「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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前記事に述べましたことから、「はたらきの布陣」というものは、「最初に青写真にアクセスできる人」、「他の人がアクセスした青写真に共感して詳細な青写真や隣接する青写真にアクセスできる人」、「他の人がアクセスした青写真に共感して実現のために動ける人」などによって構成されることになります。そうしますと、青写真に共感できない人は「はたらきの布陣に参入できない人」という事になってしまいます。そして、現在のGLAでは、その「はたらきの布陣に参入できない人」が大多数を占めているのではないかと思われます。7つのプログラムは、ある側面から考えますと、「はたらきの布陣に参入できない人」が参入を果たせるようになるための修行であると言えるのではないでしょうか。
7つのプログラムについては、まだ数年間は「弟子による挑戦」の期間であって佳子先生は解答を開示されないと思いますが、数年後には佳子先生が7つのプログラムの全てのテーマについて解答を開示されるのではないかと思われます。その時点で多くのテーマが不出来であったとしても、ただ一つでも弟子の発心によって具現できたテーマがあれば、佳子先生はその事を高く評価され賞賛されるのではないかと思います。
それは、お世辞でも何でもなく、実際に賞賛に値する事であると考えます。もし、様々な青写真を開示できる人がいたとしても、多くの人が青写真に共感して実現のために動こうとしない限り、青写真は何一つとして具現されることはありません。逆に、ただ一つのテーマであっても弟子の発心に基づいて具現できたという事は、「多くの人がはたらきの布陣に参入できた」という事ではないでしょうか。それは「参入できないはずの人」つまり「どうやっても過去世にその働きを果たせなかった人」が数多くその働きを果たせたという事になるものと思われます。私は、「はたらきの布陣に参入する」という事は、「他人の指示によって動く人」から「神の指示によって動く人」への転換を果たしつつあるという事であり、ご本人が認識される以上に魂にとって大きな意義があるのではないかと考えています。
しかし、元々青写真にアクセスする力を持っている人、特にその中でも佳子先生のご帰天後にGLAを担う世代の人は、佳子先生のお言葉を必ずしもお言葉通りに受け取ってはならない場合があり、さらに厳しい基準を自ら選び取るべき場合があるのではないかと考えます。それは、「7つのプログラムの全てのテーマについて、例外なく60点以上取れたか否か」という基準です。以前にも述べましたが、「60点」というのは、「そのままでも何とか許せる、ぎりぎりの及第点」という意味です。佳子先生の示された100点満点の解答と比較して、弟子の解答が見劣りするのは止むを得ないと思いますが、60点以上取れていればどうにかなるわけです。しかし、60点に満たないテーマがあった場合は、佳子先生がおられなければ大きな痛みや停滞が生じたという事であり、それは佳子先生がご帰天された後の時代では、間違いなく現実となって現れてしまう事になります。この基準を達成することは、非常に厳しく、また難しいことであると思いますが、佳子先生のご帰天後にGLAを担う世代として生まれてきた方々は、それだけの願いと志を持たれた方々であり、その根拠となる力を備えた方々ではないかと思います。
佳子先生は、「私たちが魂共同体千年構想を果たしてゆくためには、神の御心を因とする、宇宙に流れる因縁果報のはたらきの布陣に就くことが大切」と促して下さいました(GLA誌1999年11月号66ページ)。このお言葉の意味について、「GLA随想9:千年構想」のレポートや、その後の本ブログの記事にて私の考えを述べさせて頂きましたが、私の考えを若干訂正しなければならないのではないかと思われました。
「神の御心を因とし、人間が縁になるとは如何なることか」という問題について、私は「人間が神意・青写真にアクセスし、具現してゆくことである」と考えていました。しかし、自ら青写真にアクセスできなかったとしても、他人のアクセスした青写真に共感できる人は、やはり「神の御心を因として、縁になる人」ではないかと思われます。その人が神と結びつくために、「他人が青写真を開示してくれること」という条件は確かに必要でした。しかし、青写真に共感した後は、神とその人との一対一の関係において、その人は神の御心を因とし、縁となって働ける人になるのではないでしょうか。
特に、今後のGLA共同体においては、「青写真に共感できる人」の役割が非常に大きくなるのではないかと思われます。もし、誰かが青写真にアクセスできたとしても、多くの人がその青写真に共感できなければ、その青写真は具現されずに終わってしまいます。従って、GLA共同体が未来千年に渡って神の御意志を具現し続けてゆくためには、「青写真にアクセスできる人」と同時に、「青写真に共感できる人」を数多く輩出してゆく必要があるように思います。
「青写真にアクセスできる人」は、どこにどのような形で出現するのか、事前に予測はできません。その人はGLAの中で特に立場も権限も持っていない人であるかもしれません。しかし、その人の語るヴィジョンが神意・青写真に適うものであれば、そのヴィジョンに共感し具現してゆくことが必要ではないでしょうか。その事が「はたらきの布陣」ということであり、それを果たせるか否かが「千年の伝承」を果たしてゆけるか否かの鍵になっているのではないかと思われます。「7つのプログラム」は、GLA共同体が「はたらきの布陣」に就けるのかどうかを試されている、最初のテーマではないでしょうか。
昨日、一昨日は「神意・青写真にアクセスする段階」について述べさせて頂きましたが、その事を踏まえて「千年構想」についてもう一度考察してみたいと思います。
本ブログでは、「7つのプログラム」「信次先生の法の復活」「法華経に基づく伝道」などについて、私が考えておりますことを発表させて頂きました。これらは、全て「千年構想」の範疇に属するものであると考えます。本ブログにて私が述べてきましたことは、細かい点で誤りや視点落ちがあるかもしれませんが、大筋において正しい事であると考えています。しかし、実際にこれらのテーマを如何に推進してゆくか、という事になりますと、「よく解らない」というのが実情でした。
一つの可能性として考えられることは、「事務局が主導して進めてゆく」ということではないでしょうか。しかし、事務局の現状というものを拝見しておりますと、とてもそれを果たせるようには思えませんでした。現在、職員の方々に佳子先生が与えておられるテーマと比較して、千年構想の各テーマは格段に難しいものではないでしょうか。もう一つの可能性として考えられることは、「佳子先生に主導して頂く」ということです。確かに佳子先生に主導して頂ければ100点満点の結果を導くことができると思いますが、「未来千年」という事につながらないように思えます。
未来千年の事を考えますと、佳子先生に主導して頂いて100点満点の結果を出す事よりも、弟子のみの力で60点以上の結果を出す事のほうが、はるかに重要ではないかと私は思います。「60点」というのは、「そのままでも何とか許せる、ぎりぎりの及第点」という意味です。それが出来なければ、千年の伝承を果たすことは不可能ではないでしょうか。従って、千年構想の取り組みにあたっては、何よりも、弟子が100%の力を出し切って60点以上の結果を出すことが必要であり、佳子先生にご指導を頂くとしても、その後で「残り40点を取るにはどうすればよいか」という観点からご指導を頂くべきではないでしょうか。しかし、「グループ力・響働力に基づくお世話構造」や「7つのプログラム」などについて事務局の出来栄えは、(私が退会した2012年の段階で)ほとんど0点に近いものであり、60点以上の結果を出すというのは無理難題としか思えません。
弟子のみの力で60点以上の結果を出し続けるためには、在家の会員の中で、青写真にアクセスする力を過去世に育んできた方々に力を発揮して頂く、という事以外に可能性は残っていないのではないでしょうか。おそらく、その方々がGLA公式Facebookページ、あるいはプロジェクトの場などにおいて様々なヴィジョンを提示して、千年構想を主導してゆく、という事が求められているのではないかと思われます。但し、その方々に対して、佳子先生あるいはGLAから「そのような使命を果たすように」とのご指示は一切無く、大いなる存在、神が直接指示を出されるのではないかと考えられます。従って、その方々は、神の御意志をしっかりと把握し、「神の御意志のままに働く」という覚悟を決めて頂く必要があると思います。もし、神の御意志の通り動かれなかった場合には、かなり厳しい「試練」という形で「よびかけ」を頂くことになるのではないかと思われます。
昨日の記事にて「Calling 試練は呼びかける」のご著書の内容にあまりこだわらない方がよろしい場合がある、と申しましたが、「願いが先にあり、試練は後からやってくる」という点は常に正しいことであると思います。千年構想を主導する方々が「試練」を背負われるとすると、それは「使命」を背負われているからではないでしょうか。そして、「使命」を背負われたのは、元々そこに「願い」があったからではないでしょうか。
但し、以前にも申し上げたことですが、在家の会員はボーディ・サットヴァ・ウィズダムを拝読しておりませんので、ボーディ・サットヴァ・ウィズダムに整合するヴィジョンを最初から提示することは難しい面があります。在家の会員から提示されたヴィジョンをボーディ・サットヴァ・ウィズダムに整合するヴィジョンに引き上げるためには、職員の皆様に「引き上げる力」を発揮して頂く必要があるのではないかと考えます。
このブログで何度か述べましたように、7つのプログラムが進捗しない直接的な原因は佳子先生が具体的なご指導を下さらないからであり、ご指導を下さらない理由は職員の皆様が佳子先生のご指示を無視した無手勝流のやり方で進めようとされているからであると私は推測します。この推測が正しいものとして、なぜ佳子先生のご指示に従えないのか考えてみたいと思います。
ご指示に従えない一つの原因として思いますことは、「何をやったところで、自分たちは青写真にアクセスできるようにはならないのだ」という諦めムードが事務局の中で蔓延しているのかもしれません。私は「佳子先生のご指示・ご指導に愚直に従えば、青写真にアクセスできるようになるはず」と漠然と考えていたことがありました。しかし、このブログで取り上げてきましたように、千年構想、7つのプログラム、ホームページ中の「GLAの教義」のページなどの出来栄えは相当に思わしくないものであり、しかもそれは何十年も佳子先生からマンツーマンでご指導を頂いてきた人の手によるものであることを冷静に考えますと、以前に私が考えていたような簡単なことではないのかもしれません。
ご指示に従えない二つ目の原因として思いますことは、ご指示の内容が、かなり手間のかかる面倒なものであるのかもしれません。一例として、私が「具現の王道」と呼んだものについて考えてみたいと思います。これは、「ベースとなる佳子先生の具現を見出す」「佳子先生の具現と今回の具現との条件の違いを見出す」「条件の違いに応じて具現のあり方を変えてゆく」という3つのステップから成ります。これは、具現の進め方について佳子先生の説かれた事とどれほど整合しているのか私には解りませんが、大筋では誤っていないと思いますので、その通りの内容を佳子先生が説かれたものと仮定してみます。
「具現の王道」というものは、思いつくままにウィズダム(らしきもの)を書く場合と比較して、かなり手間のかかる面倒なものである事は否めません。手間をかけることによって青写真にアクセスできるようになるならば、モチベーションを保つことはできますが、「結局、何をやっても青写真にアクセスできるようにはならない」ということであれば、楽な方向に流されてしまうのかもしれません。
しかし、たとえどれほど出来栄えの悪いものであっても、具現の進め方は佳子先生のご指示に忠実に従うものでなければならないはずです。その理由は、12月19日の記事(有余の菩薩について(2))にて述べた通りであり、ご指示から外れた方法による具現に対して佳子先生がご指導されたところで、それは「未来千年」のことを考えますと、全く不要で無駄なものになってしまうからです。「ご指示の通り進めても青写真にアクセスできるようにならないかもしれない」という事を承知しつつも、ご指示に忠実に従うことは、「未来千年の礎になる」という事の一つの形ではないかと思います。
もし「未来千年」ということにリアリティが持てない場合には、現在の青年層、青年シニア層の方々のことを思い浮かべてみるとどうでしょうか。現在の職員の皆様にとって、彼らは顔も名前も知っている相手ですから、リアリティを持ちやすいのではないかと思います。彼らは、佳子先生が御帰天された後にGLA共同体を担う使命を持っておられます。佳子先生が御帰天された後に具現を果たす場合は、佳子先生の遺されたご指示・ご指導に忠実に従う以外に方法はありませんが、それがどれほど大変な事であるのか容易に想像できるのではないでしょうか。
具現の進め方について佳子先生が「一般論」として説かれたことのみでは、実際に弟子のみで具現を進めてゆくためには足りず、具体的な事例が数多く必要ではないかと思われます。それによって具現の進め方について理解が深まってきますし、如何なる点で間違いや視点落ちを招きやすいのか、という事なども見えてくるようになるのではないでしょうか。事例を揃えるためには、現在の職員の皆様が佳子先生の示された手順に忠実に従って挑戦を果たされ、様々な失敗を重ねられるとともに、ご指導を頂く事が必要ではないでしょうか。そのような記録が残っていると、現在の青年層、青年シニア層の方々にとって、どれほど心強いことかと思います。
つまり、現在の職員の皆様が「佳子先生の示された手順に忠実に従う」ということは、ある意味では、「現在の青年層、青年シニア層の方々が飛躍するための踏み台になる」ということになります。他の人が飛躍するための踏み台になる役割を自ら買って出る人がいるとすると、それは飛躍する人に対して友情を感じているからではないでしょうか。従って、「佳子先生の示された手順に忠実に従う」ということは、現在の青年層、青年シニア層の方々に対して「世代を超えた友情の証を示す」ということであり、それは自然に「未来千年の礎になる」ということにつながってゆくのではないかと思います。
9月14日の記事(有余の菩薩について)では、初代弟子としてほとんど有余の菩薩(まだ修行すべきことが有り余っている菩薩)ばかりが選抜された理由について考察しました。しかし、この理由について、また新たな気づきがありました。
初代弟子としてほとんど有余の菩薩ばかりが選抜された結果として何が起こったかと考えてみますと、それは「弟子のみではほとんど具現を進めることがでず、具現を進めるためには佳子先生から頻繁にご指導を頂く必要が生じる」ということではないでしょうか。それは「佳子先生のお仕事が増える」という結果につながります。しかし、佳子先生が初代弟子に下さったご指導は未来千年に渡って伝承されますから、将来の弟子にとっても大切なご指導であるということになります。すると、佳子先生のお仕事が増える結果になったとしても、未来千年のことを考えますと、「ご指導は多ければ多いほど望ましい」ということになるのではないでしょうか。
逆に、僅かなご指導に基づいて具現を進められる人が事務局にいると何が起こるかを考えてみますと、それは「その人に対するご指導が少なくなる」ということになります。しかし、それは言葉を変えると、「未来千年のために必要なご指導が大幅に削られる」という結果につながります。従って、現在のGLAの事務局では、そのような人は「迷惑で邪魔な存在」になってしまい、排除せざるを得ないのかもしれません。あるいは、「会員の皆様のお世話」など限定した役割を与えて、他の事には口出ししないように釘を刺されているのかもしれません。
そうしますと、至らない点を露呈して佳子先生からご指導を頂くことは、有余の菩薩の使命であると考えられます。従って、与えられたテーマに行き詰ったときは、佳子先生に対して堂々とご指導をお願いしても構わないのではないでしょうか。しかし、それは「その人のため」ではなく、あくまでも「未来千年のため」という事を忘れてはならず、「未来千年のため」にならないご指導をお願いすることは、慎まなければならないものと考えます。
「未来千年のため」にならないご指導の最たるものは、「無手勝流の具現」に対するご指導ではないでしょうか。佳子先生は具現の進め方について、様々なご指示・ご指導を下さっているものと思われます。それらを無視して無手勝流の具現を進めようとして行き詰ったとしましょう。仮に、その進め方を容認した形で佳子先生がご指導されたとしても、それは「未来千年」のことを考えますと、全く不要で無駄なものではないでしょうか。
12月4日の記事(私の役割について(2))の繰り返しになりますが、「過去に頂いたご指示・ご指導を一覧表にまとめて整理した上で、その一つ一つを刻印して愚直に実践してゆく」という事が、未来千年のために必要なご指導を残してゆくために不可欠なことではないかと思われます。