「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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先生が既に青写真を開示されたもう一つのテーマとして、八ヶ岳での「止観シート研修I」が挙げられます。この青写真に関連して私が頂いた学びについても紹介させて頂きたいと思います。
「八ヶ岳で止観シートの研修を実施する」という方針を見出すことは難しかったと思いますが、「内界を見取る行について、なんらかの形で特別な研修を実施する」ということであれば、必要性を見出すことはさほど難しいことではなかったと思います。
従来より、GLAの中でも、「止観シートになかなか取り組めない」という方が散見されました。それは「本人は取り組もうと努力しているし、周囲の方も同伴して下さっているのに、なかなか取り組めない」という意味です。
そして、「先生のご著書の傾向の変化」ということも感じている方は多いのではないでしょうか。以前のご著書(例えば「グランドチャレンジ」「新しい力」など)は、ある意味では読者に対して「内界を見取る力」を要求するご著書であり、「内界を見取る力」を育んでいない方には読み進めることが難しい面があったのではないでしょうか。従って、これらのご著書に共感され入会された方は、入会時点で「内界を見取る力」を相当に育んでおられる傾向が強かったのではないかと思われます。
一方、最近の先生のご著書については、「読みやすくなった」という方が多くおられますし、私もそのように感じます。それは、「内界を見取る力を駆使しなくても読み進めることができ、共感できる」ということであり、最近入会された方々の中には、「内界を見取る力」をあまり育んでこられなかった方の割合が増えているのではないでしょうか。
このように考えますと、「止観シートになかなか取り組めない」という方が増加しつつあることは予測できますし、その方々のために、なんらかの形で特別な研修を実施する必要性についても見出すことができるのではないでしょうか。すると、その「特別な研修」とは何なのか、ということが問題になります。
私は、そもそも会員全員に止観シートの取り組みをお奨めすることに無理があり、さらに取り組みやすいシートを開発すべきであると考えました。悟りの九段階の表によれば、止観シートに取り組めるようになる段階は、第三段階「止観体得」であり、それ以下の段階では難しいということが解ります。第二段階の方については、「もう一段階上に行けるように努力しましょう」ということで構わないのかもしれませんが、第一段階の方については、「かなり無理がある」というのが私の正直な考えでした。止観シートになかなか取り組めない方がおられるのも、それを裏付けているのではないでしょうか。
私は、具体的には、受発色を見取る「受発色シート」というものの構想を描きました。止観シートは内界の働きを「感覚」、「感情」、「思考」、「意志」の四段階に分けるから難しいのであって、「受信」と「発信」の二段階に分けることであれば、容易にできるのではないかと思われました。また、「GLA随想2」のレポートの「煩悩地図の原理」の節に認めましたように、受発色の主要な三系列は、「感覚」、「感情」、「思考」の三つの極と深い関係があります。この点を心に置きながら「受発色」を見つめて頂くと、「感覚」、「感情」、「思考」の働きについてリアリティを育むことができ、止観シートへの取り組みに道を付けてゆくことができる、とも考えられました。これにより、私が「研鑽の充実」について最初に描いたヴィジョンは、「受発色シートの研修」と「止観シートの研修」の二段構えのものでした。私はこのヴィジョンを先生および事務局内のある方に対して、その旨を報告させて頂きました。
その後、八ヶ岳にて止観シートの研修を実施することがGLA誌にて発表されました。これは、「研修を二段構えにすることは正しいが、内界を見取る行は、あくまでも止観シートでなければならない」という解答を先生が示して下さったことになります。そこに若干の無理が生じるのは避けられないことであり、困難な挑戦を果たして頂くために「自然環境の中での禅定」や「自然食」などの要素も取り入れて、「色心両面からサポートする」という方針が打ち出されたものと私は理解しています。
私は、「なぜ止観シートでなければならないのか」「受発色シートでは何が問題なのか」を検討しました。おそらくそれは「受発色シートを導入してしまうと、そこに安住して止観シートに挑戦しなくなる人が出てくる」ということではないかと思います。
以前に先生は、「誰もが愚直に学べば第五段階の真我遠望まで歩んでゆける」と語られたことがありました(GLA誌2000年5月号37ページ)。すると、人生の最終到達目標は、どなたも第五段階以上であるはずであり、第三段階「止観体得」は、どなたにとっても「中間目標」に過ぎないことが解ります。この「中間目標」以前の段階で安住してしまうことは残念なことであるため、「第三段階以前の段階で安住できるようなシートは導入しない」「多少の無理があっても早く中間目標に到達して頂き、縁覚段階の悟りに挑戦して頂く」ことが正しい方針ということではないかと思われます。
但し、私は受発色シートが完全にボツになったとは思っていません。止観シートに取り組むことで問題が予想される人(例えばノイローゼ気味の人は精神が不安定になるかもしれません)については、有用なシートになるのではないかと考えています。
7つのプログラムに関して「高橋佳子先生に早く解答を開示して頂きたい」と思われている方も多いと思います。そこで、先生に解答を開示して頂くということがどのようなことであるのか考えてみたいと思います。
青写真にアクセスする鍛錬は、解答となる青写真が開示されてしまいますと、その時点で完全に終了し、それ以降は全く鍛錬に取り組むことができなくなります。つまり、先生からテーマを頂いた後、青写真が開示されるまでの期間は、鍛錬に取り組むことができる貴重な期間であり、その期間内に鍛錬を行なわなければ、後でどれだけ後悔しても取り返しがつかないのではないでしょうか。私自身が具体的にどのような形で鍛錬に取り組み、果報を頂いたのか、「特別供養」の例を挙げて紹介させて頂きたいと思います。
2008年善友の集いでは、「GLAが希望者から遺骨を預かる」ということが発表されました。私はこの発表をお聞きして大変驚きました。「GLAが遺骨を預かる」ということは全く想像したこともなく、あり得ない話ではないかと思いました。しかも、なぜGLAが遺骨を預かるのか、その際には全く説明がありませんでした。これは、「なぜ遺骨を預かるのか、どのようにして遺骨を預かるのか、その青写真にアクセスせよ」というテーマを先生から頂いたものと思い、私は青写真へのアクセスに挑戦しました。
「GLAが遺骨を預かる」ということは、「GLAに遺骨を預かってほしい」と希望する会員が相当数おられたということが背景になっているように思われました。その方々は、はっきり申し上げて「遺骨に対する執着を捨てられない」ということなのでしょう。執着を捨てられない理由は、「永遠の生命」ということが実感できていないからではないかと思われました。そうしますと、その方々に対してGLAが果たすべきことは「永遠の生命という実感を恢復すること」であり、GLAが遺骨を預かるのは、正にそのための介在であることに気付きました。
そのとき、私の心の中に「合同法要」というヴィジョンが浮かんできました。それは、遺骨を預けておられる方々には、年に数回程度の「合同法要」に参加して頂き、その場では「永遠の生命」を実感して頂けるようなプログラムを実施する、ということです。私は「弟子が合同法要を企画立案することが呼びかけられている」と確信しましたので、先生および事務局内のある方に対して、その旨を報告させて頂きました。
その後、しばらくして「特別供養」を実施するとの案内がGLAから発信されました。この「特別供養」は私が思い描いていた「合同法要」よりもはるかに素晴らしいものであり、しかも遺骨を預けておられる方々に限らず、広範囲の皆様に参加して頂けるものでした。この「合同法要」のヴィジョンは私以外の人にとっては全く無価値なものですが、私にとっては貴重な宝です。この「合同法要」のヴィジョンと「特別供養」の内容を比較すると、「私には何が足りないのか」「より高い境地を獲得してゆくには何が必要なのか」ということが見えてくるからです。「特別供養」には多分に霊的な側面が含まれており、このような霊的な側面について青写真にアクセスすることは元々難しかったのではないかと思います。しかし、「特別供養」とは「参加者個人」と「物故者個人」との関係が大切にされているのに対して、私が思い描いていた「合同法要」には、その点がすっぽりと抜け落ちていました。
私に限らず、「遺骨をお預かりする青写真」について真剣に検討された方は、それぞれに貴重な宝を頂いたのではないでしょうか。しかし、真剣に検討されなかった方は、宝を手にすることはできなかったはずです。「今からでも挑戦しよう」と思われたとしても、解答となる「特別供養」の青写真が開示された今となっては、挑戦のしようがありません。この鍛錬は、未来永劫、誰も受けることができなくなりました。
「特別供養」の青写真は確かに開示されてしまいましたが、それ以外の7つのプログラムの青写真は、先生からほとんど開示されていません。これらの青写真をどのようにして頂いたらよろしいでしょうか?「鍛錬などいらないから、早く開示して頂きたい」と思われるでしょうか。それとも、「開示することをもう少しだけ待って頂きたい」と思われるでしょうか。
5月23日の記事「GLA公式Facebookページについて」にありますように、現在ではGLA公式FacebookページにてGLAの活動に関する議論が制限されていますが、将来はこの種の議論が解禁されるのではないかと考えられます。
GLAの活動に関する議論が解禁されますと、7つのプログラム等に関してその時点で方針が打ち出されていないテーマについて議論が湧き上がることが予想されます。そうしますと、職員の皆様は、会員の皆様の要請に押されて、各テーマについて方針を発表して進捗させざるを得なくなるのではないでしょうか。
その場合には、本ブログのご提案内容は「最低限の水準」になるのではないかと思います。つまり、本ブログよりも見劣りする方針案を発表したとしても、会員の皆様の賛同を得ることができないのではないでしょうか。但し、私は本ブログで提案させて頂いた内容が必ずしも正しいとは思っていません。それは、「私自身の智慧の限界」ということもありますが、私は「ボーディ・サットヴァ・ウィズダム」というものを拝読したことがないからです。GLA共同体のヴィジョンの大枠はボーディ・サットヴァ・ウィズダムに記載されているはずであり、弟子が描くヴィジョンはこれに整合し響き合うものでなければならないはずです。私自身は、本ブログの内容がボーディ・サットヴァ・ウィズダムにどこまで整合しているのか検証のしようがありませんので、「どこまで正しいのかよく解らない」というのが正直なところです。
しかし、職員の皆様はボーディ・サットヴァ・ウィズダムを拝読できるわけですから、本ブログの内容のうち同ウィズダムに整合していない部分を修正して頂くことが可能であると思います。そして、その過程を経ることによって、本ブログの内容よりも一層青写真に迫る方針案を打ち出すことができるのではないかと思われます。そして、在家の会員の皆様も、職員の皆様に対して、そのことを期待されるのではないでしょうか。
このように、GLA公式FacebookページにてGLAの活動に関する議論が解禁されると、職員の皆様は、7つのプログラム等について、少なくとも本ブログと同等かそれ以上の水準のものを打ち出さざるを得なくなることは間違いないのではないかと思われます。そうしますと、職員の皆様に残されている選択肢は、
という二者択一になるのではないでしょうか。しかし、在家の会員の皆様の声に押されて動かされるというのは、あまりにも見栄えが悪いのではないかと思いますし、それでは「押し上げる力」と響働できる「引き上げる力」を発揮することもできないのではないかと思われます。ぜひ、議論が解禁される前に、前者の選択肢を選び取って頂きたいと思います。それは、「セクショナリズムを脱し、GLA共同体の動向全般について一人一人が責任を負う」という風土を醸成してゆくということでもあります。
本ブログの内容を振り返ってみますと、特に「法の継承時の鍛錬」について実例が不十分であるかもしれません。それは、分派の方々が発刊した書籍を私がほとんど読んだことがないためです。6月20日の記事にて、高橋一栄会長と高橋興和講師のお二人に如是我聞して頂く必要性について触れさせて頂きましたが、他の方々についても如是我聞して頂く必要性があるのかどうか、および如是我聞の内容について、もう一度検討して頂く必要があるのではないかと思われます。そのためには、分派の方々が発刊した書籍などを入手して内容を充分に精査して頂く必要があるのではないでしょうか。
法の継承時の鍛錬については、「GLA随想3」のレポートにて私の考えを発表させて頂きましたが、この点についてGLAからなんらかの形で(例えば書籍として)公式見解を発表して頂く必要があるのではないかと考えています。 それは、分派の方々の誤解を解き、神理を学ぶ場を再び統合してゆく ことが呼びかけられているのではないかと思われるためです。
私のレポートの内容については、GLAに対して著作権などを主張するつもりはありませんので、自由に使って頂いて結構ですが、「GLA随想3」のレポートの内容をそのまま公式見解にしたとしても、「これはGLAにとって都合のいい解釈を並べているだけでしょう」などと言われ、分派の方々の理解を頂くことは難しいのではないかと考えています。
同レポートの内容は、まだ「理論」「仮説」の段階であり、分派の方々の理解を頂くためには「実証」が必要ではないかと考えます。そして、「実証」を果たすためには、法の継承時に鍛錬を受けられた方々のうち、GLAに残った方々による「如是我聞」が必須ではないでしょうか。GLAに残った方々のうち鍛錬を受けられた方々がどなたであるのか、私は詳細には存じませんが、少なくとも高橋一栄会長と高橋興和講師のお二人は、含まれているのではないかと考えています。
まず、高橋一栄会長について考えてみたいと思います。「GLA随想3」の中で挙げさせて頂いたS氏が発表した情報によりますと、大講演会の席上で佳子先生が一栄会長に向かって「あなたは私を産んだことを感謝しなさい」と仰り、一栄会長はひざまづいて「あなた様を産ませて頂いたことを感謝します」と仰ったことがあったそうです。S氏は、この出来事に対して「良識ある人々のひんしゅくを買った」と評していましたが、確かに表面上の出来事だけをとらえると、そのように言われても反論のしようがありません。
S氏が発表した他の情報によりますと、法の継承直後の時期には、一栄会長は佳子先生に対して不信感、猜疑心を抱いておられたようであり、この不信感、猜疑心が上述の出来事の背景にあったのではないかと考えられます。例えば、一栄会長は大講演会の際に「こんな娘など産まなければよかった」とふと想われたのではないでしょうか。その瞬間、その想いを佳子先生が察知され、上述のように仰ったのではないかと私は推測しています。
一栄会長が佳子先生に対して不信感、猜疑心を抱かれたとすると、その原因は信次先生が一栄会長に課された鍛錬によるものではないでしょうか。すなわち、一栄会長は元々不信感、猜疑心を抱きやすいカルマを持たれており、そのカルマのエネルギーを最大限に引き出すように信次先生が関わられたのではないでしょうか。
実際のところどうであったのか、真相は一栄会長から発表して頂かなければ解りませんが、背景の説明が無いままに表面的な出来事ばかりが伝わってしまいますと、これは佳子先生に対する誤解を今後とも生み出し続ける要因になり、未来千年に渡って禍根を残してしまうことになるのではないでしょうか。一栄会長には、「如是我聞」という形で真相を開示して頂く必要性を感じます。
次に、高橋興和講師について考えてみたいと思います。S氏が発表した情報によりますと、 白浜研修会の際、興和講師は「高橋信次先生はニセモノである」「この研修会が終ったら私はGLAをやめる」という発言をされたようです。このことから、興和講師も元々不信感、猜疑心を抱きやすいカルマを持たれており、やはりカルマのエネルギーを最大限に引き出すように、信次先生は興和講師に対しても関わられたのではないでしょうか。従って、興和講師にも「如是我聞」という形で真相を開示して頂く必要性を感じます。
お二人の他にも鍛錬を受けられた方々はおられるかもしれませんが、如是我聞をして頂くことは必ずしも容易ではないと思われます。それは、S氏の事例から推察しますと、鍛錬は相当に厳しいものであったように見受けられ、鍛錬を受けられた方々が、「もうこの話は忘れてしまいたい。蒸し返さないでほしい」と思われていても不思議ではないからです。
如是我聞を実現してゆくためには、職員の皆様によって「同苦同哀」の風土を事務局の中で育んで頂く必要があるのではないでしょうか。S氏の事例について振り返ってみても「内界の闇を看取り浄化すること」はなかなか難しいものであることが解ります。私自身も、もしS氏と同じような形で鍛錬を受けていたら、同じように悩乱してしまったのではないかと思います。そのように考えますと、一人一人が鍛錬を「自分自身のこと」として引き寄せることは難しいことではないと思います。
また、実際に鍛錬を受けられた方々は、全ての弟子を代表して厳しい鍛錬を受けられたわけですから、そのことを思いますと、「畏敬」と「感謝」の念も自然に湧いてくるのではないでしょうか。
前記事を投稿した後にふと考えたことがありました。前記事は、「映像配信システムを高齢者や病気の方などのために使わせて下さい」と先生に願い出られた職員がおられたことを前提として、その後のことを考察したものでした。しかし、この前提は、本当に正しいものでしょうか。
ひょっとすると、このように願い出られた職員は一人もおられないのかもしれません。そうであったとしても、それが「GLAの偽らざる現状」ということでしょうから、愛の心を育まれ、そこから一歩前に進まれればよろしいのではないでしょうか。他にできることは無いようにも思えます。