「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
12月2日の記事(7つのプログラムに対する会員の参画について)では、2001年善友の集いにおける久水講師のご発言「二十一世紀に入ったGLAがはたらきを全開するためには、これまで以上に職員のはたらきと在家の方々の押し上げる力が車の両輪のようになって響働してゆく必要があります。あらゆる側面で職員と在家の両輪がたくましくなり、押し上げる力と引き上げる力がつながってエネルギーが全開してゆくように、ぜひお世話をさせて頂きたいと願っております。」を引用させて頂きました。私は、このご発言は元々佳子先生が「押し上げる力の結集」について仰ったことではないかと推測しましたが、この推測が正しいものと仮定して、もう一度「押し上げる力の結集」について考えてみたいと思います。
今後、GLAが世界に向かってゆくということは、世界に満ちる困の現実を受け止め解決と創造を果たしてゆくということであり、それを果たしてゆくためには「広い視野」を持つ必要があるように思えます。GLAの内部のことや佳子先生の説かれたことのみに視点が釘付けになっておりますと、世界に向かってゆくことはできないのではないでしょうか。GLA共同体が「広い視野」を育んでゆくためには、在家の会員のはたらきというものが欠かせないものと思います。在家の会員は、様々な経歴や職業を持つ人から構成されています。その一人一人が持つ視野というものはそれほど広いものではないかもしれませんが、情報を共有し、智慧を交換することによって、相当に広い視野から「世界の実情」を知り、ヴィジョンを描くことができるのではないでしょうか。「押し上げる力の結集」とは、そのような意味であると考えます。
但し、在家の会員が智慧を交換して描いたヴィジョンは、そのままでは水準が低く、採用できない場合がしばしば生じるのではないでしょうか。その際には、佳子先生の果たされた具現をベースに置いて、もう一度ヴィジョンを組み直し、水準を引き上げてゆく必要が生じます。それを果たしてゆくためには、佳子先生の果たされた具現の内容と意味について普段から吟味し深め続けている人に関わって頂く必要があります。その役割を職員の皆様が担われることが予定されているのではないでしょうか。「あらゆる側面で職員と在家の両輪がたくましくなり、押し上げる力と引き上げる力がつながってエネルギーが全開してゆく」とは、このような状態のことを指しているのではないかと考えます。
そうしますと、「押し上げる力」とは「引き上げる力」と繋がって初めて具現に結びつくことができるものであり、「引き上げる力」が育まれていない時に「押し上げる力」のみを単独で結集しても意味が薄いということになります。現在、GLA公式FacebookページにてGLAの活動に関する議論が制限されている理由も、この点にあるのではないでしょうか。職員の皆様の「引き上げる力」が育まれていない以上、まだ「押し上げる力」を結集する時期には至っていない、ということではないかと思われます。
「引き上げる力」を育んでゆくために何が必要かと考えてみますと、このブログもその一つの介在になるのではないでしょうか。私自身、このブログを書いていて思うことですが、何かのヴィジョンを描く際、「ベースとなる佳子先生の具現」を発見できた場合には比較的高水準なヴィジョンを描けるのに対して、それを発見できなかった場合にはどうしても低水準なヴィジョンにとどまってしまいます。「発見できなかった」というのは、探し方が足りない面もあったのかもしれませんが、佳子先生の具現について私の持っている情報が非常に限られている、というのが主原因であるように思います。但し、低水準なヴィジョンと言っても、全くの見当外れというわけではなく「大体の方向性としては正しい」と言えるものも様々存在するのではないかと思います。職員の皆様が、これら低水準なヴィジョンを、佳子先生の具現をベースとする高水準なヴィジョンに引き上げてゆけるのかどうかということは、文字通り「引き上げる力」が育まれているのか否かを見極める尺度になるのではないでしょうか。
私は「弟子に対して7つのプログラムが与えられた」という事実は、「7つのプログラムの全てのテーマについて、例外なく、ベースとなる佳子先生の具現が存在する」、「ベースとなる具現が存在しないテーマ(例えば特別供養や、八ヶ岳での止観シート研修Iなど)は、既に佳子先生ご自身が全て具現された」という意味に考えて間違いないのではないかと思っています。それゆえ、7つのプログラムの全てのテーマについて、職員の皆様が高水準な具現を果たしてゆかれることは可能であると思いますし、それによって「押し上げる力」を結集してゆく準備も整うのではないでしょうか。
「GLA随想6:法華経に基づく伝道」のレポートでは、法華経とは高橋佳子先生およびGLAの出現を予言したものである、という私の考えを紹介させて頂きました。また、このレポート内では、法華七喩の中にある「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩」について、「GLAでは、『低い理想』を実現するために研鑽を続けていると、本人が望んでもおらず、考えてもいないような『高い理想』が実現するという現実を喩えたものである」という考えも紹介させて頂きました。
しかし、「長者窮子の喩」には、もう一つの意味があり、それはGLAの第三代目会長が誕生する際の様子を予言したものではないかと思えてきました。「長者窮子の喩」では、長者の息子は幼い時に家出し、50年間も他国を流浪しました。この喩と同様に、何十年もGLAから離れていた人がGLAに復帰し、第三代目会長に就任されることになるのではないでしょうか。なお、この事は特段の根拠があって申し上げているわけではなく、ただ私の意識の中にこのようなヴィジョンが浮かんできた、ということに過ぎません。
「長者窮子の喩」の中では、窮子は長者の家の中で様々な仕事をこなしながら、やがて財産の管理を任されるようになります。第三代目会長になられる方も、GLAに復帰してすぐに会長に就任されるわけではなく、その事が果たされるまでには最も低い所からスタートし、様々なテーマを超えてゆくことが予定されているように思えます。
GLA随想9「千年構想」のレポートでは、神理を千年に渡って世界中に伝承してゆくためには、ローカライズが必要であるという考えを発表させて頂きました。これは、土地と時代の要請に応じて、「新たないのちを込める」「新たに神理を説き直す」ということですが、もう少し具体的な事例を挙げてローカライズのあり方について検討してみたいと思います。ここでは、一例として「韓国に神理を伝承する」ということを想定してみたいと思います。
「韓国人の中には嘘をつく人が多い」という話を聞いたことがあります。私自身には、生粋の韓国人の知り合いはおりません。在日韓国人の方とは何人か出会ったことはありますが、その範囲内では「嘘をつく人が多い」という印象は持ったことはありませんでした。しかし、インターネット上の情報を見る限りでは、「韓国人の中に嘘を言う人が多い」ということは、客観的な数字として現れているようです。朝鮮日報2010年2月2日号では、「韓国は、法廷で、虚偽の証言をする偽証や、他人による嘘の告訴・告発により、いわれのない事件に巻き込まれるケースが、世界で最も多い。(中略)(単位人口あたり日本と比べると)偽証罪が427倍、虚偽告訴罪は543倍に達する。」ということが報じられたようです。
また、ニュースなどを見ておりますと、韓国という国家が主張していることや、韓国全体の世論の中に、虚偽に基づくものが散見されます。このレベルで虚偽が出てくるというのは、「個人として嘘をつく人が多い」という事とは次元が違います。この事実は多くの日本人にとって理解し難い面があり、日本人の中で韓国人を蔑視する風潮が生じてしまう原因の一つになっているように思えます。
なぜ韓国という国が虚偽に満ちているのか、その謎は「自業論」という視点から眺めれば、答が出てくるのではないでしょうか。佳子先生は、以前に「人間はカルマの影響が最も現れるような三つの「ち」を選んで生まれてくる」と説かれたことがありました。それはカルマを「煩悩」という形に顕在化させた上で克服してゆく願いが根底にあるためではないかと思われます。佳子先生の説かれたことを「集団」という側面から考えてみますと、「あるカルマを抱えた多数の人々が、ある特定の三つの「ち」を求めて集まってくる」ということになります。
何百年前か、何千年前かは知りませんが、朝鮮半島に「嘘を容認し助長する風土」というものが生まれたことがあったのでしょう。そうすると、虚言癖のカルマを抱えた多くの魂がその地に出生することを希望するようになります。勿論それはカルマを超克するためですが、多くの人はカルマを超克することができず、「嘘を容認し助長する風土」というものを維持し強化する方向に働いてしまったのではないでしょうか。その繰り返しによって、「虚言癖」というものが、韓国人のある種の国民性として定着してしまったかのように見えます。
韓国に神理を伝承するにあたっては、この「虚言癖」の問題に向かい合うことは不可欠であると思います。しかし、佳子先生は「虚言癖」の問題についてあまり触れておられません。従って、佳子先生の御著書や御講演を単に翻訳しただけでは、韓国で果たせる救済というものは相当に限定されたものにならざるを得ません。言い換えますと、「虚言癖を克服する」ということが韓国におけるローカライズの一つの根幹になるのではないかと私は考えています。
佳子先生は虚言癖ということについてあまり触れておられませんが、全く触れておられないわけではありません。例えば、「新・祈りのみち」の326ページには「嘘の誘惑に対して」という祈りが掲載されています。その導入文の中に「嘘をつくたびに 心は傷つき 魂はカルマを深くしているからです。 やがて 嘘をつくことにも慣れ 恐れもなく痛みもなく 嘘と同化してしまうのです」というお言葉があります。このお言葉について、「韓国の様々な実例」というものを挙げてゆきますと、優に一冊の本が出来上がってしまうのではないでしょうか。
また、祈りの末尾は「恐怖心を捨て 虚栄心を捨て 投機心を捨てて 人生の道を歩ませてください。」というお言葉で締めくくられています。「恐怖心を捨てる」「虚栄心を捨てる」「投機心を捨てる」とは如何なることであるのか、様々な実践報告を交えながら突き詰めてゆきますと、やはり優に一冊の本が出来上がるのではないでしょうか。このように、日本には無い教材が韓国で整ってきますと、韓国のGLAでは「虚言癖を克服する」というテーマに正面から向かってゆけるようになるのではないかと思われます。
ローカライズは、土地と時代の要請に応じて、「新たないのちを込める」「新たに神理を説き直す」ということですが、それを果たしてゆく際にも「佳子先生のお言葉をベースに置く」ということが、やはり肝心になるのではないかと考えます。
「法の継承時の鍛錬」の意味については、「GLA随想3」のレポートや、その他本ブログの記事にて、私の考えを何度か発表させて頂きました。その中で「神の御意志のままに働くための試練」という視点が抜けていたのではないかと思われましたので、この点に触れさせて頂きます。
まず、「神の御意志を感じる」というのは、どのような事であるのかを考えてみたいと思います。信次先生の御著書で何度も警告されているように、自分の耳元で「神」を名乗る存在が囁いてくるというのは「悪霊」と考えて間違いないでしょう。本物の「神」はそのようなことはされません。佳子先生は「神は鉱物の中で眠り、植物の中で目覚め、動物の中で動き回り、人間の中で思惟する」というウパニシャドの言葉を何度か引用されたことがありました。正にこの「神は人間の中で思惟する」との言葉の通り、神は人間の意識の中に入って、「人間の中で思惟する」ことによって人間に御意志を伝えられます。ただ、その時に「神が人間の中で思惟されたこと」と「その人間が勝手に思惟したこと」との区別をつけることは、非常に難しい面があります。私自身もその難しさというものに直面しました。
私は、以前からGLAの事務局のあり方について問題意識を持っていたことは事実です。しかし、問題意識を持つことと、それをインターネット上で発表することとは別問題です。私がインターネット上で意見を発表しているのは、「そのようにせよ」という神の御意志を感じたからに他なりません。つまり、「神が私の意識の中に入ってそのように思惟された」ということです。しかし、「本当にそれが神の思惟されたことなのか」という疑問はずっと持っていました。もしかすると、私自身の中にある「批判・正論癖」のカルマが「神の御意志のような虚像」を意識の中で作り出しているのではないか、と思ったこともありました。また、本来の神の御意志が私の意識のフィルターを通る時に「批判・正論癖」のカルマによって歪められているのではないか、と思ったこともありました。
「神が人間の中で思惟されたこと」と「その人間が勝手に思惟したこと」とを明確に区別するためには、その人間が自らのカルマを客観的に把握するとともに徹底的に浄化してゆくしかありません。そのため、神の御意志のままに働きたいと願う人には、カルマを看取り徹底的に浄化するための厳しい試練が与えられる場合が多いのではないかと思われます。「法の継承時の鍛錬」について「信次先生のされた事は厳しすぎるのではないか」と思われた方も多いのではないでしょうか。しかし、それは「神の御意志のままに働きたい」という本人の願いが引き寄せた試練ではないかと私は考えます。