「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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10月24日の記事(歴史の整備:「誰もが菩薩になれる道」の伝承(2))では、佳子先生の御帰天とともに「第5段階への道」、「第6段階への道」はかなり厳しく細いものになり、「第7段階への道」は消えてしまうかもしれず、如来が出生されたときにこれらの道が復活するのではないか、と述べました。この考えは少々おかしかったと思われましたので、もう一度考え直してみたいと思います。
将来のGLAにおいて如来クラスの方が指導者になったとしても、その指導者が縁覚段階の人を育める「縁」を佳子先生と同様に提供できるかと考えてみますと、かなり難しいのではないかと思われます。それは、その指導者の資質のみならず、GLAの組織形態も大きな制約になるためです。将来のGLAでは、指導者が誰であるにせよ最高意志決定機関は伝道研鑽部会であり、伝道研鑽部会の承認が無ければ何も進めることができなくなるものと考えられます。例えば今回の映像配信システムのように、指導者が合理的な理由を開示せず多額の費用を投じるようなことは伝道研鑽部会の承認が得られないことではないでしょうか。一方、合理的な理由を開示してしまえば、それは縁覚段階の人を育む「縁」としては使えなくなってしまいます。
そのような制約の中でも「縁」を提供してゆくことは可能であるものの、充分なものとは言えないのではないかと考えます。やはり、縁覚段階の人が自らの境地を育むにあたって「如来クラスの指導者を頼りにする」というのは誤りであって、そのような指導者の存在を前提とせず、「第5段階への道」~「第7段階への道」を実現しなければならないのではないでしょうか。それが実現できて初めて「“千年続く”誰もが菩薩になれる道」が完成するのではないかと考えます。
その実現のために最初に果たすべきことは、現段階で「第5段階への道」~「第7段階への道」を実現するにあたって、佳子先生が如何なる「はたらき」を果たして下さっているのか明確にしてゆくことではないでしょうか。佳子先生の「はたらき」は、「ご指導を下さる」「縁を整えて下さる」等の外的側面と、「それによって弟子の心境に如何なる変化が生じたのか」という内的側面とが考えられます。次に、その「はたらき」を別の方法で実現してゆく手段を見出してゆくことが必要になるのではないかと思われます。このうち外的側面については、上述しましたように未来千年に渡って再現することは難しいため、内的側面の「心境の変化」というものを如何に起こしてゆくかが鍵になるのではないでしょうか。
そこには、様々なアプローチの仕方があると思いますが、一つの可能性として、未来千年のGLAでは、「GLA40年」の期間の如是我聞に基づいて、佳子先生が果たして下さった「はたらき」の外的側面を「自分自身に下さったもの」と弟子が受け止めて霊操し、内的側面の「心境の変化」を自ら起こしてゆく、という事が考えられるのではないでしょうか。「GLA40年を振り返り、未来千年の礎とする」とは、そのような意味であるのかもしれません。
前記事の「7つの道」のうち、「第4段階への道」~「第7段階への道」について、もう少し考察を進めてみました。
まず、「第4段階への道」について、前記事では、第3段階の人を後押しする方は佳子先生である場合が多いと述べましたが、一部の場(例えばTL経研)ではそうではないことに気づきました。TL経研の方の如是我聞の中には、“TL経研の先輩”と呼ばれる方がよく登場し、その“TL経研の先輩”なる方が後輩の皆さんを上手に後押しされていることが解ります。その方がどなたであるのか明確ではありませんが、TL経研の中には佳子先生から過去世が菩薩であったことを告げられた方がおられましたので、多分その方ではないかと推測しています。
その方がご自身の判断で後押しをされているのか、それとも佳子先生のご指示に基づいてされているのかと考えますと、おそらく両方のケースがあるのではないかと思います。つまり、その方がご自身の判断で後押しできた場合にはそれで良しとし、出来なかった場合には佳子先生が後押しのご指示をされる、という形になっているのではないでしょうか。そうすますと、「第4段階への道」を整えることは、菩薩の修行のテーマであり、菩薩の任務であるということになります。やはり、それだけ難しいものであるという事になるのではないでしょうか。
次に、「第5段階への道」~「第7段階への道」について、前記事では、相手が自ら気付けるように「縁を整える」ことが重要であり、それはかなり手間がかかるとともに一層高い智慧が必要であると述べました。佳子先生が与えて下さっている「縁」の例として「7つのプログラム」を挙げましたが、この「7つのプログラム」を縁覚レベルの人を鍛錬する「縁」とすることについて、もう一つ気付いたことがありましたので、それを以下説明させて頂きます。
これまでの記事の繰り返しになりますが、「7つのプログラム」は2008年に発表されたものの、佳子先生が直接ご指示を下さった事を除いて何も進捗していません。私は、この事をいぶかしく思うとともに、不思議にも思っていました。特に、映像配信システムを本来の目的(高齢者や病気の方の自宅等に四聖日等の映像を配信すること)のために使うことは、とても解りやすい、簡単な事であると思いますが、なぜこの程度の事ができないのでしょうか。この程度のことが果たせないのに、上述のように「第4段階への道」を整えるような難しいことになぜ挑戦できるのでしょうか。これは、「小学校レベルの四則演算すらできない人が、大学レベルの数学の問題が解く」事のように、あり得ないことのように思えました。
「あり得ないこと」が起こっているとすると、その理由は一つしか考えられません。それは、職員の中で自ら発心して「7つのプログラム」を実現してゆける方々全員に対して、佳子先生から「7つのプログラムについては、許可があるまで動いてはならない」とのご指示があったのではないでしょうか。在家の会員については個々に指示することが難しいため、GLA公式FacebookページにてGLAの活動に関する議論を一律に制限する、という方法を取っておられるのではないかと思われます。
つまり、職員の中で「自ら発心して道を付けることのできない人」のみが選抜されて、「7つのプログラム」をテーマとする鍛錬が与えられているように見受けられます。わざわざ「できない人」ばかりを集めたとすると、「5年経っても何も進捗しない」という結果が生じるのは、ある意味では自然なことではないでしょうか。
GLA誌には、職員の方々に対する佳子先生のご指導が時折掲載されていますが、「会員の皆様を徹底的に愛すること」というご指導もありました。しかし、職員の方々の中には、佳子先生のご指導の通りに動こうとする人々もいれば、動こうとしない人もおられるのではないでしょうか。「動こうとしない人々」に対して「動きなさい」と指示して動かしたところで何にもならないわけであり、「その人々が自ら発心して動けるような縁を整える」ということが境地を育んでゆく上で大切なのではないでしょうか。「7つのプログラム」はそのような「縁」であったのだと思います。
この事例からも、縁覚段階の人を育むために「縁を整える」ということは高い智慧が必要であることが解ります。私自身、この「縁」のからくりを見破るまでに5年もかかってしまったのは、それだけ難しいことであったのだと思います。おそらく、できないはずの人が発心して動き始めたときに、現在ストップをかけられている人も動けるようになり、「7つのプログラム」が本格的に進捗し始めるのではないでしょうか。
前記事では、「第1段階への道」~「第7段階への道」まで「7つの道」を整えるという事は大変に難しいことではないか、との私の考えを述べさせて頂きました。私の考えが本当に正しいのか否かは、実際に前記事にあるような形で歴史の整備を進めてゆけば判明することではないかと思いますが、現時点で私が考えておりますことを述べさせて頂きたいと思います。
(1)「第1段階への道」~「第3段階への道」について:
この段階では、「止観シートに取り組めるようになる」ということが明確な目標になります。止観シートに向かってゆく気魂を整えるための日々の行として、菩提心発掘の書写行や瞑想行などが準備されています。また、今後「研鑽の充実」が果たされてゆくことにより、止観シートの研修や、止観シートの取り組みに誘うためのテーマ別研修なども充実してくるのではないでしょうか。これらによって「第1段階への道」~「第3段階への道」は、相当に充実してくるものと考えます。本当にこれらによって充分であるのか否か、実際に結果を見てみないと解らない点もありますが、不十分な点があったとしても、それは弟子の力によって埋め合わせてゆけるものではないかと考えています。
(2)「第4段階への道」について:
第4段階の悟りの内容は、「内と外をつなぐ」という側面では「いかなる事態にあっても新しい色心束を始めることができる」というものです。すると、逆に考えると、第3段階では、「事態によって、新しい色心束を始めることができる場合と、できない場合がある」ということになるのではないでしょうか。ここで、「できない場合」であっても、誰かが少し後押しして下さることにより、新しい色心束を始められる場合があります。後日また「できない場合」が生じたとしても、また誰かが少し後押しして下さることにより、新しい色心束を始められる場合があります。そのような事を繰り返しているうちに、誰も後押しして下さらなくても、常に新しい色心束を始められるようになるのではないでしょうか。それが「第4段階の悟りに到達した」ということであると思われます。
現在のGLAを拝見しておりますと、この後押しをして下さる「誰か」とは佳子先生である場合が多いように思います。この役割を弟子が担うとしても、相手の状況をよく把握して後押しの内容やタイミングを見極めなければならないため、なかなか難しい場合が多いのではないかと考えます。このため、佳子先生が御帰天された後は、本人の努力によって色心束を転換してゆかなければならない場合が多くなるのではないかと考えています。「第4段階への道」は、それだけ険しく、また細くなってしまうのではないでしょうか。
(3)「第5段階への道」~「第7段階への道」について:
この段階からは「縁覚」の修行になります。現在のGLAにおいて、本人が一段階上の具現を果たせない場合に、佳子先生が後押しをして下さるという点では「第4段階への道」と同様ですが、「後押し」の内容が異なっているのではないでしょうか。声聞段階の人を後押しする方法は、文字通り「声を聞かせる」ということですが、縁覚段階の人は、「縁によって覚える」ということが必要になります。そのため、佳子先生は、弟子が自ら気付けるような「縁」を整えて下さるという形で後押しして下さる場合が多いのではないでしょうか。
「声をかける」というのは短い時間で済むことですが、相手が自ら気付けるように「縁を整える」というのは、かなり手間がかかるとともに一層高い智慧が必要であるように思えます。佳子先生が御帰天された後、このような形で後押しを頂くことは、なかなか期待できないことではないでしょうか。「GLA随想8 霊操行のご提案」で紹介させて頂いた霊操行は、境地を育んでゆく一助になるのではないかと思います。しかし、本当にそれだけで充分であるのかどうか、充分でないとすると何が必要であるのか、「よく解らない」というのが私の正直な考えです。
以前、GLAの中で「菩薩は如来が出生している時にのみ誕生する」というお話を聞いた記憶があります。私の記憶が正しいとすると、それは、縁覚段階の人の境地を高めてゆくことはそれだけ難しく、特に「第7段階への道」は如来でなければ実現できない、ということなのかもしれません。その通りであるとすると、佳子先生の御帰天とともに「第5段階への道」、「第6段階への道」はかなり厳しく細いものになり、「第7段階への道」は消えてしまうかもしれません。その場合、またどなたか如来が出生されると、これらの道が復活するのではないでしょうか。
考えてみますと、「7つのプログラム」も、縁覚段階の人が菩薩としての広い心を育んでゆくための貴重な「縁」ではないでしょうか。これだけの「縁」を整えて下さる方とは、もう出会えないということを心に置いて挑戦して頂きたいと改めて思います。
「GLA40年を振り返り、未来千年の礎とする」について、また別の視点から検討してみたいと思います。
「GLA40年」とは、一言で表現すると「誰もが菩薩になれる道が拓かれた40年」と表現できるのではないでしょうか。GLA40年の最後に期間に説かれた「菩提心発掘」は、「誰もが菩薩になれる道」の総仕上げの神理であったと思えるのです。「菩提心発掘」という神理の性質について、私の考えは「GLA随想4 7つのプログラム(歴史の整備を除く)」の18~19ページに発表させて頂きました。簡単に要約しますと、「菩提心発掘」は煩悩に対峙する事が難しい人であっても、「書写」や「瞑想」などの行を通じて、とりあえず煩悩の問題を横に置いて取り組むことができるという可能性を有していますが、煩悩に打ち克つ可能性を持っている人がその段階に留まってしまわないように、相当に場が成熟していなければ前面に打ち出せない神理である、というものです。このように、煩悩に対峙する事が難しい人にすら道が開かれたということは、「全ての人に道が開かれた」ということになるのではないでしょうか。従って、ある意味では「菩提心発掘が説かれた事を以って神理は一つの完結を迎えた」と考えてもよろしいのではないかと思われます。
しかし、「誰もが菩薩になれる道とは如何なる道なのか」と問われたとき、「このような道である」と明確に回答できる人は皆無に等しいのではないでしょうか。それでは、「誰もが菩薩になれる道」を未来千年に渡って伝承してゆくことができなくなります。従って、「誰もが菩薩になれる道」について定見を深め、千年の伝承を果たしてゆく準備を整えてゆくことも「歴史の整備」の重要な目的の一つではないかと考えられます。
悟りの九段階の視点から眺めますと、「誰もが菩薩になれる道」は、「7つの道」から構成されているのではないでしょうか。それは、段階外の人が第1段階に上がれる「第1段階への道」、第1段階の人が第2段階に上がれる「第2段階への道」、…(以下同様に)……第6段階の人が第7段階に上がれる「第7段階への道」です。そうしますと、「誰もが菩薩になれる道」について定見を深めてゆくためには、これら「7つの道」のそれぞれに対して定見を深めてゆく必要があるのではないでしょうか。
(1)如是我聞の分類
「7つの道」について定見を深めてゆくためには、GLAの場で発表された如是我聞(対話ご指導を含む)が、それぞれ「7つの道」の何れに属するかを分類してゆく必要がありそうです。但し、如是我聞は「発表されたもの」、すなわち佳子先生が発表すべきとして選択されたものに限ります。その理由を説明します。人間は誰しも、何もできない赤ん坊から人生を始めなければならず、その後に悟りの九段階を一段づつ昇ってゆくことになります。ここで、過去世において既に到達した段階までなら、「思い出す」ことによって比較的スムーズに昇ってゆけますが、過去世に到達した実績の無い段階では大変な苦労が伴います。従って、「ある境地に至った如是我聞」が幾つかあった場合、それは「今生、新たに獲得した境地」の場合と、「思い出した過去世の境地」の場合とに分類されるはずです。そして、佳子先生が発表すべきとして選択されたものは、全て前者に属するものではないかと考えられます。
(2)如是我聞の特徴の抽出
次に、「今生、新たに獲得した境地」の如是我聞と「思い出した過去世の境地」の如是我聞とを比較し、前者の如是我聞の特徴を「7つの道」ごとに抽出しておく必要があるのではないでしょうか。おそらく、その境地を獲得するまでの期間の長さ、試練の大きさ、本人の苦悩の大きさなどの点で、かなりの差が見られるのではないでしょうか。換言すると、例えば第6段階から第7段階に上がった人が多数おられたとしても、それは「第7段階への道」が整っている証拠にはならないわけであり、真に「第7段階への道」が整っているのか否かを見極めるための判断基準が必要ではないかということです。
(3)成立条件の抽出
次に、「今生、新たに獲得した境地」の如是我聞が成立した条件を抽出しておく必要があると思います。本人の「志」が第一の条件であったことは勿論ですが、ここで抽出すべきものは、「GLA共同体に備わっていた条件」ということです。「理」の側面から考えると、「ある神理が説かれていた」という条件が必要であったかもしれません。また、本人をサポートする「場・システム」というものが必要であったかもしれません。また、佳子先生による個別のご指導やご同伴などを頂いた場合は、それも必要な成立条件であったと考えられます。7つのプログラムの「歴史の整備」として当面果たしてゆくことは、ここまでではないでしょうか。
(4)成立条件を転換する
上述した成立条件のうち、「佳子先生による個別のご指導やご同伴」は、数十年後に佳子先生が御帰天されたときに無くなります。つまり、「7つの道」のうち佳子先生個人に強く依存しているものがあるとすると、それは「そのままの形では千年の伝承を果たせない」ということになってしまいます。従って、今後数十年かけて、佳子先生が現在果たして下さっているお役割を可能な限り弟子が担えるように成立条件を転換してゆく必要があるのではないでしょうか。ここまで来ると、GLA共同体の態勢全般に関わることであり、「歴史の整備」というテーマから相当に離れますが、「必要である」ということは間違い無いものと思われます。但し、「7つの道」を全て整えるという事は大変に難しいことであると私は考えます。この点については、稿を改めて考えを述べてみたいと思います。
(5)未来千年の礎とする
未来千年に渡って、「7つの道が全て整っているGLA」とは、ある意味で理想的な姿と呼べるのではないでしょうか。感動的な如是我聞が数多く分かち合われたとしても、「7つの道」の何れかが不備であれば、「誰もが菩薩になれる道」はそこで途切れているということになります。7つの道が十全に整っているのか否かは、それぞれの道において、「佳子先生が発表すべきとして選択された如是我聞」と同様の特徴を有する如是我聞が継続的に誕生しているのか否か、という観点から判断されるべきものと考えます。しかし、上述のように、「7つの道」を全て整えるという事は大変に難しいことではないかと私は考えています。「礎」という言葉から「もう既に出来上がっている基礎」というイメージを持たれる方は多いのではないかと思いますが、「未来千年の礎とする」というのは、「未来千年に渡って、そこに向かって挑戦し続ける」と考える方が正しいのではないかと思われます。