「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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2月21日の記事の続きです。「はたらきの布陣」を構築してゆく必要性について、疑問を持たれている方もおられるかもしれません。「GLAの首脳部に青写真にアクセスできる人を集めておき、他の人は首脳部が決定した方針に従って動けばよい」と考える人は多いと思われますし、その考え方は通常の組織の意志決定の仕方に類似しますので、ある意味では自然な考え方であると思います。
しかし、例えばGLAの首脳部が「信次先生の法を復活させる」という方針を打ち出したとしても、単純にその方針に従って動くことは、なかなか難しい事ではないでしょうか。信次先生の法を復活させるためには、佳子先生の法に共感できない人に対する愛の想いが醸成されていることが前提であり、その前提を欠いていると、誰が号令をかけてもうまく進まないのではないかと思われます。愛の想いを醸成してゆくためには、賛否両論を含めて、会員の皆様が自由に意見交換すること、すなわち「はたらきの布陣」を構築してゆくことが欠かせないのではないでしょうか。
このように考えてゆきますと、「はたらきの布陣を構築することによって全体の意識を高めてゆく」という事が先決問題であり、「首脳部の決定」とはそれを確認的に明確化してゆくことである、と考えることが正しいのではないかと思います。「信次先生の法の復活」に限らず、今後GLA共同体が果たしてゆくべき具現は、「はたらきの布陣」を構築しなければ進められないものが多くなってゆくのではないかと考えます。
もう一つ、GLA共同体の方針を的確に決定してゆくためには、社会や世界に満ちる「困の次元」を察知するアンテナが数多く必要になるのではないかと考えます。
一人一人が抱えている職業、経歴等の条件はそれぞれ異なりますが、それによって他の人には察知できない「困の次元」を察知できる可能性を一人一人が抱いていると考えることができます。日々の生活の中で思った事をただコミュニティの中で発表するというだけの行為であっても、それが大きなうねりとなって全体を動かしてゆく契機になるかもしれません。社会全体、世界全体を見晴らす広い視野の中からGLAの方針を決定してゆくためにも、「はたらきの布陣」は欠かせないことであると考えます。
1月18日の記事(神意・青写真にアクセスする段階(2))の続きです。
神の御意志を具現しようとする人は、過去世も、今世も、来世も、絶えざる試練に遭遇することが避けられないように思います。それは、神の御意志というものは、人間が持っている常識、倫理観、道徳観を覆すものが多く、神の御意志を感じたとしても、人間はなかなかその通りには動けないためです。
私が7つのプログラム等について自分の考えをインターネット上で公開した時もそうでした。それ以前に私は自分の考えを事務局内の一部の方にお伝えしていましたし、その旨を佳子先生にご報告させて頂きましたので、自分の役割はそれで終わったものと考えていました。常識的に考えると、事務局の内情を知らない在家の会員が貢献できるのは、その程度までではないでしょうか。GLAを退会してでもインターネット上で自分の考えを公開するというのは、私自身、妥当な行動とは思えませんでした。
また、公開する内容の中に関芳郎氏個人の資質に関する記事が多く含まれている事も、釈然としないものを感じていました。私が彼の資質について問題意識を持っていた事は事実ですが、他人に至らない点があるからといって、その事をインターネット上で書き連ねるというのも妥当な行動とは思えませんでした。
私自身が妥当性を感じない事は、たとえ神の御意志を感じたとしても、簡単にその通りに動くことはできません。最終的には、私は妥当性を感じないまま、上述しました事を実行に移したわけですが、それは、非常に厳しい形で試練を与えられ、せかされるようにして実行に移した、ということが実情です。
前記事に引き続いて、関芳郎氏が総合本部長職に留任されることによって会員の皆様にどのような負担が生じるのか具体的に考えてみたいと思います。
「GLA随想1 幻の十年ヴィジョン」のレポートに認めました事実により、関芳郎氏は佳子先生から明示的に頂いたご指示ですら、彼自身が面倒だと思ったことは、催促されない限り放置する人物であると考えられます。そうしますと、佳子先生以外の人が青写真に適うヴィジョンを提示したところで、彼が簡単に動くことは到底期待できない事が解ります。
もう一つ厄介なことは「見栄と体面に対する執着」の問題です。私が受け取った「GLA総合本部の指示」と称する書状から推察する限り、彼は見栄と体面に対する強い執着を持っているのではないかと思われます。もし、このブログに私が発表したヴィジョンをGLAの方針として採用しようとすると、それはある意味では彼の体面を傷つける行為であるため、相当の抵抗を受ける可能性があります。
これらの逆風を受けながら具現を果たしてゆくためには、「はたらきの布陣」を充分に構築しておく必要があるのではないでしょうか。つまり、在家の会員の皆様と職員の皆様とが充分に意見交換を果たされ、大多数の皆様の賛同が得られる程度にまでヴィジョンを突き詰めてゆく必要があるものと思われます。その後に、その大多数の皆様の賛同を後ろ盾として関芳郎氏に対してヴィジョンの実現を要望されたならば、彼としても逆らうことはできなくなるものと思われます。
逆に、「はたらきの布陣」を構築していなければ、簡単なテーマ一つとして具現してゆくことができないのではないでしょうか。
このように考えてゆきますと、関芳郎氏に総合本部長職に留任して頂く意味として、GLA共同体にはたらきの布陣を構築してゆくため」という事も大きな要素として含まれているのではないかと思われます。
2月12日~15日の記事(総合本部長の人事について(3)~(5))では、関芳郎氏に総合本部長職を速やかに辞任して頂くべきとの考えを述べさせて頂きましたが、「彼がやり残している仕事をどうするのか」という問題についてあまり深く考えていませんでした。そこで、この問題についてさらに再考してみたいと思います。
私が漠然と思っていたことは、「全て後任の総合本部長に担って頂ければよ。おそらく後任者のほうが効率的に進められるだろう」というものでした。
しかし、佳子先生が関芳郎氏に与えられた課題は、彼がなんとかクリアできる程度のものであるから与えられたのではないかと思われましたし、彼がクリアする必要性があったために与えられたものではないか、とも思えました。彼が「佳子先生をお証する」という使命を全うされる事を考えますと、そこに至るまでのひとつのステップとして、例えば「7つのプログラムをコーディネートできる程度の智慧を育む」という事は必要であると思いますし、そのために実際にコーディネートを果たされる事も必要なのではないかと思われます。
そうしますと、関芳郎氏は、現在与えられている課題を全てクリアしない限り総合本部長職を退任されるべきではないし、仮に辞任しようとされても、佳子先生が許可されないのではないかと考えられます。「与えられている課題」とは、このブログで取り上げた事は勿論のこと、私が存じていない課題も様々存在するのではないかと思います。
彼が退任されるまで、他の会員の皆様が相当の負担を背負われることは避けられないように思います。他の人が総合本部長であればスムーズに進む話であっても、彼が総合本部長であるためにさっぱり進まないという事は、現に起こっている事でもありますし、今後とも起こり続ける事であると思われます。しかし、それは一人の同志の魂願を成就するためであり、言葉を代えると「全ては一人の菩薩を産み出すため」ではないでしょうか。私たちはそのために負担を背負っているのだという事を忘れてはならないと思われます。
青年層、青年シニア層の皆様に申し上げたいことがあります。
現在、佳子先生は弟子に委ねられている事項についてほとんどご指導を下さっていないようですが、「大きな失敗が起こりそうな時にストップをかけて下さる」という点ではご助力を下さっています。この「ストップをかけて下さる」という事がどれほど大きく有難いことであるのかをよく認識され、その恩恵を最大限に活かして頂きたいと思います。
佳子先生が御帰天され、皆様がGLA全体の責任を担われる時代には、皆様が青写真から外れたヴィジョンを描いたときにストップをかけて下さる方はどこにも存在しません。ストップがかからないまま、皆様が青写真から外れたことをしてしまいますと、それは「痛みの現実」として跳ね返ってきます。その時代、皆様は「痛みの現実」を教師として、高い授業料を払って学んでゆくしか道はなくなります。
それゆえ、失敗するなら今のうちにしておくことが大切ではないでしょうか。つまり、「これは神意・青写真に適う」と判断されたことがあるなら、それが実現するように思い切って挑戦してみることです。その挑戦が大きな痛みにつながりそうな時は、佳子先生がストップをかけて下さるでしょうから、何も心配することは無いと思います。
このような挑戦を続ける中で、青写真に適うものとそうでないものとを弁別する智慧や、青写真にアクセスする智慧が育まれてくるでしょうし、その智慧こそが「千年の伝承」を果たしてゆく原動力になるでしょう。逆に、挑戦しない限り、その智慧は身についてゆかないものと思われます。
私は本ブログにて「はたらきの布陣」を構築してゆく事の大切さを強調してきましたが、「はたらきの布陣」も現在の青年層、青年シニア層の皆様を中心に構築されてゆくのではないかと考えています。それは、佳子先生御帰天後のGLAを支える使命を持たれた方々ならば、何も無いところから「はたらきの布陣」を構築してゆくことも可能ではないかと考えられ、逆にそうでなければGLAが立ち行かなくなるのではないかと思われるためです。
「はたらきの布陣」は、最終的には全ての世代の人から構成されるべきものですが、構築してゆく過程では「参入する順序」というものがあるように思います。つまり、先に参入すべき人が参入し道を整えない限り、後に参入する人が参入できないようになっているように思います。
一例として、実践を主体とする止観シートの研修について考えてみたいと思います。この研修をいきなり地域拠点で実施しようとしても、皆様のみでは実現し難いと思います。しかし、青年塾の中で実施することであれば、皆様のみで実現できることではないでしょうか。その実績を掲げて地域拠点での実施を訴えてゆけば、地域拠点での実施にも道が付いてゆくのではないかと思われます。「はたらきの布陣」はこのようにして拡大してゆくものと考えます。