「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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法の継承時にGLAを去られた方のうち現役の僧侶でもあったM氏についても考えてみたいと思います。私は、信次先生がM氏に対しても煩悩を引き出すような鍛錬をされ、M氏はその鍛錬の結果としてGLAを去られたのではないかと予想していましたが、インターネット上の情報を見る限り、私の予想は外れていたように思えます。それは、M氏に対して信次先生が煩悩を引き出すような関わり方をされた例が見当たらず、M氏の言動についても、煩悩で悩乱したような不自然なものは見当たらないためです。
M氏は、信次先生から「反省がよくできている」と褒められたことがあったそうです。これは、他の人に対して大天使であるとか後継者であるとか仰った例とは異なり、信次先生の本心ではないかと思われます。また、信次先生はM氏に対して「もうGLAにはこないほうがよい。自分で既存仏教の中から正法を説きなさい」と仰ったそうですが、これはM氏に対して使命を果たすように促された言葉ではないかと思います。
その後GLAでは、「佳子先生の法を学び実践する志を持っていること」「面接時におかしな様子が見られないこと」など入会の条件が厳しくなり、信次先生の法を求める人や憑依問題の解決を求める人が入会できなくなります。やがてGLAにて信次先生の法を復活する時期が訪れるはずですが、それまでにかなりの期間を要しますので、その期間中に信次先生の法を求める人や憑依問題の解決を求める人をお世話する人が必要だったのではないでしょうか。M氏はその使命を持たれた方ではなかったかと思われます。しかし、1976年当時、その後数十年に渡って起こることの詳細をM氏に説明することは信次先生にも不可能なことであり、「もうGLAにはこないほうがよい」などのお言葉は、とにかくM氏にGLAから離れて頂くために仰ったことではないかと思われます。
また、信次先生はM氏に対して、「GLAを作ったのは間違いだった。もうGLAは解散させたい」とも仰ったそうです。これは、M氏に「組織」というものを作らせないために仰ったことではないかと思われます。もし、M氏が組織を作ってしまうと、M氏の逝去後も組織が残り、組織としての「結束」や「しがらみ」が生じます。すると、GLAが信次先生の法を復活させても、その組織に属する人は、なかなかGLAに集いにくくなるのではないでしょうか。「組織」のしがらみの無い一個人であれば、「とりあえず一度GLAに入会して、様子を見てみよう」と気軽に考えることができますので、その事が理由ではなかったかと思われます。
M氏はGLAを離れられた後、信次先生の法を求める人々や憑依問題の解決を求める人々を数多く救済してこられたようです。私はM氏の教説に全て賛同しているわけではありませんが、M氏は今生の人生では、ご自身の願いと使命を果たされたのではないかと考えています。
法の継承時の鍛錬については、「GLA随想3」のレポートおよび6月20日、7月22~24日の記事等にて、何人かの事例を紹介しましたが、もう一人、数ヶ月前に逝去された「H氏」という方の事例について考えてみたいと思います。H氏は、信次先生の時代に「GLAのナンバー2」とも目されていた人であり、信次先生のご著書のかなりの部分はH氏が代筆されたものということです。具体的には、信次先生が「念」によって執筆すべき内容をH氏に通信され、H氏が通信内容に基づいてご著書を執筆する、という形がとられていたようです。
法の継承時の頃に信次先生はある実験をされたということをお聞きしたことがあります。それは、信次先生が佳子先生および講師全員を一室に集められ、別室から全員に同じ内容を通信され、その通信を正しく受信できるか否かをチェックするというものであり、結果としては「佳子先生のみが通信を正しく受信できた」ということでした。この実験の後、「信次先生がご帰天後に通信する相手は佳子先生のみである」ということがGLA内で周知徹底ようです。しかし、上述のように、H氏は信次先生のご著書を代筆できる程度にまで通信を受信できたはずであり、この実験には何か作為的な意図があったのではないかと思わざるを得ません。
私は、H氏についてほとんど何も存じ上げていないのですが、おそらくH氏は「嫉妬」を起こしやすいカルマを抱えておられたのではないかと考えています。上述の実験は、「佳子先生に対する嫉妬」をH氏から引き出すように、信次先生が意図されたもの、と考えると辻褄が合います。「H氏が佳子先生に対して嫉妬する」ということは、「信次先生が自分を重用されず佳子先生を重用される」という現実に基づいて起こるものであるため、H氏は信次先生に対しても屈折した想いを抱かれることになったのではないでしょうか。
「GLA随想3」のレポートでは、「S氏」という方に対して増長慢を引き出すような鍛錬を信次先生がされた、という私の考えを発表させて頂きました。その中の事例の一つとして、信次先生は講師、職員の方々を集められ、「本当に心の綺麗な人が十人いれば世界は救われる。しかし、十人どころかSさん一人しかいない」と仰ったということがありました。この事例についてもう一度考えてみますと、これはS氏から増長慢を引き出すと同時に、「S氏に対する嫉妬」をH氏から引き出すように信次先生が意図された可能性も考えられます。
H氏は信次先生のご帰天後しばらくしてGLAを去られましたが、その前に「GLAの講師」という立場にありながら、何人かの会員の前で「高橋信次は地獄に堕ちた」という発言をされたそうです。この発言も、嫉妬によってH氏の心が悩乱し、信次先生に対する想いも相当に屈折していたと考えると、理解できないこともありません。その後H氏は新教団を設立されましたが、他の分派とは異なり、ホームページなどでは信次先生のお名前が全く見当たりません。この点からも信次先生に対するH氏の「屈折した想い」というものが読み取れるのではないでしょうか。しかし、信次先生が何を仰ったにせよ、H氏が嫉妬で悩乱してしまったとすると、その一切の原因はH氏の内側にあります。H氏が自らその事を発見し、内界を浄化してゆくことが求められていたのではないでしょうか。
但し、H氏はS氏とは異なり、「GLAに関する自分自身の考え」というものをほとんど発表されていません。そのため、上述のわずかな材料のみに基づいて「H氏は嫉妬を起こしやすいカルマを抱えておられ、それが鍛錬のターゲットにされた」と断定することは早計であると思います。H氏にまつわる事実をより多く集め、さらなる検討を重ねてゆかなければ、本当のところは解らないのではないかと思います。
一昨日(9月26日)の記事にて「コミュニティ・デザイン2001」の意味について考察しましたが、今ひとつ的を得ていなかったように思われましたので、再考したいと思います。
「コーディネーション」または「社会発信」を果たしてゆくために必要な「智慧」とは何であるのかという点について、一昨日の記事は「先生が下さったご指導の総体が智慧である」という考えを前提にしていました。この考えによりますと、先生が下さったご指導の内容(「これをしてはならない」「こうしなければならない」など)は、「対象となる人」が相違すれば異なりますので、「コーディネーションの智慧」と「社会発信の智慧」は異なる、ということになってしまいます。
しかし、「人間の諸相」の一節には「智慧とはただ“なる”ことであった」とあります。このことから、コーディネーションについても、社会発信についても、「ただ“なる”こと」が「智慧」ではないかと考え直しました。つまり、「自分自身が相手になりきって相手の心のひだまで感じられるようになること」「その上で相手にとって最も必要なことを、最も理解しやすい形でお伝えすること」が「智慧」ではないかと思えてきました。これは言葉を変えますと、「先生が下さったご指導」そのものが智慧ではなく、「ご指導の内容を自ら見出してゆく力」こそが智慧であるということになります。そうしますと、「コーディネーションの智慧」も「社会発信の智慧」も本質的には同じものであり、コーディネーションを極めれば社会発信についても達人になれるということになります。
「ただ“なる”こと」という本質的な智慧は、千年の伝承を果たしてゆくにあたって不可欠なことではないでしょうか。現在の会員を対象とするコーディネーション、あるいは現在伝道対象として想定している人々に対する社会発信について先生が下さったご指導は、そのままの内容では、信次先生の法の復活、集団帰依のお世話、神理のローカライズなどを果たしてゆくにあたって不十分ではないでしょうか。弟子が「ただ“なる”こと」という本質的な智慧を恢復して不十分な点を補ってゆくことが今後は必要になってくるものと思われます。
但し、「ただ“なる”こと」の智慧を体得してゆく最初の段階では、「対象を限定して自らを『型』に投げ入れる」ということが必要ではないでしょうか。これは、具体的には、「コーディネーションまたは社会発信の何れか一方の分野に限定し、その分野について先生が下さったご指導の内容を刻印して、その通りに動く」ということです。「自らを『型』に投げ入れる」ことの重要さはテキストブック「GLA会員の基本ライフスタイル」にも詳述されています。「『型』の通りに動ける」という事がある程度果たせる段階に至って、初めて「『型』にとらわれずに自在に動く」という鍛錬に挑戦できるのではないでしょうか。
コーディネーション担当の方がホームページを作成された際、先生は内容について全くご指導をされず、「担当を変更するように」というご指示もされなかったように見受けられます。それは、「コーディネーションの『型』を離れて自在に動く練習をするのは時期尚早であるから、そのことに自ら気づきなさい」という意味ではなかったかと思われます。
GLA公式FacebookページにてGLAの活動に関する議論が制限されている理由について、本ブログにて何度か私の考えを認めたことがありましたが、今一度考え直しましたところ、「先生は、職員の皆様が希望されるまで、議論を解禁することを待っておられる」ということが正しいのではないかと思われました。
FacebookページにてGLAの活動に関する議論が解禁されたならば、職員の皆様にとって耳の痛い発言が様々飛び出してくることが予想されます。それは、GLAにとって迷惑で邪魔なことなのでしょうか。それとも、GLAにとって有益なことなのでしょうか。もし、GLAにとって有益なことであると判断されるなら、議論を解禁するように、職員の皆様から先生に願い出て頂く必要があるのではないでしょうか。
但し、在家の会員はボーディ・サットヴァ・ウィズダムを拝読できませんので、発表される意見は表面的なものにならざるを得ない場合が多いと思われます。例えば、「GLAのホームページの出来が悪い」と思ったときは、単に「出来が悪い」という事しか発言できない場合が多いのではないでしょうか。このような意見に遭遇したとき、「ホームページの出来が悪いのは、共同体内の役割分担がコミュニティ・デザイン2001に反しているからである」という本質的な原因を見抜いて対策を講じることは、職員の皆様に果たして頂く必要があるのではないでしょうか。
「コミュニティ・デザイン2001」は、GLA共同体の組織を「コーディネーションの責任を担う部門」と「対社会的発信の責任を担う部門」とに分けるものですが、なぜ組織をこの二つの部門に分ける必要があったのでしょうか。おそらくそれは、「千年の伝承」を果たすためではないかと私は考えます。
コーディネーションと社会発信とでは、対象とする「人」が会員であるのか非会員であるのかという点で条件が大きく異なりますので、必要とされる智慧の性質がかなり異なっているように見受けられます。コーディネーションについて智慧を育んできた人がホームページを作成すると出来の悪いものになってしまう理由は、「育んできた智慧」と「必要とされる智慧」との間に齟齬が生じているからではないでしょうか。
高橋佳子先生がご帰天された後では、コーディネーションについても社会発信についても、弟子が具現の水準を維持しつつ智慧を伝承してゆく必要がありますが、一人の弟子が両方の分野について高い水準の智慧を育むことは難しい面があるのではないでしょうか。それゆえ、伝承の担い手となる弟子は、「コーディネーション」または「社会発信」の何れか一方に特化して智慧を鍛錬してゆくことが、「千年の伝承」を果たしてゆく上で必要なことではないかと考えられます。GLA共同体の組織を二つの部門に分けたのは、このような理由に基づくものではないでしょうか。
そうしますと、「コーディネーション」の智慧を育んでいる人は、引き続き「コーディネーション」に特化して伝承の担い手となれるように智慧を育んでゆくことが正しく、ホームページなど「社会発信」に手を広げるべきではないものと考えます。そのような事をしてしまいますと、「コーディネーション」についても「社会発信」についても中途半端な智慧しか身につかないのではないでしょうか。それゆえ、繰り返しになりますが、GLAのホームページの運営については、社会発信を担う「開けゆくみち」に委ねなければならないものと考えます。