「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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前記事では「通信ネットワーク環境の整備」について、佳子先生は一人の例外もなく全ての職員が発心して動こうとされることを待たれているのではないか、との考えを発表させて頂きましたが、これに加えて7つのプログラム全般についても「自ら発心して動くことができない人」が徹底的にターゲットにされているのではないかと思われました。つまり、「自ら発心して動くことができる人」にはことごとくストップがかけられ、「できない人」が動かない限り何も進まないようにされているのではないでしょうか。そのように考えますと、5年経っても7つのプログラムが全く進捗しないというのも、ある意味では自然な結果と言えるのかもしれません。
わざわざ「できない人」に動いて頂く理由は、直接的には、その人にとって「過去世に獲得したことのない新たな境地に挑戦して頂く」という事であると思われます。そこにどれほど大きな意味があるのか実感的に理解しにくい面があるかもしれませんので、「7つのプログラム」ということからは若干外れますが、「聞く・吸い込む・変わるの行」を例として、「できない人」に動いて頂くことの意味を考えてみたいと思います。
2000年頃、TL経研の皆様は佳子先生のお誘いによって「聞く・吸い込む・変わるの行」に取り組まれたようです。中でも、レーザー機器等の輸入販売会社を経営されている方の実践報告は、御著書「新しい力」にも掲載されており、印象に残っている方が多いのではないでしょうか。御著書ではその方は「内藤さん」という仮名で表記されていますので、ここでも「内藤さん」と呼ばせて頂くことにしましょう。内藤さんの実践はとても印象に残るものであったため、GLAの中で「聞く・吸い込む・変わるの行」に最初に取り組まれたのはTL経研の皆様である、と思っておられる方が多いかもしれません。しかし、それは間違いであり、TL経研の皆様よりも先に取り組まれた方を少なくとも一人、私は存じています。
その方は、病院経営をされている方であり、ここでは「Aさん」と呼ばせて頂くことにします。以前、佳子先生とAさんが対話されている御映像を拝見したことがあり、その中にこの行のお話が含まれていました。対話内容のメモは取っていなかったため、お言葉の内容は不正確ですが、佳子先生は「Aさんは、病院スタッフの皆さんに、どうか私の足りないところがあったら何でも言って下さい、院長の前で院長の悪口を言ってもいいのですよ、と仰ってるのよね?」と問いかけられました。それに対してAさんは「ええ、ええ」と一言だけ返事をされました。この僅か数秒程度で「聞く・吸い込む・変わるの行」の話は終わってしまい、その後、対話は別の話題に移ってしまいました。
私がこの対話の内容を記憶しているのは、その時に「Aさんには、もっと詳しい実践内容を開示して頂くべきではないだろうか。その実践報告を必要としている方は多いのではないか」とふと思ったことによるものです。しかし、その後もAさんによる実践報告は実現することはありませんでした。それに代わって、その後に佳子先生のお誘いによって行を実践された内藤さんの実践報告がGLAの中でクローズアップされることになりました。
なぜAさんの実践報告ではいけなかったのでしょうか。Aさんは誰にも教えられることなく御自身で行の内容を見出され取り組まれたのだと思いますが、そこには困難や葛藤というものが無く、自然に出来てしまったことではないかと思われます。仮にAさんに実践報告をして頂いたとすると、Aさんに倣って自分も実践してみようと発心される方は出てくるでしょう。しかし、周囲の方が「協力したくない」という態度を示されたなら、実践を諦めてしまうかもしれません。協力して頂けないのは「周囲の関係が捩れている」ということであり、そのような場合にこそ、何としても協力して頂く必要があるのではないでしょうか。このように、本当にこの行を必要としている人は、実際に取り組もうとしたときに困難や葛藤に遭遇することが避けられないのではないかと思われます。従って、Aさんの実践報告ではなく、様々な困難や葛藤を乗り越えてゆかれた内藤さんの実践報告こそ、多くの人にとって必要であったということが納得できるのではないでしょうか。
この点で「7つのプログラム」も「聞く・吸い込む・変わるの行」と全く同様であると思います。困難や葛藤を伴わず自然に出来てしまう人の実践報告は、本当にその智慧に挑戦する人にとって参考になりにくいのではないでしょうか。「できない(はずの)人」が様々な困難や葛藤を乗り越えて果たしていった実践にこそ、多くの人々を目覚めさせ導く力が宿るのではないかと考えます。
ただ、「7つのプログラム」と「聞く・吸い込む・変わるの行」との一つの大きな違いは、今回の「7つのプログラム」のような鍛錬は、未来千年の歴史の中で、今、この時にしか果たせないということではないでしょうか。「できない人」が発心により動かれるまでには何年もの期間が必要であり、その期間中は「できる人」の言動を抑え込んでおく必要があります。それは現在のGLAの佳子先生にしか果たせないことではないでしょうか。今後、自由な議論を通して弟子がGLAの方針を決定してゆく風土が形成されてしまいますと、同様の鍛錬を繰り返すことが難しくなるのではないかと思われます。
もう一つの大きな違いは、「7つのプログラム」を介在とする鍛錬は、犠牲が大きいことではないでしょうか。「7つのプログラム」の一つ一つのテーマの中には、やってもやらなくても良いものは一つもないはずです。一つ一つのテーマには、実現してゆくべき必要性と必然性がありますので、わざわざそれを遅らせるような鍛錬を遂行するということは、現在会員である方々や、今後会員になることが予定されている方々に犠牲を強いるということに他なりません。今回、「7つのプログラム」を介在として果たされた実践報告は、(10月30日の記事にも書かせて頂いたことですが)未来千年に渡って、縁覚段階の方を育む「霊操」「追体験」の対象になることが予定されているのではないでしょうか。それは、「誰もが菩薩になれる道」を未来千年に渡って伝承するために欠かせないことであり、多くの方に犠牲を背負って頂いてでも遂行しなければならないのでしょう。
先生が既に青写真を開示されたもう一つのテーマとして、八ヶ岳での「止観シート研修I」が挙げられます。この青写真に関連して私が頂いた学びについても紹介させて頂きたいと思います。
「八ヶ岳で止観シートの研修を実施する」という方針を見出すことは難しかったと思いますが、「内界を見取る行について、なんらかの形で特別な研修を実施する」ということであれば、必要性を見出すことはさほど難しいことではなかったと思います。
従来より、GLAの中でも、「止観シートになかなか取り組めない」という方が散見されました。それは「本人は取り組もうと努力しているし、周囲の方も同伴して下さっているのに、なかなか取り組めない」という意味です。
そして、「先生のご著書の傾向の変化」ということも感じている方は多いのではないでしょうか。以前のご著書(例えば「グランドチャレンジ」「新しい力」など)は、ある意味では読者に対して「内界を見取る力」を要求するご著書であり、「内界を見取る力」を育んでいない方には読み進めることが難しい面があったのではないでしょうか。従って、これらのご著書に共感され入会された方は、入会時点で「内界を見取る力」を相当に育んでおられる傾向が強かったのではないかと思われます。
一方、最近の先生のご著書については、「読みやすくなった」という方が多くおられますし、私もそのように感じます。それは、「内界を見取る力を駆使しなくても読み進めることができ、共感できる」ということであり、最近入会された方々の中には、「内界を見取る力」をあまり育んでこられなかった方の割合が増えているのではないでしょうか。
このように考えますと、「止観シートになかなか取り組めない」という方が増加しつつあることは予測できますし、その方々のために、なんらかの形で特別な研修を実施する必要性についても見出すことができるのではないでしょうか。すると、その「特別な研修」とは何なのか、ということが問題になります。
私は、そもそも会員全員に止観シートの取り組みをお奨めすることに無理があり、さらに取り組みやすいシートを開発すべきであると考えました。悟りの九段階の表によれば、止観シートに取り組めるようになる段階は、第三段階「止観体得」であり、それ以下の段階では難しいということが解ります。第二段階の方については、「もう一段階上に行けるように努力しましょう」ということで構わないのかもしれませんが、第一段階の方については、「かなり無理がある」というのが私の正直な考えでした。止観シートになかなか取り組めない方がおられるのも、それを裏付けているのではないでしょうか。
私は、具体的には、受発色を見取る「受発色シート」というものの構想を描きました。止観シートは内界の働きを「感覚」、「感情」、「思考」、「意志」の四段階に分けるから難しいのであって、「受信」と「発信」の二段階に分けることであれば、容易にできるのではないかと思われました。また、「GLA随想2」のレポートの「煩悩地図の原理」の節に認めましたように、受発色の主要な三系列は、「感覚」、「感情」、「思考」の三つの極と深い関係があります。この点を心に置きながら「受発色」を見つめて頂くと、「感覚」、「感情」、「思考」の働きについてリアリティを育むことができ、止観シートへの取り組みに道を付けてゆくことができる、とも考えられました。これにより、私が「研鑽の充実」について最初に描いたヴィジョンは、「受発色シートの研修」と「止観シートの研修」の二段構えのものでした。私はこのヴィジョンを先生および事務局内のある方に対して、その旨を報告させて頂きました。
その後、八ヶ岳にて止観シートの研修を実施することがGLA誌にて発表されました。これは、「研修を二段構えにすることは正しいが、内界を見取る行は、あくまでも止観シートでなければならない」という解答を先生が示して下さったことになります。そこに若干の無理が生じるのは避けられないことであり、困難な挑戦を果たして頂くために「自然環境の中での禅定」や「自然食」などの要素も取り入れて、「色心両面からサポートする」という方針が打ち出されたものと私は理解しています。
私は、「なぜ止観シートでなければならないのか」「受発色シートでは何が問題なのか」を検討しました。おそらくそれは「受発色シートを導入してしまうと、そこに安住して止観シートに挑戦しなくなる人が出てくる」ということではないかと思います。
以前に先生は、「誰もが愚直に学べば第五段階の真我遠望まで歩んでゆける」と語られたことがありました(GLA誌2000年5月号37ページ)。すると、人生の最終到達目標は、どなたも第五段階以上であるはずであり、第三段階「止観体得」は、どなたにとっても「中間目標」に過ぎないことが解ります。この「中間目標」以前の段階で安住してしまうことは残念なことであるため、「第三段階以前の段階で安住できるようなシートは導入しない」「多少の無理があっても早く中間目標に到達して頂き、縁覚段階の悟りに挑戦して頂く」ことが正しい方針ということではないかと思われます。
但し、私は受発色シートが完全にボツになったとは思っていません。止観シートに取り組むことで問題が予想される人(例えばノイローゼ気味の人は精神が不安定になるかもしれません)については、有用なシートになるのではないかと考えています。
7つのプログラムに関して「高橋佳子先生に早く解答を開示して頂きたい」と思われている方も多いと思います。そこで、先生に解答を開示して頂くということがどのようなことであるのか考えてみたいと思います。
青写真にアクセスする鍛錬は、解答となる青写真が開示されてしまいますと、その時点で完全に終了し、それ以降は全く鍛錬に取り組むことができなくなります。つまり、先生からテーマを頂いた後、青写真が開示されるまでの期間は、鍛錬に取り組むことができる貴重な期間であり、その期間内に鍛錬を行なわなければ、後でどれだけ後悔しても取り返しがつかないのではないでしょうか。私自身が具体的にどのような形で鍛錬に取り組み、果報を頂いたのか、「特別供養」の例を挙げて紹介させて頂きたいと思います。
2008年善友の集いでは、「GLAが希望者から遺骨を預かる」ということが発表されました。私はこの発表をお聞きして大変驚きました。「GLAが遺骨を預かる」ということは全く想像したこともなく、あり得ない話ではないかと思いました。しかも、なぜGLAが遺骨を預かるのか、その際には全く説明がありませんでした。これは、「なぜ遺骨を預かるのか、どのようにして遺骨を預かるのか、その青写真にアクセスせよ」というテーマを先生から頂いたものと思い、私は青写真へのアクセスに挑戦しました。
「GLAが遺骨を預かる」ということは、「GLAに遺骨を預かってほしい」と希望する会員が相当数おられたということが背景になっているように思われました。その方々は、はっきり申し上げて「遺骨に対する執着を捨てられない」ということなのでしょう。執着を捨てられない理由は、「永遠の生命」ということが実感できていないからではないかと思われました。そうしますと、その方々に対してGLAが果たすべきことは「永遠の生命という実感を恢復すること」であり、GLAが遺骨を預かるのは、正にそのための介在であることに気付きました。
そのとき、私の心の中に「合同法要」というヴィジョンが浮かんできました。それは、遺骨を預けておられる方々には、年に数回程度の「合同法要」に参加して頂き、その場では「永遠の生命」を実感して頂けるようなプログラムを実施する、ということです。私は「弟子が合同法要を企画立案することが呼びかけられている」と確信しましたので、先生および事務局内のある方に対して、その旨を報告させて頂きました。
その後、しばらくして「特別供養」を実施するとの案内がGLAから発信されました。この「特別供養」は私が思い描いていた「合同法要」よりもはるかに素晴らしいものであり、しかも遺骨を預けておられる方々に限らず、広範囲の皆様に参加して頂けるものでした。この「合同法要」のヴィジョンは私以外の人にとっては全く無価値なものですが、私にとっては貴重な宝です。この「合同法要」のヴィジョンと「特別供養」の内容を比較すると、「私には何が足りないのか」「より高い境地を獲得してゆくには何が必要なのか」ということが見えてくるからです。「特別供養」には多分に霊的な側面が含まれており、このような霊的な側面について青写真にアクセスすることは元々難しかったのではないかと思います。しかし、「特別供養」とは「参加者個人」と「物故者個人」との関係が大切にされているのに対して、私が思い描いていた「合同法要」には、その点がすっぽりと抜け落ちていました。
私に限らず、「遺骨をお預かりする青写真」について真剣に検討された方は、それぞれに貴重な宝を頂いたのではないでしょうか。しかし、真剣に検討されなかった方は、宝を手にすることはできなかったはずです。「今からでも挑戦しよう」と思われたとしても、解答となる「特別供養」の青写真が開示された今となっては、挑戦のしようがありません。この鍛錬は、未来永劫、誰も受けることができなくなりました。
「特別供養」の青写真は確かに開示されてしまいましたが、それ以外の7つのプログラムの青写真は、先生からほとんど開示されていません。これらの青写真をどのようにして頂いたらよろしいでしょうか?「鍛錬などいらないから、早く開示して頂きたい」と思われるでしょうか。それとも、「開示することをもう少しだけ待って頂きたい」と思われるでしょうか。
弟子が果たしてゆくべき具現について、高橋佳子先生がヒントを下さった場合には、「先生のお言葉をそのままの形で受け取らせて頂くこと」が第一に大切なことではないでしょうか。つまり、弟子の判断でお言葉を勝手に別の言葉で言い換えたり、先生のお言葉に別の言葉を付け加えたりしないことです。
第二に大切なことは、先生のお言葉に含まれる一言一句の意味を慎重に吟味することではないでしょうか。
このレポートでは、「歴史の整備」以外のテーマについて、7つのプログラムに対する私の見解を発表しますが、そのことを通じて、上述の二つの点を大切にすべき理由をぜひご理解頂ければと思います。