「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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私は、「GLA随想4」のレポートの「社会発信力の強化」の節にて、GLAのホームページが抱える問題について私の考えを発表させて頂きました。その後、GLAのホームページにて若干の修正が行なわれたように見受けられますが、根本的なことが放置されているように見受けられます。「根本的なこと」とは、「開けゆくみちが対社会的発信の責任を担う」ということであり、現状のホームページを拝見する限り、そうなっていないのではないかと思わざるを得ません。
「開けゆくみちが対社会的発信の責任を担う」ということは、私が言い出したことではなく、「コミュニティ・デザイン2001」として高橋佳子先生が指示されたことです。先生からご指示頂いた事は、よく理由が解らなかったとしても、「とにかく托身してご指示通りの事を遂行する」ということが大切かと思われますが、この問題について私が追加で考察しましたことを発表することにより、ご指示の内容が遂行される契機になるかもしれませんので、本記事にて発表させて頂くことにします。
「社会発信力の強化」については、「より多くの方々に、先生、神理を理解し、生きていただくために、地域、社会、世界に広報していくためのシステムを整える」というテーマが示されています。ここで、「より多くの方々に、先生、神理を理解し、生きていただく」というのは、実現しようとする「果報」であり、「果報」を実現するためには「因」と「縁」の双方を整えなければなりません。そして「広報していくためのシステムを整える」とは、「縁としてのシステムを整える」という意味であると理解することができます。
しかし、上述のテーマの中には「因を整える」ことを示唆する語句は見当たりません。「因を整える」ことは、「縁を整える」こと以上に困難かつ重要な問題であり、「因」を整えずに「縁(システム)」だけ整えたとしても、「より多くの方々に、先生、神理を理解し、生きていただく」という果報が生まれるはずはありません。「因を整える」ことが上述のテーマの中に含まれていない理由は、「因を整えることは先生が進めて下さるので、弟子は検討しなくてもよい。弟子は縁(システム)を整えることだけを検討すればよい」という意味であると考えられます。
すると、縁(システム)を整える際には、先生が整えて下さっている「因」の力を「果報」に結びつけてゆくように整えることが正しいものと考えられます。そこで、先生が如何にして「因」を整えて下さっているかを考えますと、それは御講演会の前半プログラム、シンポジウム、小講演会、弟子による書籍の発刊など、様々な場で「社会発信を果たしてゆく智慧」を伝承して下さっていることではないでしょうか。そして、これら先生が智慧を伝授して下さっている場は、全て「開けゆくみち」が担う場です。そうしますと、「社会発信を果たしてゆく智慧」は常に「開けゆくみち」の皆様に伝承され、他の部門の方にはほとんど伝承されていないのではないでしょうか。
このように、社会発信を果たしてゆく智慧は「開けゆくみち」の皆様に対して伝承されているため、伝承された智慧を果報に結びつけてゆくための「システム」とは、「開けゆくみちが対社会的発信の責任を担うシステム」以外に考えられないのではないでしょうか。
例えば、GLAのホームページ中の「GLA の教義」のページを見ますと、様々な神理が総花的に羅列されているように見受けられます。私は、このような説明の仕方では、読者の方(神理に関して特に知識の無い方)の理解や共感を頂くことは無理ではないかと思っています。この点は、社会発信について智慧の伝承を受けてこられた方々なら、同意して頂けることではないでしょうか。過去にこのような神理の説明の仕方を先生が承認されたことは無かったものと思います。もし、弟子がそのような説明の仕方をしようとしたとき、先生はストップをかけられ、「なぜそのような説明の仕方ではいけないのか」「どのような説明の仕方をすればよいのか」ということをご指導下さったのではないでしょうか。「智慧の伝承」とはそのような事を指しています。
過去に先生から伝承して頂いた智慧が、「GLA の教義」のページに生かされていない理由は、智慧の伝承を受けてきた人と「GLA の教義」のページを作成した人とが別人であるから、ということ以外に考えられません。それゆえ、冒頭に申し上げたように、根本的なことが放置されているとしか思えないのです。
開けゆくみちの皆様に社会発信の責任を担って頂くことを実現するためには、開けゆくみちの皆様ご自身が「私達にホームページの責任を担わせて下さい」という意志表示をされることが最善ではないでしょうか。その意志表示は、先生が示された「コミュニティ・デザイン2001」に適うものではありますが、これまでの態勢を大幅に変更するものであるため、スムーズに通らないかもしれません。もしスムーズに通らない場合には、「私達ならこのようにホームページを改定する」というヴィジョンを提示して頂く必要があるかもしれませんし、他の伝研生の賛同を得て「開けゆくみちがホームページの責任を担う事を認めさせる」という態度で臨んで頂くことも必要になるかもしれません。
先生が「コミュニティ・デザイン2001」を開示された日は1997年10月24日のご生誕の日でした(GLA誌1999年11月号75ページ)。また、GLA総合本部公式ホームページが開設された日は1999年6月25日でした(同7月号52ページ)。そうしますと、先生は「コミュニティ・デザイン2001」を開示された後に、ホームページの開設を指示されたのではないかと推測されます。その通りであるとしますと、GLAのホームページは、開設当初から14年以上に渡って、「コミュニティ・デザイン2001」に反する役割分担で運営が続けられてきたことになります。その点について過去に先生が指摘されなかったのは、「コミュニティ・デザイン2001」を遵守する必要性を弟子が自ら気づき、改めてゆくことを待たれていたのではないかと思われます。
関芳郎氏を総合本部長に据え置いたまま千年構想を推進してゆくことについても、「はたらきの布陣」という側面から考えると、さらなる意味が見えてくるように思えます。
私たちは、「組織のリーダーの資質がその組織の命運を決める」という観念を自然に持ってしまっているのではないでしょうか。例えば、国家の運営がうまく進まないときは「総理大臣を交代させよう」、企業の運営がうまく進まないときは「社長を交代させよう」という発想が自然に湧いてきます。その延長線上で、千年構想などGLAにおいて弟子の果たすべきテーマが進捗しないときに「総合本部長を交代させよう」という発想が湧いてくるのも、ある意味では自然なことではないかと思われます。
しかし、「千年」という長きに渡る伝承のことを考えますと「個人の資質」というものに頼るのは危険であり、総合本部長が誰であっても千年構想を推進してゆける態勢を整えることが呼びかけられているのではないでしょうか。総合本部長が誰であろうとも、GLAのリーダーは常に「大いなる存在、神」ですから、神の御心を感じ、神の御心を具現してゆけば千年構想を推進してゆけるものと考えられます。但し、「神の御心を感じ、神の御心を具現する」ということを一人で果たすことはなかなか難しい面があることも事実です。その事を多くの人々の響働によって実現してゆく態勢こそが「はたらきの布陣」ではないでしょうか。
総合本部が方針を打ち出さない限り動きようの無いテーマについても「総合本部が方針を打ち出すまで待つ」ということではなく、「はたらきの布陣を構成する方々が方針案を協議し、事務局に働きかけてその内容を承認させる」という形で進めてゆくことが呼びかけられているのではないかと思われます。
8月25日の記事では、「伝道研鑽部会をGLAの最高意志決定機関にする」というヴィジョンを発表しました。それは勿論、「会則をそのように改正する」という意味です。同記事ではその事は「すぐにでも実現すべきことである」と書きましたが、その前に「最高意志決定機関としての実質を備える」という事を先に実現しなければならないのではないかと考え直しました。つまり、会則の内容はこれまでと変わらない状態で、伝研生を中心とする「はたらきの布陣」が実質的に千年構想の方針を決定し、推進してゆく態勢を実現してゆくことが呼びかけられているのではないでしょうか。会則の改正は、「その事を確認的に明確化する」という形で為されることが最善ではないかと思われます。
「GLA随想9 千年構想」のレポートでは、「神の御心を因とする、宇宙に流れる因縁果報のはたらきの布陣に就く」こと、「宇宙に因縁果報の流れを発現する」ことについての私の考えを発表させて頂きました。そして、近日中に「一切の人を救済してゆく願い」を思い出される方が続出する可能性があることに思い至りますと、「はたらきの布陣」についてもさらなる内容が見えてくるように思えます。
「一切の人を救済してゆく願い」は、大いなる存在、神が抱かれている願いと相似形を描くものです。従って、「一切の人を救済してゆく願い」を思い出しその願いに基づいて動く人は、「他人の命によって動く人」ではなく、「神の命によって動く人」ではないでしょうか。これは言葉を変えると、神の御心を「因」とし、自らを「縁」とし、神の御心を具現するという「果報」を生み出せる人ということになります。
但し、「一切の人を救済してゆく願い」を思い出される方が続出したとしても、GLA総合本部の方針というものは簡単には変わらないかもしれない、ということは心しておく必要があると思います。その事は、7つのプログラム、あるいは千年構想を進めてゆく上で制約になるかもしれません。しかし、「神の命によって動く人」とは、制約は制約として、その範囲中で神の御意志を最大限に実現してゆくことができる人でもあると思います。
一例として、7つのプログラムの「研鑽の充実」について考えてみたいと思います。「GLA随想4」のレポートで発表させて頂いたように、「研鑽の充実」は、止観シートの研修を中心として研鑽システムを整えてゆくことが正しいものと私は考えています。GLA総合本部がその方針を採らなければ、例えば地域拠点で止観シートの研修を行なうことはできないものでしょうか?各地域拠点で止観シートの研修を行なうかどうかは、その地域のお世話人の皆様の判断で出来ることではないかと思われます。それは、建前としては「7つのプログラムの一環として行なっているわけではなく、会員の皆様の実情に鑑みれば止観シートの研修が必要と思われたので実施している」ということになります。一部の地域で止観シートの研修が実施され、その果報が他の地域に伝わってゆきますと、全国の各地域で止観シートの研修が実施されるようになり、研修のあり方について智慧の交換もされるようになるのではないでしょうか。
また、「人生同伴態勢の充実:身近で相談に乗ってもらえるお世話の態勢」について考えてみたいと思います。「GLA随想4」のレポートでは、「第1段階 5~6人程度のグループによるお世話」「第2段階 お世話メンバーの拡充」「第3段階 事務局との連携」という三段階のお世話のヴィジョンを発表させて頂きました。このうち「第1段階」のお世話については、部分的ではありますが、既に生活実践などで実現されていることではないでしょうか。また、この「第1段階」のお世話メンバーに加えて、数名程度のベテラン会員に参加して頂いて「第2段階」のお世話を実現することは、その地域のお世話人の皆様の判断で実現できることではないかと思われます。
私は「第3段階」のお世話になりますと事務局に動いて頂く必要があると考えていましたが、「トータルライフ・パートナーズシステム」については、在家者の皆様のみでも進めてゆけるのではないかと考え直しました。つまり、地域のお世話人の皆様が「専門家の支援が必要」と判断された場合、開けゆく道のお世話人に相談され、専門家の方にお世話チームに加わって頂くことは、双方のお世話人同士の話し合いで実現可能なことであると思います。その事は所属本部の事務局およびTL総合事務局に対して一応報告しておいた方がよろしいのではないかと思いますが、特に両事務局に動いて頂く必要はないのではないかと思われます。
また、「人生同伴態勢の充実:円環的人生観に基づく魂の一貫したお世話」について考えてみたいと思います。「GLA随想4」のレポートでは、「今生におけるお世話」と「来世に向けてのお世話」のヴィジョンを発表させて頂きました。このうち「来世に向けてのお世話」とは、要するに「人生記録の作成に同伴する」ということですが、これは人生記録を作成する方が「どなたかに同伴して頂きたい」と希望され、他の方が「同伴させて頂きたい」と希望すれば自然に実現してゆけることであって、「GLA総合本部の方針」としてその事を掲げて頂く必要は特に無いものと思われます。「人生記録の重要性」「他者視点の重要性」を会員の皆様に強調して頂くことや、同伴を促進してゆくことは、お世話人の皆様の判断で進めてゆけることではないでしょうか。
以上のように、総合本部が方針を打ち出さなくても、在家の皆様の発心で進めてゆけるテーマはいくつもあります。これらのテーマを実現してゆくことは、GLAのパラダイムを転換してゆく大きな「うねり」になってゆくのではないでしょうか。総合本部が方針を打ち出さない限り動きようの無いテーマも数多くありますが、パラダイムを転換してゆく「うねり」はこれらのテーマにも道をつけてゆくことになるのではないかと考えます。
「千年構想」については、このブログでも何度か取り上げてきましたが、千年構想の「願い」とは何かと考えますと、現在のGLAでは「千年の伝承を果たす」ということが「願い」であるかのように受け取られているのではないでしょうか。この点についてもう一度考え直しましたところ、「そもそも何のために千年の伝承を果たす必要があるのか」という「根底にある願い」を明確化する必要があるのではないかと思われました。それによって「千年の伝承」の中身が大きく変わってくるからです。
例えば、「来世においても自分自身が再びGLAに集いたい」ということが「根底にある願い」であるとすると、今後ともGLAは佳子先生の法に共感できる人だけを集めてその範囲内での伝承を続けてゆけば充分であり、それを千年続けることが「千年の伝承」である、という考え方も成立するのではないでしょうか。
一方、「地獄を滅消し一切の人を救済する」ということが「根底にある願い」であるとすると、それは地獄界との縁が深い人々(地獄界と天上界を行き来している人々)に直接関わって、地獄界との縁を断ち切って頂くことが不可欠になります。そのような人々はなかなか佳子先生の法に共感できず、また、悪霊の憑依を受けている場合も多いため、これらの問題に道を付けてゆくことが「千年の伝承」の重要な要素になるのではないでしょうか。
勿論、私は「根底にある願い」として後者のものが正しいものと考えていますが、その事が現在のGLAにおいて明確化されていないのは、「根底にある願い」を明確化するように佳子先生が促してこられなかった、ということが背景になっているように思えます。促してこられなかった理由は、「地獄を滅消し一切の人を救済する」と言われても、その願いを実感できない人が多いためではないでしょうか。私は、「GLA随想9 千年構想」のレポートを作成する際にも、この問題の取扱いについて悩みましたが、「“地獄を滅消し一切の人を救済する”という願いを実感できない人が多い以上、その願いを前面に出すことは時期尚早である」と考え、その願いについては言及を避けたという経緯がありました。
しかし、9月12日の記事にありますように、近日中に「一切の人を救済してゆく願い」を思い出される方が続出し、GLAのパラダイムの転換が起こる可能性があるということに私は気づきました。この予測が正しいとすると、それは千年構想の「根底にある願い」についても明確化する時期が訪れるということに他ならないのではないでしょうか。そして、「根底にある願い」を明確化することは、弟子の発心によって果たされることが呼びかけられているのではないかと思われます。ここで、「弟子の発心」とは、9月16日の記事にあります「真の発心」ということであり、先生からの促しに基づく発心ではありません。「千年構想」に対して先生に関わって頂ける期間は、あと僅か数十年程度しか残されていません。残りの期間は弟子が主体的に進めてゆかない限り「千年構想」は一切進捗しませんので、今からその覚悟で臨んでゆく必要があるのではないでしょうか。
GLA随想10(高橋信次先生の法の復活)のレポートにて発表しましたように、信次先生の法を復活させる際には、憑依問題を解決してゆく道を用意することが欠かせないのではないかと私は考えています。同レポートでは、その具体的な内容として、「菩提心のイメージ映像を拝聴することにより、目を開いたまま菩提心を瞑想する」という方法を提案させて頂きました。この内容自体は有効かつ必要なことであると思いますが、やはり「浄霊」という形の霊道現象が伴わなければ道を付けることが難しい場合があるのではないかと思われます。
「イメージ映像を使った菩提心の瞑想」ということを奨められたときに特に支障なく取り組める人は、まだ「軽症」の部類に属する人であると思います。信次先生のご著書に幾つかの実例が掲載されていますが、憑依が重症になってきますと、様々な形で悪霊からの妨害を受け、まともに学ぶことも行に取り組むこともできなくなります。重症のケースでは、「とにかく最初に浄霊する」ということが欠かせないのであって、浄霊が出来なければ全く先に進めないのではないでしょうか。私もその事は認識していましたが、私自身が霊的なことはよく解らないため、GLA随想10のレポートでは浄霊については言及を避けました。しかし、「信次先生の法を復活する」ということは「憑依問題を解決してゆく道を用意する」ということであり、「浄霊」ということは避けて通れないことではないかと考え直しました。
GLA会員規定の中で「霊的現象については、本部に確認するなど、正しい判断力と対応力の養成に努めます」とありますので、おそらく現在でも小規模な範囲で浄霊が実施されているものと考えられます。しかし、憑依に悩む会員が増えてゆきますと、浄霊ができる人(つまり、恒常的に霊道を開いており、霊視などができる人)を増加させてゆかなければ対応が不可能になってくるのではないでしょうか。但し、恒常的に霊道を開くということは大変に危険なことでもあります。信次先生の時代に霊道を開いた方の中で、おかしくなってしまった方が何人もおられました。それでも恒常的に霊道を開くとすると、それは「憑依に苦しむ方々を救いたい」という愛が動機になっていなければならず、また、内界の浄化に一層厳しく取り組んでゆく覚悟も必要ではないかと思われます。
そして、恒常的に霊道を開くためには、弟子の側からの「真の発心」と呼べるものが必要ではないかと考えます。現在のGLAでも、「弟子の発心によってスタートした」とされているものがいくつかあります。例えば、伝道研鑽部会について“「千年の後まで先生のご存在と神理を伝え遺してゆきたい」という私たち会員有志の願いに先生がお応えくださって、1996年に発足しました”との説明がされています。しかし、「千年の後まで先生のご存在と神理を伝え遺すというのは、具体的に何を果たしたいのか?」と問われますと、ほとんどの方は回答できなかったのではないでしょうか(なお、具体的に何を果たすべきかについての私の考えは「GLA 随想9 千年構想」のレポートに紹介させて頂きました)。そうしますと、この「会員有志の願い」というものは、実は相当部分が先生から示唆して頂いたものであり、具体的に何を果たしたいのかよく解らないまま、ご示唆頂いた通りに弟子が先生に願い出たところ、先生が伝道研鑽部会を発足して下さった、という経緯があったのではないかと私は推測します。
私が「真の発心」と呼びますものは、「先生からのご示唆を一切頂かない状態での発心」ということであり、伝道研鑽部会の発足にあたっての「会員有志の願い」のように先生からご示唆を頂いたものとは全く異なります。「真の発心」が必要であると考える理由は、「自分自身が危険を背負うとともに、憑依を受けている方の魂の行く末に大きな責任を背負う」という点にあります。恒常的に霊道を開いた後に内界の浄化を怠った結果、自分自身が悪魔に憑依されることも起こるかもしれません。その場合にも、「それは全て自分自身の責任であり、自分自身の努力によってその状態から脱する」という覚悟が無ければ、恒常的に霊道を開くべきではないと私は考えます。
9月12日の記事では「一切の人を救済してゆく願い」を思い出される方が今後増えてゆくのではないかとの予測を発表させて頂きました。この予測が当たっているならば、「憑依に苦しむ人々を救済するため恒常的に霊道を開きたい」という「真の発心」をされる方々も増えてくるのではないでしょうか。そして、その「真の発心」に天上界が応える形で、今後は恒常的に霊道を開く方も増えてくるものと考えます。そうでなければ、「信次先生の法の復活」ということも果たせないのではないでしょうか。