋信次先生の法の復活」について、もう少し資料を精査してヴィジョンを詰めてゆきたいと思います。その結果、発表できるようなものがまとまれば、またこのブログにて発表させて頂くつもりです。