「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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GLAの歴史を振り返りますと、法の継承時の鍛錬、会員の選抜など、様々な方々に痛みを背負って頂いたという事実があるのではないでしょうか。千年の伝承の基礎を整えるためには、一部の方々にそのような痛みを背負って頂く必要があったのではないかと思います。
関芳郎氏も、痛みを背負って下さった方の一人であり、その点について感謝と畏敬の念を忘れてはならないのではないかと思います。
前記事に述べましたように、関芳郎氏が「高橋佳子先生をお証しする」という使命を果たされるために、総合本部長職を辞任されることが呼びかけられているのは、正しいことであると考えます。しかし、彼が発心されることをただ待っていても、おそらく彼は発心されないのではないでしょうか。
彼の発心を促すためには、「彼が総合本部長職に留まっている事による弊害」を明らかにしてゆく必要があるのではないかと思われます。GLA誌やGLAホームページから私自身が読み取れた範囲の弊害であれば、概ねこのブログで開示できたと思いますが、そのような形で表面に現れていない弊害も多数存在するのではないでしょうか。それらについては職員の皆様がよくご存知のことかと思いますので、弊害の内容を一つ一つ明らかにして頂きたいと思います。「明らかにする」というのは、このブログのようにインターネット上に公開するという意味ではなく、弊害の内容を関芳郎氏が明確に認識できるようにして頂くということであり、彼自身が自らの進退について妥当な判断ができるような縁になって頂くということです。
もう一つ重要であると思いますことは、GLAと法華経の関係について、有志の方々によって基礎研究を進めて頂くことではないかと思います。それは、本年1月13日の記事(GLAと法華経:書籍の編纂について(3))にて述べましたように、基礎研究が充実してくることにより、関芳郎氏も目を覚まされ、書籍の執筆を発心されるのではないかと思われるためです。ただ、これまでの記事では「有志の方々」として「在家の会員で法華経に詳しい方々」を想定していましたが、職員の皆様も法華経を学ばれ、基礎研究に参画して頂くことが呼びかけられているのではないかと思います。その理由は、「基礎研究を充実させる」という事は、回り道のようにも見えますが、事務局のはたらきを正常化してゆくための唯一にして最短の道であると考えられるためです。
関芳郎氏が総合本部長に留まっておられることについて、本ブログでは何度か私の考えを述べさせて頂きましたが、私の考えは様々変遷してきました。普通に考えると、彼は総合本部長として不適任であるとしか思えないのですが、彼を総合本部長に任命されたのは佳子先生であり、それは神の御意志であるはずです。それゆえ私は、彼が総合本部長であることの意味を肯定的にとらえてその意味を見出そうとしてきましたが、今ひとつすっきりした解答にたどり着くことができませんでした。
しかし、昨年12月19日の記事(有余の菩薩について(2))で述べさせて頂いたように、「至らない点を露呈して佳子先生からご指導を頂くこと」が有余の菩薩の使命であるとすると、佳子先生が彼を総合本部長に任命された理由についても、かなりすっきりと納得できるのではないかと思います。2008年以前のことを考えますと、「至らない点を露呈して佳子先生からご指導を頂くこと」は総合本部長の重要な使命であり、それは未来千年のために必要なことでした。その使命の事を考えますと関芳郎氏は総合本部長として適任であり、また、実際に彼はその使命を充分に果たされてきたのではないでしょうか。
一方、2009年以降は、7つのプログラムなど弟子が具現を果たすべき時代に入ったたため、「弟子の果たすべき具現をリードすること」が総合本部長の重要な使命になったのではないでしょうか。「至らない点を露呈して佳子先生からご指導を頂くこと」と「弟子の果たすべき具現をリードすること」とは、求められる素養が正反対に異なりますので、一人の人物が双方の使命を果たす事はそもそも不可能であったと思います。それゆえ、関芳郎氏には、速やかに総合本部長職を辞任して頂くことが呼びかけられているのではないかと思われます。
関芳郎氏が現に総合本部長職に留まっておられるのは、佳子先生が彼に対して辞任を示唆されていないからではないでしょうか。示唆されていない理由の一つは、その事に彼自身が気づくのを待たれているという事にあると思います。もう一つ重要な理由として考えられますのは、彼には「総合本部長職を辞任された後に何を果たされたいのか」という願いを明確にして頂く必要があり、その願いが表明されない限り、仮に彼が辞任を願い出ても佳子先生が承認されないのではないかと思われることです。彼が表明されるべき「願い」とは、このブログで何度も述べてきましたが、GLAと法華経の関係を明らかにすることによって「高橋佳子先生をお証しする」という使命を果たされる事であると考えます。そして、その使命を果たすために残りの人生の時間を使ってゆくためには、多忙な総合本部長職を辞任されることが最適ではないかと思われます。
前記事では、四聖日の前半のプログラムを例として、「将来は(具体的にいつからそうなるかは解りませんが)、佳子先生は大まかなコンセプトだけを指示され、細かい点については全くご指導がなく、全て弟子に委ねられるようになる」という考えを述べさせて頂きました。「具体的にいつからそうなるかは解りません」というのは、「何年後」という形で時期を示すことができないという意味ですが、「何が起こった時にそうなるのか」という事であれば、一つの可能性として予測できる事があります。
それは、担当職員の世代交代が起こり、佳子先生よりも20年、30年若い世代の方々(現在の青年層、青年シニア層の方々)が担うようになって暫く経った時かもしれない、ということです。昨年12月19日の記事(有余の菩薩について(2))で述べさせて頂いたように、「至らない点を露呈して佳子先生からご指導を頂くこと」が有余の菩薩である初代弟子の使命であるとすると、現在の担当職員の方々はその使命を果たされていることになります。その考えが正しいとすると、次世代の担当職員の使命は、「ご指導を頂くことなく(あるいは僅かなご指導に基づいて)具現を果たす」という事になろうかと思いますので、その点で使命の内容が異なるのではないかと考えられます。
その使命を成就してゆくために最初に果たすべき仕事が、その分野について過去に頂いたご指導を整理し刻印すること、すなわち「歴史の整備」を果たすことではないでしょうか。そうしますと、その分野の「歴史の整備」は、担当職員の世代交代が始まった時にスタートすべきことであり、現時点ではスタートできないのではないかと思われます。
ただ、上述しましたことは、「現在の青年層、青年シニア層には、それだけの智慧者が揃っている」ということが前提になっています。私は、その世代の方々についてほとんど何も存じておりませんので、この前提がどこまで正しいのかよく解らない点があります。また、現在の職員の方々が抱いている可能性についても、私にはよく見えておらず、低く見積もり過ぎているのかもしれません。しかし、もし「大まかなコンセプトを示されただけで四聖日の前半のプログラムを担うことは無理だ」と現在の職員の方々が思われるのであれば、それはおそらく本当に無理なことであって次世代の方々に委ねるしかないのではないでしょうか。
もし、青年層、青年シニア層の方々にそこまでの期待をかける事が妥当であるとすると、当面の期間、初代弟子が果たすべき「歴史の整備」とは、「法の継承時の鍛錬の意味を明らかにする」という一点に絞っても構わないのではないかとも思えます。このテーマについては、実際に信次先生から鍛錬を頂いた方々の如是我聞が無ければ完結しないため、次の世代に委ねることが出来ないのではないでしょうか。
私は、これまで「数年後には佳子先生が7つのプログラムの全てのテーマについて100点満点の解答を開示される」という事を前提として考えてきましたが、さらに深く考えてゆきますと、この前提は誤っているかもしれないと思えてきました。つまり、7つのプログラムについて弟子の果たした具現に問題があることを認識されていたとしても、佳子先生はご指導を下さらないかもしれない、という事です。
そもそも「7つのプログラムが数年程度で終わる」という考え自体が誤っているのかもしれません。一例として「歴史の整備」について考えてみたいと思います。現在、「聖書の研究」が世界各地で行われており、様々な文書がいつの時代にどのように成立してきたのか等の探求が進められています。「GLAの歴史」というものも、これと同様に、一つの「学問の分野」のようになって探求が進められるかもしれません。すると、これは数年程度で終わることではなく、何百年もかかることではないかと思えてきました。
また、「研鑽の充実」について考えますと、現在のGLAにおいて、会員お一人お一人の条件とライフスタイルに応じた「最適な研鑽システム」の青写真は存在するはずです。しかし、時代が変遷し、世界に神理が広まってゆく過程を考えますと、土地と時代に応じて条件やライフスタイルは変わってくるはずですから、「最適な研鑽システム」も変わってくるのではないかと考えられます。すると、「研鑽の充実」は、いつまで経っても終わらないテーマであると考えることが正しいのではないでしょうか。
従って、佳子先生に7つのプログラムの解答を開示して頂いたとしても、それは「現時点において必要充分な解答」という事にとどまり、「未来千年に渡って通用する解答」ではないという事になります。7つのプログラムは、未来千年に渡り、それぞれの国や時代において弟子が探求してゆかなければならないことであるため、現代日本においても佳子先生が全てのテーマについて解答を開示されるというわけではないかもしれません。
このように考えてゆきますと、「歴史の整備」についてさらに見えてくることがあります。「歴史の整備」について佳子先生から頂いたテーマは「GLA40年を振り返り、未来千年の礎とする」であったと考えます。このテーマを逆に読むと、「41年目以降のGLAは、未来千年の礎にならない(少なくともならない場合がある)」という事になります。最初の40年において、「GLA共同体の具現の水準」は、「信次先生、佳子先生の具現の水準」に等しいものでした。それゆえ、それは未来千年の礎になるものではないでしょうか。一方、41年目以降、佳子先生が解答を示されない事項について「GLA共同体の具現の水準」は「弟子の具現の水準」ということになり、どうしてもレベルが下がってしまいます。それゆえ、その事項については未来千年の礎にはならない、という事ではないでしょうか。「佳子先生が解答を示されない事項」の先駆けとなるものが「7つのプログラム」であるのかもしれません。
佳子先生が解答を示されない事項は、7つのプログラムに限られるものではなく、今後とも増えてゆくことが予想されます。例えば、四聖日の前半のプログラムについて、現在では佳子先生が細かい点までご指導されているのではないかと思います。しかし、将来は(具体的にいつからそうなるかは解りませんが)、佳子先生は大まかなコンセプトだけを指示され、細かい点については全くご指導がなく、全て弟子に委ねられるようになるのではないかと考えられます。逆に、そのように弟子の担う責任を段階的に増やしてゆかないと、佳子先生がご帰天された後に対応できなくなるのではないでしょうか。
このような形で弟子に委ねられた事項は、不用意に進めてしまいますと大変に出来の悪いものになってしまいます。それを避けるためには、「過去、四聖日の前半のプログラムについて如何なるご指導を頂いたのか」という事を整理し刻印しておく必要が生じます。これは言葉を変えると「GLA40年(過去に頂いたご指導)を振り返り、未来千年(今後果たすべきこと)の礎とする」という事であり、「歴史の整備」そのものではないでしょうか。このように、弟子の担う責任が拡大してゆく事と並行して「歴史の整備」の内容も多岐に渡り充実してゆくものと思われますし、また、そうしてゆかなければならないものと思われます。