「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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5月30日、6月3日の記事では、職員の皆様の中で「セクショナリズムを脱し、GLA共同体の動向全般について一人一人が責任を負う」という風土を醸成してゆく必要性について触れさせて頂きました。その風土を醸成してゆく取り組みについて、さらに考察してみたいと思います。
風土を醸成してゆく第一歩は、「GLA随想5 実現に向けての第一歩を」のレポートに記させて頂いたように、「高齢者や病気の方など四聖日などの場に足を運んで頂くことが困難な方々については、自宅等への映像配信システムを活用して、自宅等にて集いに参加して頂けるようにする」ことを実現することではないかと考えます。但し、同レポートの内容には、若干の修正が必要ではないかと思われます。同レポートは「在家の会員の皆様の押し上げる力を結集する」ことを前提としていましたが、GLA公式FacebookページにてGLAの活動に関する話題が制約されていることから、「押し上げる力」に頼るのではなく、事務局の中のみで実現して頂く必要があるのではないでしょうか。
「高齢者や病気の方などのために映像配信システムを活用する」ということは、高橋佳子先生がかなり解り易いヒントを示して下さったことから、おそらく職員の皆様の中でも既にその必要性に気づかれ実現に向かって動こうとされた方がおられたのではないかと推測します。それにもかかわらず、未だ実現していないのはなぜでしょうか?
事務局の中で何が起こっているのか、外からは全く見えませんが、一つ想像を巡らせてみたいと思います。映像配信システムの意味に気付かれた職員の方は、「映像配信システムを高齢者や病気の方などのために使わせて下さい」と先生に願い出られたのではないかと思います。それに対して先生は、「その要望があなた一人の要望であれば受け入れることはできない。しかし、その要望が職員の総意ということであれば、関芳郎氏を通じて願いの書を提出するように」のように仰ったのではないかと想像します。そこで、その職員の方が関芳郎氏に相談したところ、「映像配信システムは非常用であると先生が仰ったのであるから、非常時に使えばそれでよい」と一蹴されてしまったのではないでしょうか。
上述しましたことは単なる想像に過ぎないことであり、どこまで正しいのか解りませんが、それでも「先生のお言葉をよく吟味して実現することが大切」という一点については間違いが無いものと思います。仮に、上述の想像通りのことを先生が仰ったとすると、「職員全員の連名で願いの書を作成することにより、要望が職員の総意であることを明確にする」「最後に関芳郎氏からサインを頂いて、関芳郎氏から先生に願いの書を提出して頂く」という手順を踏むことが求められているのではないかと考えられます。
職員の皆様全員に関わって頂くということは「GLA共同体の動向全般について一人一人が責任を負うという風土を醸成してゆく」という意味があり、最後に関芳郎氏から先生に願いの書を提出して頂くということは、「関芳郎氏に転換を促す」という意味があるのではないかと考えます。それは「数の力」で圧倒して関芳郎氏を動かしているに過ぎないようにも見受けられますが、それでも将来の転換につながってゆく「何か」が予定されているのではないかと感じられます。それゆえ、上述のように先生が仰ったのではないかと私は想像しました。
前記事に述べましたように、二つの「Q&A」は、その内容如何にかかわらずGLAの見識が疑われかねないものであると考えますが、内容についても相当に問題があると思われますので、指摘させて頂きます。
まず、罰天使氏による投稿記事について、「ただ、仮に投稿者本人がGLAに対する名誉毀損を理由に削除を求めても、インターネットのシステム上の制約により、当該投稿記事を消去できないという状況があり得、現にこのような事態の発生を確認しております」とのコメントがあります。
このコメントを読む限り、「GLAの意向としては投稿記事を削除させたいのであるが、GLAの意向を阻害する要因が存在するため、削除が実現できていない」という悔しさが伝わってきます。そこで、「GLAの意向を阻害する要因」とは何であるのか考えてみます。
記事を投稿したのは罰天使氏であったとしても、投稿された記事を削除することは掲示板の管理人のみができることです。記事の削除を実現するためには、罰天使氏を相手にしても無駄であり、管理人に対して法的措置を講じなければならないことは自明です。しかし、GLAが管理人に対して法的措置を講じた形跡は見当たりませんので、そもそも法的措置を講じていないのではないでしょうか。
GLAが管理人に対して法的措置を講じなかった理由は、高橋佳子先生から「罰天使氏に対して法的措置を講じてもよいが、管理人に対して講じてはならない」とのご指示があったからではないでしょうか。その通りであるとすると、「GLAの意向を阻害する要因とは、高橋佳子先生である」という、なんとも呆れた結果が導かれてしまいます。
先生は「愛を第一の動機として」ということを伝えて下さったことがありました。先生が罰天使氏に対する法的措置を容認されたのは、記事の削除を目的とするものではなく、「罰天使氏に目を覚ましてほしい」という愛の想いがベースになっているのではないかと考えます。
一方、管理人に対する法的措置を禁止されたのは、「このような投稿記事が残ったとしても、GLAとして何も困ることはないため、管理人に対して要求することはない」というご判断に基づくものであると考えます。
次に、『高橋信次の霊言』と主張するものについて、「GLAでもすでにそうした方々に対して幾度も正式に申し入れし、抗議してまいりました。今後もその姿勢は貫いてゆきます」とのコメントがあります。しかし、このコメントを実行に移すことは、相当にリスクの高いことであると思います。
「霊言」ということについては、外見上同じように見えることを、過去にGLA自身がやってきたということを忘れてはならないと思います。その際の対象としては、モーセやイエス・キリストなど、他宗教の教祖も含まれています。
すると、抗議を受けた相手側から、「GLAがやってきたことを、なぜ私たちがやってはならないのか?」という質問を受けるかもしれません。この質問に対して、「GLAがやってきた霊道現証は本物であるが、あなたがたがやっていることは偽物である」と回答したとしましょう。
すると、相手側は、「GLAの霊道現証が本物であると主張するなら、証拠を見せてほしい」と反論してくるかもしれません。あるいは、「ただいまより四年後(1981年)に、あなたがたの予想を越えた世界的なショックが襲うでしょう」とのガブリエル大天使のメッセージ(GLA随想2、3ページ参照)について、「GLAでは、これを本当にガブリエル大天使のメッセージであると考えているのか?ならば、なぜそう考えるのか、私たちにも理解できるように理由を説明してほしい」と要求されるかもしれません。
相手側の立場に立てば、他にも色々な反論を考えることができますが、おそらくGLAはその全てに対してまともに回答することができないのではないでしょうか。相手側は、GLAとの議論の内容を世間に公開して、GLAを笑いものにしようとするかもしれません。
『高橋信次の霊言』と主張するものに対してGLAが抗議することは、このように大変リスクが高いことではないかと考えます。
考えてみると、今まで上述のような事態が生じなかったことが不思議であり、他教団に抗議しようとする動きに対して佳子先生がストップをかけられなかったことも不思議です。おそらく、佳子先生は、交渉相手が上述のような議論を仕掛けてくる程度の奸智を持っていないことを見抜いて、ストップをかけられなかったのではないかと思います。佳子先生を頼りにするにしても、このような頼り方はおかしいのではないでしょうか。交渉相手の立場に立って少し考えれば解る程度のリスクは、弟子が察知して回避すべきことではないかと思います。
「1981年に世界的なショックが襲う」との予言が外れた意義についてさらに考えてみますと、「GLAは、霊言が本物であるとか偽物であるとかの議論に加わるべきではない」との呼びかけが響いているように思えます。この種の話題については「ノーコメントを貫く」ということが必要ではないでしょうか。
GLAのホームページに次の二つの「Q&A」が掲載されています。今日は、これらについて考えてみたいと思います。
まず、匿名掲示板における「GLAに対する批判的な投稿記事」とは、「罰天使」と名乗る人が投稿した記事であると思われます。また、『高橋信次の霊言』というスタイルで発刊されている書籍とは、幸福の科学またはその分派が発刊している書籍のことであると思われます。
結論から申しますと、この種の相手が為していることについてGLAが公式ホームページにてコメントを発表するということは、それだけで相当に見栄えの悪いことであり、コメント内容の当否にかかわらず、GLAの見識が疑われかねません。従って、これらのQ&Aは削除し、この種の相手については今後とも「ノーコメント」を貫くことが最善であると思われます。
ただ、これらのQ&Aが掲載された背景には、罰天使氏の投稿記事や『高橋信次の霊言』と称するものに共感してしまい、GLAを去ってゆかれた人々がおられたのではないかと思われます。このような現実が生じている表面的な原因は、文字通りこれらのものに「共感してしまった」ということになると思いますが、さらにその根底には、「高橋佳子先生の説かれる神理に対して理解・共感できなかった」という根本的な原因があったのではないかと思われます。
逆に、「先生の説かれる神理に対して理解・共感できる人が、同時に罰天使氏の投稿記事や『高橋信次の霊言』と称するものに共感することがあるだろうか?」と考えてみますと、非常に起こりにくいことがお解り頂けるのではないでしょうか。
先生の説かれる神理は、時代の経過とともに、より多くの人々に理解でき実践できるように大衆化を遂げてきたのではないかと思われます。しかし、今日説かれている神理の内容およびGLAの態勢によっても、まだ「理解できない」「共感できない」と思われる人々がおられるのも事実であり、その人々に道をつけてゆくことが呼びかけられているのではないでしょうか。
「7つのプログラム」は、より多くの人々を「神理に対する理解・共感」に誘うものであり、正に上述の呼びかけに対して正面から応えてゆく手段であると考えます。
従って、罰天使氏の投稿記事や『高橋信次の霊言』と称するものにGLA共同体が対抗する手段は「7つのプログラムを完遂する」ということであり、上述のQ&Aを掲載するような小手先の手段は採るべきではないと考えます。
前記事の続きです。
職員の皆様の中で「セクショナリズムを脱し、GLA共同体の動向全般について一人一人が責任を負う」という風土を醸成してゆくことが求められているとすると、その風土を醸成するために何が必要かを考えてみます。
その風土を醸成してゆくためには、「その風土を醸成しない限り事務局が正常に機能しないようにしておくこと」が最善ではないかと思います。すると、総合本部長として適任と思われる人物は関芳郎氏以外には考えにくいのではないでしょうか。少なくとも私には、彼以上の適任者は思い浮かびません。
結局、関芳郎氏には、その風土が醸成されるまで、総合本部長の立場に留まって頂くことになるでしょう。そして、風土が醸成され事務局が正常に機能するようになったのであれば、それ以上関芳郎氏に留まって頂く必要がなくなります。この時点で、次の総合本部長が任命され、関芳郎氏には「高橋佳子先生をお証する」という使命の成就に専念して頂くことが予定されているのではないかと思われます。
昨日の記事「セクショナリズムからの脱却を」については、若干の補足説明が必要かもしれません。現在起こっている様々な問題について、「事務局内のセクショナリズムよりも関芳郎氏の判断力の問題のほうが大きく、総合本部長を別の人に変更すべきである」と考える人も多いと思われるためです。
実は、私自身も、数日前まではそのように思っておりましたし、本ブログの過去の記事にも、総合本部長の交代の必要性を示唆する記述が何点かありました。しかし、今は考えが変わっています。
おそらく、次の総合本部長は、より判断力の高い方が任命されると思われ、その方は「先生から頂いたご指示を放置する」「先生から頂いたお言葉を別の言葉に置き換えて会員に発信する」などの解り易い判断ミスはされないかもしれません。では、次の総合本部長の時代には事務局がスムーズに動くようになるのかと考えますと、おそらくそのようにはならないものと思われます。
今から数十年後、高橋佳子先生が御帰天された後は、GLA共同体の果たす具現は100%弟子が担わなければなりません。その際に弟子に求められる具現のレベルを考えますと、現在よりもはるかに高いレベルになるはずです。従って、その時に備えて、今後は弟子の果たすべき具現のレベルが段階的に引き上げられてゆくのではないでしょうか。
つまり、次の総合本部長が関本部長よりも判断力の高い方であったとしても、現在よりも難しいテーマが与えられるため、やはり判断ミスが起こってしうことが予想されます。このような判断ミスによる停滞や混乱を解消し、あるいは未然に防止するためには、職員の皆様の中で「セクショナリズムを脱し、GLA共同体の動向全般について一人一人が責任を負う」という風土を今から醸成してゆく必要があるのではないでしょうか。
より具体的には、職員の皆様から関本部長に対して必要な進言をして頂き、現在生じている様々な問題について、解決への道筋をつけて頂くということです。一人が進言しても関本部長が聞き入れられない場合には、他の職員の皆様の賛同を集めて集団で変革を迫って頂く必要があるかもしれません。そのような事が果たせる風土を醸成することが、次の段階に進むための条件ではないかと思います。
関本部長に退任して頂くべき場合には、それは先生が一言仰れば実現できることですから、関本部長の資質は本質的な問題ではなく、「事務局内の風土を変革すること」こそ本質的な問題であると考えます。