「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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前記事の最後に「試練」という事に触れましたので、引き続いて「試練」ということについて考えてみたいと思います。「試練」を如何に受け止め如何に対応してゆくべきかは、例えば「Calling 試練は呼びかける」のご著書に開示されています。このご著書では、様々な形で「試練の内容」と「試練が呼びかけていること」には深い関係がある事が明かされています。しかし、「すっきりしない神意」を具現してゆける方々は、このご著書の内容にあまりこだわらない方がよろしい場合があるのではないかと思います。
神が人間に対して御意志を伝えられているのに、人間がその事に気づかない、あるいは気づいているのに動こうとしないとき、神がその人間に対して試練を与えられることがあります。この場合、「試練が呼びかけていること」とは「命じた事を遂行せよ」という事であり、それは「試練の内容」とは無関係な場合が多々見受けられます。その場合は、神の御心を何度も訊ね、感じた神の御意志の通りの事を遂行してゆく以外に解決方法は無いものと思われます。
前記事で触れさせて頂いた、佳子先生に与えられた「よびかけ」(と私が考えていること)についてもそうでした。「試練の内容(佳子先生の体調不良)」と、「試練が呼びかけていること(「人間のまなざし」シリーズの発刊と学びの遂行)」との間には特段の関係は無く、「試練の内容」をどれほど吟味しても「試練が呼びかけていること」は見えてきません。
前記事も本記事も、佳子先生の説かれた事に反するような事ばかり述べておりますが、このように考えて頂きたいと思います。99.9%の方は、佳子先生の説かれた事を愚直に学び実践されればそれでよろしいのであって、本ブログにてそれに反する記事があっても気にする必要は無いものと思います。但し、残り0.1%の方は、それでは道が付かない場合があるかもしれません。その場合は、本ブログの記事を思い出して頂いて頂ければ、もしかすると道が付いてゆくかもしれません。
少し話題を変えて、「神意・青写真にアクセスする段階」について私の考えを述べてみたいと思います。このブログでは、様々な青写真について私の考えを述べさせて頂きましたが、その中には段階の異なる青写真が混在しておりますので、一度まとめておいた方がよろしいのではないかと思いました。
佳子先生は「すっきりセンサー」というご指導を下さったことがありました。「すっきりセンサー」というのは、ある考えが神意・青写真に適うか否かを判断するときに、「一点の曇りもなくすっきりするか否か」という観点から判断する、というものでした。現在、佳子先生が弟子に与えられているテーマは、おそらく「すっきりセンサー」によって正否を判別できることばかりではないかと思われます。
このブログで再三述べてきました2つの「Q&A」(インターネット上の批判的投稿および『高橋信次の霊言』と称するもの)についても、その範疇に属するものではないでしょうか。これら「Q&A」を書いてみて(あるいは読んでみて)、一点の曇りもなくすっきりするでしょうか。もし、すっきりしないものが残るとすると、それは「すっきりセンサー」の基準から考えますと、「神意・青写真から外れている」と判断することができます。そして、これら「Q&A」が掲載され続けているということは、「すっきりセンサー」のご指導が心に落ちていない、ということではないかと思われます。従って、大多数の方々は、「すっきりセンサー」を絶対的な基準として捉え、それを実践してゆくことが呼びかけられているのではないかと考えます。
しかし、私は「すっきりセンサーを絶対的な基準とする」という事から離れるべき方もおられるのではないかと思います。「すっきりセンサー」を基準として様々な青写真にアクセスできるようになりますと、神との一体化が深まってゆき、やがてアクセスする事が一層難しい「すっきりしない神意」というものにアクセスできるようになるように思われるためです。「すっきりセンサー」が働く場合というのは、「青写真の全体像が見える場合」に限られるのではないかと私は思います。つまり、「全体像が見えるから、すっきりする」という事ではないでしょうか。
一方、神が描かれる青写真の中には、人間には全体像が見えないものも様々存在するように思えます。それは、「完遂までに長い時間がかかるもの」「多くの人が関係するもの」「常識を覆すような要素が含まれるもの」などです。そのような場合、神は人間に対して、「当面の間、その人間が何を果たすべきか」という形でご意志を示されることがあります。すると、その人間は青写真の全体像が見えないために、「すっきりしない」「何のためにそれを果たさねばならないのか解らない」という想いを抱えてしまうことになります。しかし、それを遂行できるようになれば、その人の果たせる具現の範囲が大きく広がってゆきます。
昨年12月6日の記事(歴史の整備:法の継承時の鍛錬のさらなる意味について)にて述べましたように、「人間が神の御意志を感じる」という事は、「神が人間の中で思惟された」という事に他ならないことですが、「神が人間の中で思惟されたこと」と「その人間が勝手に思惟したこと」とを明確に区別することは難しい点があります。そのため、「すっきりしない神意」というものを感じた場合は、それが本当に神意として正しいものなのか否か、何度も自分自身に問いかけて結論を出さなければならないように思えます。そして、「正しい」と判断した場合には、たとえその人が犠牲を払ってでも、それは遂行しなければならないことではないでしょうか。同記事にありますように、私自身もこのブログを開設するにあたってそうしてきたつもりです。
「すっきりしない神意」に従うことは、佳子先生であっても難しい場合があるのではないかと思います。「GLA随想7 GLAの歴史と三つの柱」のレポートの7ページには、佳子先生に与えられた「よびかけ」(と私が考えていること)について触れさせて頂きました。その内容には、多分に私の推測が含まれていますが、「人間のまなざし」シリーズによって多くの会員がついてゆけなくなるような学びを敢行することについて、佳子先生ご自身も「すっきりしない想い」というものを抱えておられたのではないかと思われます。
繰り返しになりますが、大多数の方は「すっきりしない神意」というものを考える必要はなく、佳子先生からご指導頂いている通り、「すっきりセンサー」を基準として考えて頂くことが正しいのではないかと思われます。そこから離れるべき方は、その方ご自身が自覚されるはずです。それは、もしかすると、厳しい試練のような形で現れるかもしれません。
法の継承時の鍛錬について、少し思い出したことがありました。2008年頃、私は法の継承時の鍛錬についての私の考えを事務局内の一部の方々に開示させて頂くとともに、その旨を佳子先生にご報告させて頂いたことがありました。その後、鍛錬を受けられながらGLAに残留された方から、鍛錬後にGLAを去られた方に対して、何通かのお手紙が送られたことがありました。GLAを去られた方が開示された情報によりますと、これらのお手紙は全て内容証明郵便であったということです。「一度会ってお話したい」という程度のお手紙ですら内容証明郵便でした。おそらく、これは佳子先生のご指示によるものではないでしょうか。
GLAに残留された方は、例えば「鍛錬の真相を社会全体に開示することはできない。しかし、この方がGLAに戻れるようになるのであれば、この方に対してのみ真相を開示してもよい」のようにお考えになったのではないでしょうか。その想いを佳子先生が察知され、「秘密のお話」をお手紙に書けなくするために、全てのお手紙を内容証明郵便にするよう指示されたのではないかと推測します。「秘密のお話」をしてはならない理由は、ある特定の人がGLAに復帰すればよいということではなく、現在GLAの外で信次先生の法を求めておられる方々全員に対して道を付けなければならず、そのためには鍛錬の真相を社会全体に開示しなければならないからであると考えます。
鍛錬を受けられた方々のうちGLAに残留された方々は、なぜ残留する事ができたのか思い出して頂きたいと思います。「自分が悩乱してしまった一切の原因は自らの内にあった。信次先生はその事を知らしめて下さるために、鍛錬をして下さったのだ」という事を自ら気づかれたのでしょうか。そうではなく、おそらく信次先生または佳子先生がストップをかけて下さったのではないかと思われます。その一方、GLAを去られた方々には、ストップがかけられなかったわけです。そうであるとすると、GLAに残留された方々は「神理を学ぶ場を一つに統合してゆく」という使命を持たれており、その使命を成就するためにストップがかけられた、と考える事が正しいのではないかと思われます。しかし、その方々のみでは使命の成就に向かって歩みだす決心がつかない、というのも偽らざる現状であるのかもしれません。
そこで、重要と思われますことは、鍛錬を受けられた方々の周囲におられる方々です。「神理を学ぶ場を一つに統合してゆく」という事はGLA共同体全体のテーマであり、鍛錬を受けられた方々の個人的なテーマには留まりません。周囲におられる方々は、鍛錬を受けられた方々を励まし、響働し、共に使命を成就してゆかれる事が呼びかけられているのではないでしょうか。1月10日の記事(数多の菩薩湧出のヴィジョン(3))では、7つのプログラムの各テーマについて、「現在の事務局内の部門毎に、検討チームを編成する」という案を述べさせて頂きました。「歴史の整備」についても、その例外ではないと思います。鍛錬を受けられた方々とその周囲の方々によって「歴史の整備」の検討チームを形成し、「共に響働して使命を果たしてゆく」という事を事務局の態勢の面からも明確にしてゆくことが必要ではないかと思われます。
昨年12月14日,19日,20日の記事(GLAの第三代目会長について)では、法華経の「長者窮子の喩」のように、何十年もGLAから離れていた方がGLAに復帰され、第三代目会長に就任されることになるのではないか、との考えを述べさせて頂きました。
「長者窮子の喩」では、長者が窮子を邸宅に連れ戻そうとしても窮子が警戒して応じようとはしないため、長者は召使いにみすぼらしい格好をさせて「いい仕事があるから一緒にやらないか」と誘うよう命じ、邸宅に連れ戻しました。このように、「まず、相手が望んでいるものを提示する」という事が大切であることが解ります。そして、現在のGLAに置き換えますと、「相手が望んでいるもの」とは、「法の継承時の鍛錬の真相」とも呼べるものではないでしょうか。それを開示できない限り、いつまで経っても次代の会長が決まらないという事になってしまいます。
では、「法の継承時の鍛錬の真相」とは何であるのかを考えてみたいと思います。法の継承時の鍛錬について私が考えておりますことは本ブログにて述べてきました。それらは私個人の考えや推測に過ぎないものですが、当たっている部分もあるはずであり、その部分は「真相の一部」と呼べるのではないでしょうか。ただ、本ブログにて述べてきましたことのみでは、「カルマのエネルギーを最大限にまで引き出された、辛く厳しいお話」で終わってしまいます。「鍛錬」であるならば、「果報」が存在するはずであり、それは「鍛錬を頂いたことに対する、感謝と歓びのお話」であるはずです。このように、「辛く厳しいお話」と「感謝と歓びのお話」との両者が揃って初めて「真相」と呼べるのであり、前者のお話のみでは「真相の一部」にしかならないものと思われます。
鍛錬の果報は、実際に鍛錬を頂いた方でなければ開示できないことであり、本ブログにて開示できることではありませんが、「大体の方向性」という事で考えておりますことを述べさせて頂きます。「自分自身の状態」という面から鍛錬の内容を振り返ってみますと、次の4つのステップから成るのではないでしょうか。
ステップ1:鍛錬の前、平常心でいられた自分
ステップ2:カルマのエネルギーを引き出され、悩乱した自分
ステップ3:反省によって内界の浄化を果たしていった自分
ステップ4:反省の結果、平常心に戻れた自分
要は、この「ステップ1の自分」と「ステップ4の自分」とは何が違っていたのか、ということが「果報」になると思われます。私は、「真我誕生」の神理から眺めると、その解答が導き出せるのではないかと思っています。ステップ1,2は「偽我埋没」、ステップ3は「善我確立」、ステップ4は「真我誕生」に相当するのではないでしょうか。「善我確立」とは、自ら意識して「偽我埋没」とは真逆の方向に律してゆくことであり、「善我確立」に取り組んでいる(当時の言葉では「反省」に取り組んでいる)という事実は自覚しやすい事ではないかと思います。それに対して、「真我誕生」は、「善我確立」の結果として自然に果たされることであり、自覚しにくい面があるのではないかと思います。また、「真我誕生」は、「快・苦/暴流・衰退」というエネルギーの傾向という点では「偽我埋没」と共通しているため、その事も自覚しにくさを助長しているように思います。
「真我誕生を果たしたはずだと言われても、ステップ1の自分とステップ4の自分とは、さほど変わっていなかったように思える」というのが、鍛錬を受けられた方々の正直な感想なのかもしれません。しかし、より細かく見てゆくと、様々な点で「魂の成長」の証を発見できるのではないでしょうか。そして、おそらくその時に果たされた「魂の成長」によって、その後の人生が拓けていったのではないか、とも思われます。また、他者視点を導入することも有効かと思われます。自分自身が気づいていなくとも、「ステップ1の自分」と「ステップ4の自分」との違いを、周囲の方は明確に気づいておられたかもしれません。
以前にも述べましたが、「法の継承時の鍛錬の真相」は、次代の会長になられる方のみならず、書籍等の形で社会全体に対して発信してゆく必要があるものと思われます。これによって、「GLAの理事の方々の世代交代」や「神理を学ぶ場を再び一つに統合してゆくこと」が促進されてゆき、GLA共同体全体が次のステップに進めるようになるのではないかと考えます。そのためには、「鍛錬の果報を明確化する」という事は避けて通れないことのように思えます。
前記事を書いた後に思ったことですが、関芳郎氏が書籍の執筆を発心されるということは、現状では難しいかもしれません。「法華経とは高橋佳子先生およびGLAの出現を予言したものである」という認識を持てなければ書籍の執筆を発心することは出来ないはずであり、「GLA随想6 法華経に基づく伝道」のレポートなどに基づいてその認識を持つことは、彼にとって難しすぎるかも知れないと思っています。それだけの感性が彼にはまだ育まれていないのではないでしょうか。
上述のレポートでは、書籍のストラクチャーを検討する前に、法華経がどのような形でGLAの出現を予言しているかについて、基礎研究を充実する必要性を述べさせて頂きました。実際に多くの方々が基礎研究に参入され、GLAと法華経の関係が一層明らかになってきますと、関芳郎氏も目を覚まされ、書籍の執筆を発心されるのではないかと思います。「基礎研究」は、直接的にGLAの方針について議論するものではありませんので、今すぐにでもGLA公式Facebookページにて有志の方々が始められてもよろしいのではないかと思います。
基礎研究を早い段階でスタートさせるということは、「関芳郎氏のため」というばかりではなく、かつて法華経信仰をされてきた方々の「願い」を成就してゆく、という意味もあるのではないかと思われます。かつて法華経信仰をされた後、法華経信仰を捨ててGLAに入会された方々は、おそらく「その選択は正しかった」と思っておられるのではないでしょうか。しかし、ただ「正しかった」では割り切れない「何か」が引っかかっている方もおられるのではないかと思います。例えば、「自分一人が神理を学ぶだけではなく、かつて共に法華経を学んだ方々にも神理を学んで頂きたい」という「願い」を感じられたことは無かったでしょうか。
そのような「願い」があるとすると、その願いを成就してゆく一番の早道は、「GLAと法華経の関係を証した書籍を発刊する」という事以外に考えにくいのではないでしょうか。そして、書籍を発刊するためには、基礎研究を充実させてゆく必要性があることもご理解頂けるのではないかと思います。基礎研究を開始するにあたって、関芳郎氏が現段階で例えば「基礎研究を始めましょう」などと会員の皆様に呼びかけられることは、考えにくい事であると思います。有志の方々の発心が無ければ基礎研究はスタートすることはなく、書籍が発刊される時期もそれだけ遅れることになるのではないかと私は考えています。