「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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「GLAテキストブックシリーズ」は、GLAホームページにおいても紹介されていますが、同シリーズとして発刊されたテキストブックは2007年に「GLA会員の基本ライフスタイル」のみであり、それ以降7年に渡ってテキストブックは発刊されていません。この現実は、何を呼びかけているのでしょうか。
私は、テキストブックは全て佳子先生が御執筆下さるものと漠然と考えておりましたし、同じように考えておられる方も多いのではないかと思います。しかし、その考えは誤っているのではないかと思えてきました。つまり、現在発刊されていないテキストブックは全て弟子によって編纂されるべきものではないでしょうか。
その事の正否は、単純に「佳子先生が7年間も御執筆されなかったから」という理由によって判断されるべきではなく、「そもそもテキストブックシリーズを発刊する願いは何であったのか」「千年の伝承を果たしてゆくために弟子は如何なる智慧を育まなければならないのか」という大局的見地から吟味されるべきものと思います。しかし、そのような吟味の結果、「弟子が編纂すべき」という結論に達する可能性は相当に高いのではないかと私は考えています。その理由は、「GLAテキストブックシリーズ」には「千年の伝承を果たす」という願いが込められているのではないかと思えるためです。智慧の伝承は文字のみによって果たすことはできず、人から人への伝承というものが不可欠であると思われます。その一方、文字という形で伝承の内容をピン打ちし、骨組みを明確化しておくことも不可欠ではないでしょうか。私は「GLAテキストブックシリーズ」は後者の役割を果たすものであるため、千年の伝承の担い手である弟子が編纂すべきではないかと考えています。そこで、この考えが正しいという事を前提として、編纂のあり方ついて検討してみたいと思います。
まず、第一に重要なことは、「佳子先生に対して、さらなる智慧の伝承をお願いする」という事ではないでしょうか。テキストブックは、各々のテーマについて「倣う」「祈る」「学ぶ」という三つの要素から構成されています。私が存じている限りでは、(「GLA会員の基本ライフスタイル」を例外として)このような要素の分け方について佳子先生が智慧を開示されたことはありませんでした。従って、現状のままでは、弟子がテキストブックを編纂してゆくことには無理があり、神理実践を三つの要素に分けることの意味について、さらなる智慧の伝承をお願いする必要があるのではないでしょうか。
第二点目として、佳子先生が説かれたことのみならず「弟子が見い出した事もテキストブックに含める」という事も大切ではないかと思われます。たとえば、GLA随想2,3のレポートでは、魂の因果律における止観シートの位置づけや、受発色の主要な系列が4×3通りになる理由について、私の考えを紹介させて頂きました。これらの事を「知っている人」と「知らない人」とでは、同じように止観シートに取り組まれたとしても、内界の看取りの深さが違ってくるのではないでしょうか。ここで「知っている人」が「このブログを読んだ人」に限定されるとすると、あまりにも残念なことではないかと思われます。私の考えが正しいのか否かをよく吟味され、「正しい」という結論が出たのであれば、それはテキストブックに含めて頂くことが呼びかけられているのではないでしょうか。
第三点目として、将来的には「結力を育むテキストブック」の編纂に向かってゆく必要があるのではないかと思います。現在のところ発刊が予定されているテキストブックは菩薩必携の四力のうち「観力」「浄力」「発力」を育むものに限られているように見受けられます。千年の伝承を果たしてゆくためには、これらに加えて「結力を育むテキストブック」が不可欠ではないかと私は考えます。但し、私が存じている範囲では「結力」を育むために何が必要であるのか、佳子先生はあまり多くの事を説かれておられませんので、「結力を育むテキストブック」がどのようなものになるのか、なかなか全体像が見えてきません。
「佳子先生との一体化を果たす霊操行」は「結力」を育むために大切であるという事は間違い無いものと考えますが、それだけでは「倣う」「祈る」「学ぶ」という三つの要素が揃いません。やはり、佳子先生に対してさらなる智慧の伝承をお願いしない限り、「結力を育むテキストブック」を編纂することは難しいのではないかと考えられます。
2月21日の記事の続きです。「はたらきの布陣」を構築してゆく必要性について、疑問を持たれている方もおられるかもしれません。「GLAの首脳部に青写真にアクセスできる人を集めておき、他の人は首脳部が決定した方針に従って動けばよい」と考える人は多いと思われますし、その考え方は通常の組織の意志決定の仕方に類似しますので、ある意味では自然な考え方であると思います。
しかし、例えばGLAの首脳部が「信次先生の法を復活させる」という方針を打ち出したとしても、単純にその方針に従って動くことは、なかなか難しい事ではないでしょうか。信次先生の法を復活させるためには、佳子先生の法に共感できない人に対する愛の想いが醸成されていることが前提であり、その前提を欠いていると、誰が号令をかけてもうまく進まないのではないかと思われます。愛の想いを醸成してゆくためには、賛否両論を含めて、会員の皆様が自由に意見交換すること、すなわち「はたらきの布陣」を構築してゆくことが欠かせないのではないでしょうか。
このように考えてゆきますと、「はたらきの布陣を構築することによって全体の意識を高めてゆく」という事が先決問題であり、「首脳部の決定」とはそれを確認的に明確化してゆくことである、と考えることが正しいのではないかと思います。「信次先生の法の復活」に限らず、今後GLA共同体が果たしてゆくべき具現は、「はたらきの布陣」を構築しなければ進められないものが多くなってゆくのではないかと考えます。
もう一つ、GLA共同体の方針を的確に決定してゆくためには、社会や世界に満ちる「困の次元」を察知するアンテナが数多く必要になるのではないかと考えます。
一人一人が抱えている職業、経歴等の条件はそれぞれ異なりますが、それによって他の人には察知できない「困の次元」を察知できる可能性を一人一人が抱いていると考えることができます。日々の生活の中で思った事をただコミュニティの中で発表するというだけの行為であっても、それが大きなうねりとなって全体を動かしてゆく契機になるかもしれません。社会全体、世界全体を見晴らす広い視野の中からGLAの方針を決定してゆくためにも、「はたらきの布陣」は欠かせないことであると考えます。
青年層、青年シニア層の皆様に申し上げたいことがあります。
現在、佳子先生は弟子に委ねられている事項についてほとんどご指導を下さっていないようですが、「大きな失敗が起こりそうな時にストップをかけて下さる」という点ではご助力を下さっています。この「ストップをかけて下さる」という事がどれほど大きく有難いことであるのかをよく認識され、その恩恵を最大限に活かして頂きたいと思います。
佳子先生が御帰天され、皆様がGLA全体の責任を担われる時代には、皆様が青写真から外れたヴィジョンを描いたときにストップをかけて下さる方はどこにも存在しません。ストップがかからないまま、皆様が青写真から外れたことをしてしまいますと、それは「痛みの現実」として跳ね返ってきます。その時代、皆様は「痛みの現実」を教師として、高い授業料を払って学んでゆくしか道はなくなります。
それゆえ、失敗するなら今のうちにしておくことが大切ではないでしょうか。つまり、「これは神意・青写真に適う」と判断されたことがあるなら、それが実現するように思い切って挑戦してみることです。その挑戦が大きな痛みにつながりそうな時は、佳子先生がストップをかけて下さるでしょうから、何も心配することは無いと思います。
このような挑戦を続ける中で、青写真に適うものとそうでないものとを弁別する智慧や、青写真にアクセスする智慧が育まれてくるでしょうし、その智慧こそが「千年の伝承」を果たしてゆく原動力になるでしょう。逆に、挑戦しない限り、その智慧は身についてゆかないものと思われます。
私は本ブログにて「はたらきの布陣」を構築してゆく事の大切さを強調してきましたが、「はたらきの布陣」も現在の青年層、青年シニア層の皆様を中心に構築されてゆくのではないかと考えています。それは、佳子先生御帰天後のGLAを支える使命を持たれた方々ならば、何も無いところから「はたらきの布陣」を構築してゆくことも可能ではないかと考えられ、逆にそうでなければGLAが立ち行かなくなるのではないかと思われるためです。
「はたらきの布陣」は、最終的には全ての世代の人から構成されるべきものですが、構築してゆく過程では「参入する順序」というものがあるように思います。つまり、先に参入すべき人が参入し道を整えない限り、後に参入する人が参入できないようになっているように思います。
一例として、実践を主体とする止観シートの研修について考えてみたいと思います。この研修をいきなり地域拠点で実施しようとしても、皆様のみでは実現し難いと思います。しかし、青年塾の中で実施することであれば、皆様のみで実現できることではないでしょうか。その実績を掲げて地域拠点での実施を訴えてゆけば、地域拠点での実施にも道が付いてゆくのではないかと思われます。「はたらきの布陣」はこのようにして拡大してゆくものと考えます。
前記事の続きです。「はたらきの布陣」を構築してゆくことが困難である第一の理由は、前記事で述べましたように、「佳子先生の御指示を頂けない」という点にあるのではないかと思います。さらに、第二の理由として、「不連続な飛躍を果たさなければ実現できない」という点があるのではないかと思います。つまり、「易しいものから難しいものに段階的に挑戦してゆく」ということができず、ある程度高いレベルの事にいきなり挑戦しなければならないのではないかと思います。
一例として、「7つのプログラム:研鑽の充実」の地域拠点における研修について考えてみたいと思います。再三述べてきましたように、この研修は止観シートの研修を指すものと私は考えておりますが、その通りであるとすると佳子先生はなぜヒントの中に「止観シート」という言葉を使われなかったのでしょうか。もし、佳子先生が「止観シート」という言葉を使われますと、「止観シートの研修」という青写真に誰もアクセスできなくても、また、青写真に共感できなくても、「止観シートの研修」というものが実現できてしまうためではないでしょうか。これでは、「はたらきの布陣」を構築してゆくことができないのではないかと思われます。
止観シートの研修を早期に実現することは大切なことであると思いますが、未来千年のことを考えますと、「はたらきの布陣」を構築してゆくことを優先させなければならず、そのために「止観シートの研修」という事を明示されなかったのではないかと思われます。GLA随想4のレポートに認めましたように、佳子先生はヒントの中で「止観シート」に相当するものとして、例えば「神理の基礎を学べる教材」のようなお言葉を使われたのではないかと推測します。おそらくこれは「はたらきの布陣」を構築してゆけるぎりぎりのヒントであり、これよりも解りやすいヒントを使われますと、やはり「はたらきの布陣」を構築してゆくことができなくなるのではないかと考えられます。このように、最初の段階から、ある程度のレベルの事を実現しなければならない点で、不連続な飛躍を果たす必要があるのではないかと考えられます。
また、「はたらきの布陣」を構築してゆくことが困難である第三の理由として、「最初から全体が見えない」という点も挙げられるのではないでしょうか。一般社会においても、GLAのプロジェクトにおいても、「組織」というものは全体の構成が明確であり、組織の中で「誰がどのような役割を果たすのか」という役割分担も明確であり、そうであるからこそ、組織が機能するのではないでしょうか。それに対して、「はたらきの布陣」は、少なくとも最初の段階では、全体がどうなっているのか、誰がどのような役割を果たすのかがさっぱり見えてこないという点に特徴があるのではないかと思います。つまり、通常の組織のあり方、指揮・命令系統のあり方などの常識に囚われていると、「はたらきの布陣」を構築してゆく方向に動くことができなくなるのではないかと思われます。
「はたらきの布陣」が実際にどのようなものであるのか、私自身も漠然としたイメージしか抱けないのですが、御著書「レボリューション」の「志の連帯」の章に示された「ネットワーク」に近いものになるのではないかと考えています。幕末の時代、一人一人の志士の中で、最初から「明治維新を起こそう」と計画した人は誰もいませんでした。それぞれが「日本の将来のために必要」と考え行動したことが繋がって、「明治維新」という結果が生まれました。「はたらきの布陣」についても、一人一人が「GLA共同体にとってこの事が必要」と感じたら行動を起こすことの積み重ねによって、形が見えるようになってくるのではないかと思います。
以上のように、はたらきの布陣を構築してゆくことには、様々な困難が伴いますが、弟子がその飛躍を果たせるからこそ7つのプログラムが与えられているのだと思いますし、その飛躍を果たせなければ千年の伝承というものも果たせなくなるのではないでしょうか。これまで述べてきました事の繰り返しになりますが、将来のGLAでは、誰かが青写真にアクセスできたとしても、多くの人がその青写真に共感されない限り、青写真は具現されることはありません。また、「青写真にアクセスできる」と言いましても、常に間違えることなくアクセスできるわけではなく、常に細部まで行き届いた形でアクセスできるわけでももありません。そのような点を補いつつ、GLA共同体が神意・青写真を具現してゆくためには、「はたらきの布陣を構築する」という以外に方法は無いのではないでしょうか。それゆえ、それが如何に困難な事であっても、挑戦を果たしてゆく以外に道は無いのではないかと思われます。
「私たちが魂共同体千年構想を果たしてゆくためには、神の御心を因とする、宇宙に流れる因縁果報のはたらきの布陣に就くことが大切」(GLA誌1999年11月号66ページ)という佳子先生のお言葉の重さを、改めて噛みしめてゆく必要があるのではないでしょうか。
2月3日,6日の記事(「はたらきの布陣」に関する再考(3),(4))では、「神の御心を因とする、宇宙に流れる因縁果報のはたらきの布陣」について私の考えを述べさせて頂きましたが、さらに考えてみますと、この「はたらきの布陣」を構築してゆくことは、なかなか難しい事ではないかと思えてきました。
佳子先生は「はたらきの布陣」について具体的なヴィジョンを持っておられるはずですが、ヴィジョンを実現するために弟子に指示を出されることは無いのではないかと思われます。仮に、佳子先生の指示を受けて動いた方がおられたとすると、その方は文字通り「他人の指示によって動く人」であって「神の指示によって動く人」ではありません。従って、その方は「はたらきの布陣に参入できない人」になってしまいます。
「はたらきの布陣」を構築してゆくためには、弟子が発心して動いてゆくしかないのではないかと考えられます。「自分はこのように動くよう呼びかけられているのではないか」と感じられた場合は、「そのように動いてみる」という事が大切であり、その積み重ねによって「はたらきの布陣」が構築されてゆくのではないかと考えます。その際、昨年11月11日の記事(7つのプログラム全般の態勢についての考察(2))に認めましたように、佳子先生からは「大きな失敗が起こりそうな場合はストップをかけて下さる」という形でご助力を頂けるのではないかと思われます。
「佳子先生のお役割を勝手に決めない」という事の大切さは本ブログにて再三申し上げてきたことですが、この一点のみについては、果たして下さるのではないかと考えます。