「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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前記事で述べました事を若干訂正したいと思います。
まず一点目は、「千年構想」の進め方についてです。前記事では「職員またはプロジェクトとしてGLA共同体を支えておられる方々の大多数が共感されない限り、そのテーマはスタートしない」という方針案を述べさせて頂きました。しかし、千年構想の様々なテーマは、特定の方々に責任と負担が集中する場合が多いのではないかと思われます。特に、地域拠点のお世話人やプロジェクトの方々に、責任と負担が集中するテーマが多いのではないでしょうか。そうしますと、多くのテーマについては「責任と負担を背負われる方々が発心され合意を形成されない限り、そのテーマはスタートしない」という方針の方が妥当ではないかと思われます。
まとめますと、多くのテーマについては、次の順序で、GLAの方針が決定されてゆくことになるのではないでしょうか。
(1)責任と負担を背負われる方々が発心され、合意を形成され、事務局に方針案を提案する。
(2)事務局では、提案された方針案をボーディ・サットヴァ・ウィズダムに整合する水準に引き上げる。
もう一点、GLA公式Facebookページについての考えも訂正したいと思います。これまで、「GLAの活動について原則的に自由に議論できるよう、ガイドラインの改正が必要」という考えを述べてきましたが、もう一度考え直してみますと、ガイドラインの改正の必要は無いのではないかと思われました。これは、あるテーマについて議論したいと思う方は自分でFacebookページを開設し、その案内と参加申込の受付をGLA公式Facebookページで行い、具体的な議論は自分のFacebookページで行えばよろしいのではないかと思われるためです。GLA公式Facebookページにて参加申込される人はGLA会員に限られるわけですから、GLA会員専用のコミュニティを会員が独自の判断で創設するすることができます。
また、参加対象をさらに限定したコミュニティを創設することも容易にできます。例えば、「地域のお世話人のみで議論したい。議論の内容をそれ以外の会員に公開することは差し控えたい」と思われる方は、そのようにアナウンスし、参加承認する相手を限定すればよろしいわけです。GLAが会員専用コミュニティを創設するとき、会員専用ホームページに掲示板(BBS)機能を追加するという事が普通に考えられることかと思います。しかし、そのようにせず、Facebookページを創設した理由は、個々の会員の発心によって自由な形でコミュニティを形成できるようにするためではなかったかと思われます。
「数多の菩薩湧出のヴィジョン」についてさらに考察を重ねてみますと、これは「千年構想(7つのプログラムを含む)」と深い関係があるのではないかと思われました。このため、「千年構想」の進め方についての私の考えを若干修正しなければならないのではないかと思われました。より具体的に申しますと、「職員またはプロジェクトとしてGLA共同体を支えておられる方々の大多数が共感されない限り、そのテーマはスタートしない」という事です。
具体例として、現時点で「信次先生の法の復活」という事を「GLAの方針」として採用し発表した場合、何が起こるかを考えてみたいと思います。「信次先生の法の復活」という事は、まだ大多数の方々が共感されていないことではないでしょうか。それが「GLAの方針」として発表されると、「佳子先生の法に共感できない人のために、そこまでする必要があるのだろうか。しかし、それがGLAの方針という事であれば、心を合わせてやっていこう」という具合に考える方が多いのではないかと思われます。それでも「信次先生の法の復活」はある程度進めてゆけると思いますが、数多の菩薩を湧出させる事には、なかなか結びつかないのではないでしょうか。
「信次先生の法の復活」を数多の菩薩を湧出させる事に結び付けてゆくためには、大多数の方々に「GLAの方針がどうであれ、自分としては信次先生の法の復活を果たしたい」という「願い」を持って頂く必要があるのではないでしょうか。GLAの方針が決まっていない状態でその「願い」を自ら持てるという事は、菩薩になってゆくための一つのステップであるように思えます。それを実現してゆくための一つの方策として、GLA公式Facebookページにて、賛否両論を含めて自由な議論をして頂くということが必要ではないでしょうか。議論を通じて、「願い」を確認し、深めてゆくことができるのではないかと思います。
もう一つの方策は、「できない事は横に置いて、できる事を実践する」という事もあると思われます。例えば、昨年11月18日の記事(「通信ネットワーク環境の整備」に関する追加の考察(2))にありますように、「映像配信システムを活用し、自宅等に身を置いたまま聴講を実現する」という事は、現時点でも多くの方々に共感して頂けることではないかと思います。私は、このテーマについては、「会員の皆様の要望を待たず事務局で実現して頂ければよい」と考えていましたが、「数多の菩薩湧出」に結び付けてゆくためには、多数の会員の皆様の要望を待って実現して頂くことが正しいのではないかと考え直しました。映像配信システムの活用を要望される会員の方々は、自分自身が必要としていないにもかかわらず、他の会員のために要望されるわけです(勿論、自分自身が必要とするため要望されても一向に構わないと思います)。名も知らない他の会員のために動くという事が「菩提心発掘」という事であり、菩薩になってゆくための一つのステップであるように思えます。
「映像配信システムの活用」と「信次先生の法の復活」とは一見すると何の関係も無いことのように見えるかもしれません。しかし、「映像配信システムの活用」を会員皆様の声によって実現してゆくという事は、上述のように「菩提心発掘」という事であり、また、「大いなる存在、神と直接結びついて神の御意志を具現してゆく」という感性を恢復してゆくという事でもあると思います。このように「できる事」の実践を重ねてゆくことによって内界が耕されてきますと、「できない(はずの)事」を「できる事」に転換してゆけるのではないでしょうか。この点で、「映像配信システムの活用」を実現することは、「信次先生の法の復活」の実現に結びついてくるのではないかと考えます。
上述しましたように、千年構想を通じて数多の菩薩を湧出してゆくためには、会員の皆様の声を結集することが必要であり、それが「押し上げる力の結集」という事ではないでしょうか。そのためには、GLA公式Facebookページにて、GLAの活動について原則的には自由に議論できる事が必要ではないかと思われます。現時点でGLAの活動に関する議論が制限されている理由は、昨年7月10日の記事(GLA公式Facebookページについて(2))にて述べましたように、「GLAの活動に関する議論のルールが定まっていない」ということではないかと思います。従って、早い時期にルールを定め、議論を解禁して頂く必要があるのではないかと考えます。
前記事に引き続いて、コーディネーターを選任するまでの流れについて、さらに考えてみたいと思います。
「青写真にアクセスする力が格別に高い方々」にコーディネーターを担って頂くべき理由の一つとして、そうしなければ、多くの人は他人が示した青写真にただ賛同・追従するだけで終わってしまうという事が挙げられます。しかし、よく考えてみますと、「他人が示した青写真に賛同・追従できる」ということは、「他人が示した青写真に共感できる」という事であり、現在のGLAでは、それを果たせる人ですら希少ではないかと思われます。
現在のGLAでは、外見上、「佳子先生の示された青写真に賛同・追従する」という事はある程度果たせているかのように見えます。しかし、それだけでは真に青写真に共感できているのか、それとも佳子先生に盲目的に追従しているだけであるのか区別できません。その区別をつける最も解りやすい方法は、「佳子先生以外の人が示した青写真に共感できるか否か」を確かめてみることではないでしょうか。おそらく大多数の方が、盲目的に追従しているに過ぎないことが解ると思います。
佳子先生の示されたヴィジョンは例外なく青写真に適うものと考えて間違いありませんが、弟子が示したヴィジョンには、青写真から外れたものも含まれています。「他人が示した青写真に共感できる」ということは、「他人が示したヴィジョンのうち青写真に適うものとそうではないものとを弁別できる」という事が前提になっていますので、その力を育まない限り、実現するものではありません。
そうしますと、コーディネーターを選任する前に、「青写真に共感できる方々」すなわち「青写真に適うものとそうではないものとを弁別できる方々」を数多く輩出することが先決問題であり、重要な中間目標ではないでしょうか。従って、既に青写真にアクセスする力を育んでいる方々は、当面の間は、「アクセスした青写真を開示する」という方向で場をリードして頂くことが正しいのではないかと思われます。また、職員の方々は、単純に「青写真に共感できる」という事にとどまらず、「青写真に適うヴィジョンをボーディ・サットヴァ・ウィズダムに整合するヴィジョンに引き上げる」という事も果たして頂く必要があるのではないでしょうか。この中間目標は数年程度で達成できることであるのか、十年以上かかることなのかよく解らないのですが、数多の菩薩を湧出してゆくためには、避けて通れない中間目標であると思われます。
青写真に共感できる方々が数多く輩出されますと、今度はその方々が「響働して青写真にアクセスする」という事に挑戦してゆく段階に入るのではないでしょうか。その段階に至ったとき、それまで場をリードしてこられた方々にはコーディネーターとしての働きを担って頂くことになるのだと思われます。その態勢が整ったとき、実際に数多の菩薩が湧出してゆくのではないでしょうか。
1月9日の記事(数多の菩薩湧出のヴィジョン(2))では、「一人の菩薩を生み出す」という事が非常に困難なことであるのに対して、佳子先生が「数多の菩薩を湧出させる」というヴィジョンを描けるのはなぜなのか、という事を検討しました。その結果、「相手の魂の状態を正確に把握する」点、およびそれに基づいて「ぎりぎりの線を見極める」点において、佳子先生は他の如来の方々よりも格段に高い力を持っておられるからではないか、との考えを述べさせて頂きました。しかし、この考えを若干修正しなければならないように思えてきました。
菩薩を生み出すことができるか否かの要因を「指導者の資質」のみに求めてしまいますと、佳子先生がご帰天された後は、また菩薩を生み出すことが難しくなるという事になってしまいます。過去、如来クラスの人でも菩薩を生み出すことが難しかったもう一つの要因として、「菩薩を生み出す智慧の伝承が無かった」という事が挙げられるのではないでしょうか。「指導者の資質」は確かに大きな要因ではありますが、もしGLA共同体にて「菩薩を生み出す智慧」が伝承され続けたならば、指導者の資質を補うことができ、未来千年に渡って菩薩を生み出し続けることができるのではないかと思われます。
次に、「菩薩を生み出す智慧」を佳子先生から如何に伝承して頂くか、という事を考えてみたいと思います。1月10日の記事(数多の菩薩湧出のヴィジョン(3))では、「職員および希望する会員の全員が100%の力を出し切れる態勢」を整える必要性について述べさせて頂きました。ここで、100%の力を出し切って行き詰ったらどうするのか、という事が問題になります。同記事では、行き詰まりを解消するようなヒントを佳子先生に出して頂く事を前提にしていました。しかし、「菩薩を生み出す智慧」を伝承して頂くためには、ヒントを出す役割も弟子が担わなければならないのではないかと考え直しました。
ここで、ヒントを出す役割を担う弟子を「コーディネーター」と呼ぶことにします。コーディネーターは、行き詰まりが生じたテーマについて、実は先回りして青写真にアクセスしており、「どのようなタイミングでどのようなヒントを提示するか」という計画を立て、佳子先生からご指導を頂いた上で、ヒントを提示します。従って、コーディネーターは、それが果たせる程度にまで青写真にアクセスする力を育んでいる人である必要があります。このコーディネーターに対する佳子先生のご指導が伝承されることによって、「菩薩を生み出す智慧」も伝承されてゆくのではないかと考えられます。
但し、短期的に見れば、コーディネーターは絶対に必要な存在というわけではありませんので、最初はコーディネーター不在のまま態勢を整えてゆけば、よろしいのではないかと思われます。実際に態勢を整えて青写真へのアクセスを始めてみますと、「青写真にアクセスする力が格別に高い方々」の存在が問題になってくるのではないかと予想しています。その方々が「青写真にアクセスして発表する」という方向で100%の力を発揮し始めますと、他の人はただ賛同・追従するばかりで100%の力を発揮できなくなってしまうのではないでしょうか。その場合、その方々には青写真の発表を控えて頂くとともに、「コーディネーターとしての使命を果たす」という方向に、100%の力を発揮する方向を変えて頂く必要が生じるのではないでしょうか。コーディネーターは、そのようにして選任されてゆくのではないかと考えます。
昨日、一昨日は「神意・青写真にアクセスする段階」について述べさせて頂きましたが、その事を踏まえて「千年構想」についてもう一度考察してみたいと思います。
本ブログでは、「7つのプログラム」「信次先生の法の復活」「法華経に基づく伝道」などについて、私が考えておりますことを発表させて頂きました。これらは、全て「千年構想」の範疇に属するものであると考えます。本ブログにて私が述べてきましたことは、細かい点で誤りや視点落ちがあるかもしれませんが、大筋において正しい事であると考えています。しかし、実際にこれらのテーマを如何に推進してゆくか、という事になりますと、「よく解らない」というのが実情でした。
一つの可能性として考えられることは、「事務局が主導して進めてゆく」ということではないでしょうか。しかし、事務局の現状というものを拝見しておりますと、とてもそれを果たせるようには思えませんでした。現在、職員の方々に佳子先生が与えておられるテーマと比較して、千年構想の各テーマは格段に難しいものではないでしょうか。もう一つの可能性として考えられることは、「佳子先生に主導して頂く」ということです。確かに佳子先生に主導して頂ければ100点満点の結果を導くことができると思いますが、「未来千年」という事につながらないように思えます。
未来千年の事を考えますと、佳子先生に主導して頂いて100点満点の結果を出す事よりも、弟子のみの力で60点以上の結果を出す事のほうが、はるかに重要ではないかと私は思います。「60点」というのは、「そのままでも何とか許せる、ぎりぎりの及第点」という意味です。それが出来なければ、千年の伝承を果たすことは不可能ではないでしょうか。従って、千年構想の取り組みにあたっては、何よりも、弟子が100%の力を出し切って60点以上の結果を出すことが必要であり、佳子先生にご指導を頂くとしても、その後で「残り40点を取るにはどうすればよいか」という観点からご指導を頂くべきではないでしょうか。しかし、「グループ力・響働力に基づくお世話構造」や「7つのプログラム」などについて事務局の出来栄えは、(私が退会した2012年の段階で)ほとんど0点に近いものであり、60点以上の結果を出すというのは無理難題としか思えません。
弟子のみの力で60点以上の結果を出し続けるためには、在家の会員の中で、青写真にアクセスする力を過去世に育んできた方々に力を発揮して頂く、という事以外に可能性は残っていないのではないでしょうか。おそらく、その方々がGLA公式Facebookページ、あるいはプロジェクトの場などにおいて様々なヴィジョンを提示して、千年構想を主導してゆく、という事が求められているのではないかと思われます。但し、その方々に対して、佳子先生あるいはGLAから「そのような使命を果たすように」とのご指示は一切無く、大いなる存在、神が直接指示を出されるのではないかと考えられます。従って、その方々は、神の御意志をしっかりと把握し、「神の御意志のままに働く」という覚悟を決めて頂く必要があると思います。もし、神の御意志の通り動かれなかった場合には、かなり厳しい「試練」という形で「よびかけ」を頂くことになるのではないかと思われます。
昨日の記事にて「Calling 試練は呼びかける」のご著書の内容にあまりこだわらない方がよろしい場合がある、と申しましたが、「願いが先にあり、試練は後からやってくる」という点は常に正しいことであると思います。千年構想を主導する方々が「試練」を背負われるとすると、それは「使命」を背負われているからではないでしょうか。そして、「使命」を背負われたのは、元々そこに「願い」があったからではないでしょうか。
但し、以前にも申し上げたことですが、在家の会員はボーディ・サットヴァ・ウィズダムを拝読しておりませんので、ボーディ・サットヴァ・ウィズダムに整合するヴィジョンを最初から提示することは難しい面があります。在家の会員から提示されたヴィジョンをボーディ・サットヴァ・ウィズダムに整合するヴィジョンに引き上げるためには、職員の皆様に「引き上げる力」を発揮して頂く必要があるのではないかと考えます。