「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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2月3日,6日の記事(「はたらきの布陣」に関する再考(3),(4))では、「神の御心を因とする、宇宙に流れる因縁果報のはたらきの布陣」について私の考えを述べさせて頂きましたが、さらに考えてみますと、この「はたらきの布陣」を構築してゆくことは、なかなか難しい事ではないかと思えてきました。
佳子先生は「はたらきの布陣」について具体的なヴィジョンを持っておられるはずですが、ヴィジョンを実現するために弟子に指示を出されることは無いのではないかと思われます。仮に、佳子先生の指示を受けて動いた方がおられたとすると、その方は文字通り「他人の指示によって動く人」であって「神の指示によって動く人」ではありません。従って、その方は「はたらきの布陣に参入できない人」になってしまいます。
「はたらきの布陣」を構築してゆくためには、弟子が発心して動いてゆくしかないのではないかと考えられます。「自分はこのように動くよう呼びかけられているのではないか」と感じられた場合は、「そのように動いてみる」という事が大切であり、その積み重ねによって「はたらきの布陣」が構築されてゆくのではないかと考えます。その際、昨年11月11日の記事(7つのプログラム全般の態勢についての考察(2))に認めましたように、佳子先生からは「大きな失敗が起こりそうな場合はストップをかけて下さる」という形でご助力を頂けるのではないかと思われます。
「佳子先生のお役割を勝手に決めない」という事の大切さは本ブログにて再三申し上げてきたことですが、この一点のみについては、果たして下さるのではないかと考えます。
「法の継承時の鍛錬」の書籍のストラクチャーについて、昨年10月15日の記事(「法の継承時の鍛錬」の書籍の発刊について)にて簡単な案を紹介しましたが、その後に気づいたことも含めて、もう一度ストラクチャーを検討してみたいと思います。私は、次のようなストラクチャーは如何かと思います。
第1章 法の継承時の出来事
この章では、法の継承時に信次先生がどのような事を仰ったのか、それを契機としてどのような出来事が起こったのかを紹介します。
第2章 出来事の第一の意味
この章では、魂の因果律を解説するとともに、信次先生の仰った事は「弟子のカルマを引き出す鍛錬であった」ということを明確にします。なお、魂の因果律を解説は、本ブログの昨年10月15日の記事にありますように、佳子先生のご著書における解説を踏襲することが正しいものと思われます。
第3章 体験談
この章では、鍛錬を受けられた方々のいくつかの体験談(実際は如是我聞)を紹介します。
第4章 出来事の第二の意味
この章では、第3章の内容に基づいて「鍛錬の果報」を明らかにしてゆきます。「GLA随想3 法の継承時の鍛錬」のレポートでは、「試練・煩悩・菩提心比例の法則」あるいは「完全な喜びの実践」という言葉を使いましたが、この点についても佳子先生が一般向けに使われているお言葉を踏襲することが正しいのではないかと思われます。例えば「魂の発見」の191ページには、「世界とつながるために自らを闇に染める――使命への発射台」というお言葉がありますので、このお言葉などを使って解説することが正しいのではないかと思われます。
GLAと法華経の関係について基礎研究が進んできますと、GLAと法華経の関係について様々な事が明らかになってくると思います。しかし、明らかになった事を全て記載しようとすると書籍は煩雑になってしまいますので、その中からテーマを絞った形にすることが望ましいのではないかと思われます。あるいは、書籍は一冊で終わりではなく、様々なテーマについてシリーズ物のように発刊することが予定されているのかもしれません。書籍のストラクチャーは、基礎研究が進まないと見えてこない面があると思いますが、現時点で私の意識に浮かんできたヴィジョンについて、以下に紹介させて頂きたいと思います。これは、法華七喩の中の三車火宅の喩と、三草二木の喩にテーマを絞ったものです。
第1章 法華経の二つの喩
この章では、三車火宅の喩と三草二木の喩の内容とともに、これらが現代仏教の中で如何に解釈されているかを説明します。二つの喩をイメージしやすいように、喩の内容を表した挿絵などがあってもいいかもしれません。
第2章 神理概説
この章では、煩悩地図、止観シート、真我誕生、菩提心発掘などの神理の内容を解説します。
第3章 神理実践報告
この章では、様々異なる条件を抱えた人々による神理実践報告を紹介します。
第4章 新しい解釈
この章では、様々異なる条件を抱えた人々が共通の神理を学んだことにより神理実践を果たせたという事を振り返ります。そして、この「共通の神理」こそが三車火宅の喩における「大白牛車」であり、三草二木の喩における「雨」である、という新しい解釈に読者を導きます。
本年1月11日~13日の記事(GLAと法華経:書籍の編纂について)では、GLAと法華経の関係を証した書籍を発刊するにあたって、佳子先生に多大な負担を背負って頂くことになるという考えを述べさせて頂きました。ただ、このことは本ブログの他の箇所で述べております「佳子先生のお役割を勝手に決めない」「弟子が100%の力を出し切る」という事と矛盾していたように思います。そこで、書籍を発刊するにあたって、「弟子が100%の力を出し切る」ためには何が必要であるのかをもう一度考え直してみたいと思います。
GLAと法華経の関係を証した書籍を発刊するにあたって、プロジェクトリーダーを関芳郎氏に担って頂くことが呼びかけられているというのは正しいと思われます。また、GLAホームページの出来栄えなどから考えますと、彼がその役割を(少なくとも単独で)担われる事は、ほとんど無理というのも正しいと思われます。しかし、「参謀役」の方がおられると、それが可能になるのではないでしょうか。
参謀役の方の役割は、「なるべく関芳郎氏の意向を尊重しながら彼の力を引き出し、書籍の内容を整えてゆく」という事になります。佳子先生には、「必要と判断された場合に参謀役の方に対してご指導をして頂く」という形で関わって頂ければよろしいのではないでしょうか。将来のGLAにおいても、ある人に対して無理そうなテーマを与え、そのテーマを果たせる力をある程度備えている別の人を参謀役に就ける、という修行の方法が採られる場合があるのではないかと思われます。「今回の参謀役の方に対するご指導」は、未来千年に渡って参謀役を担われる方にとって欠かせないご指導になるものであり、このご指導こそ、未来千年に渡って伝承すべきものであると思われます。
法の継承時の鍛錬についてはこのブログで何度か触れてきましたが、「歴史の整備」のテーマは「GLA40年を振り返り、未来千年の礎とする」であったと考えられますので、法の継承時の鍛錬がなぜ「未来千年の礎」につながってゆくのかを考えてみたいと思います。
法の継承時の鍛錬は、一人一人の内に巣くう「己心の魔」というものが如何に恐ろしいものであり、かつ、見えにくいものであるかを教えて下さった鍛錬ではなかったと思います。法の継承時の鍛錬そのものは、煩悩地図、止観シート、魂の因果律などの神理の体系が未だ整っていない時代に実施されました。しかし、神理の体系が整った後になっても多くの方が鍛錬の意味を見い出すことができませんでした。それは、それだけ見えにくいものであるという事ではないでしょうか。
「己心の魔」は、普段の生活の中で現れてこなかったとしても、ある条件が整った時に姿を現し、様々な混乱を引き起こします。それは、過去に幾多の文明を壊滅させていった元凶であり、注意を怠るならば千年の伝承を途切れさせてしまう元凶にもなります。すなわち、GLA共同体が千年の伝承を果たしてゆくにあたって、最大の障害として立ちはだかるものがこの「己心の魔」ではないでしょうか。法の継承時の鍛錬は、その「戒め」という意味で未来千年に渡って伝承してゆくべき事ではないかと思われます。このように考えますと、このテーマに対する取り組み方について、私の考えを見直さなければならないのではないかと思われました。
私は、「鍛錬後もGLAに残留された方々に如是我聞して頂き、その範囲内で鍛錬の意味と内容を書籍にて発表する」という形で、このテーマを終結させてよろしいのではないかと考えていました。しかし、未来千年に渡って「戒め」として伝承してゆく事を考えますと、鍛錬後にGLAを去られた方々についても可能な限り情報を集め、詳細な記録をまとめておく必要があるのではないかと思われました。なお、GLAを去られた方々についての情報を現時点でGLAが公表する事は差し控えるべきであり、少なくとも関係者全員が逝去され、関係団体も消滅した後に為すべきことかと思われます。
但し、情報を集め記録をまとめるのは、当時の事をご存知の方々が存命中に果たさなければならないため、できるだけ早い段階でスタートして頂く必要があるように思います。その取り組みにおいて大切なことは、やはり「感謝と畏敬の念を忘れてはならない」という事ではないかと思います。鍛錬を受けられた方々は、GLAに残留された方々も、GLAを去られた方々も、それぞれ痛みを引き受けて下さいました。痛みを引き受けて下さった理由は、ご本人が認識されていなくても「未来千年の礎になる」という願いに基づくものではないでしょうか。その事を思いますと、感謝と畏敬の念をなくして進められるものではないと思われます。