「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
GLA随想9「千年構想」のレポートでは、神理を千年に渡って世界中に伝承してゆくためには、ローカライズが必要であるという考えを発表させて頂きました。これは、土地と時代の要請に応じて、「新たないのちを込める」「新たに神理を説き直す」ということですが、もう少し具体的な事例を挙げてローカライズのあり方について検討してみたいと思います。ここでは、一例として「韓国に神理を伝承する」ということを想定してみたいと思います。
「韓国人の中には嘘をつく人が多い」という話を聞いたことがあります。私自身には、生粋の韓国人の知り合いはおりません。在日韓国人の方とは何人か出会ったことはありますが、その範囲内では「嘘をつく人が多い」という印象は持ったことはありませんでした。しかし、インターネット上の情報を見る限りでは、「韓国人の中に嘘を言う人が多い」ということは、客観的な数字として現れているようです。朝鮮日報2010年2月2日号では、「韓国は、法廷で、虚偽の証言をする偽証や、他人による嘘の告訴・告発により、いわれのない事件に巻き込まれるケースが、世界で最も多い。(中略)(単位人口あたり日本と比べると)偽証罪が427倍、虚偽告訴罪は543倍に達する。」ということが報じられたようです。
また、ニュースなどを見ておりますと、韓国という国家が主張していることや、韓国全体の世論の中に、虚偽に基づくものが散見されます。このレベルで虚偽が出てくるというのは、「個人として嘘をつく人が多い」という事とは次元が違います。この事実は多くの日本人にとって理解し難い面があり、日本人の中で韓国人を蔑視する風潮が生じてしまう原因の一つになっているように思えます。
なぜ韓国という国が虚偽に満ちているのか、その謎は「自業論」という視点から眺めれば、答が出てくるのではないでしょうか。佳子先生は、以前に「人間はカルマの影響が最も現れるような三つの「ち」を選んで生まれてくる」と説かれたことがありました。それはカルマを「煩悩」という形に顕在化させた上で克服してゆく願いが根底にあるためではないかと思われます。佳子先生の説かれたことを「集団」という側面から考えてみますと、「あるカルマを抱えた多数の人々が、ある特定の三つの「ち」を求めて集まってくる」ということになります。
何百年前か、何千年前かは知りませんが、朝鮮半島に「嘘を容認し助長する風土」というものが生まれたことがあったのでしょう。そうすると、虚言癖のカルマを抱えた多くの魂がその地に出生することを希望するようになります。勿論それはカルマを超克するためですが、多くの人はカルマを超克することができず、「嘘を容認し助長する風土」というものを維持し強化する方向に働いてしまったのではないでしょうか。その繰り返しによって、「虚言癖」というものが、韓国人のある種の国民性として定着してしまったかのように見えます。
韓国に神理を伝承するにあたっては、この「虚言癖」の問題に向かい合うことは不可欠であると思います。しかし、佳子先生は「虚言癖」の問題についてあまり触れておられません。従って、佳子先生の御著書や御講演を単に翻訳しただけでは、韓国で果たせる救済というものは相当に限定されたものにならざるを得ません。言い換えますと、「虚言癖を克服する」ということが韓国におけるローカライズの一つの根幹になるのではないかと私は考えています。
佳子先生は虚言癖ということについてあまり触れておられませんが、全く触れておられないわけではありません。例えば、「新・祈りのみち」の326ページには「嘘の誘惑に対して」という祈りが掲載されています。その導入文の中に「嘘をつくたびに 心は傷つき 魂はカルマを深くしているからです。 やがて 嘘をつくことにも慣れ 恐れもなく痛みもなく 嘘と同化してしまうのです」というお言葉があります。このお言葉について、「韓国の様々な実例」というものを挙げてゆきますと、優に一冊の本が出来上がってしまうのではないでしょうか。
また、祈りの末尾は「恐怖心を捨て 虚栄心を捨て 投機心を捨てて 人生の道を歩ませてください。」というお言葉で締めくくられています。「恐怖心を捨てる」「虚栄心を捨てる」「投機心を捨てる」とは如何なることであるのか、様々な実践報告を交えながら突き詰めてゆきますと、やはり優に一冊の本が出来上がるのではないでしょうか。このように、日本には無い教材が韓国で整ってきますと、韓国のGLAでは「虚言癖を克服する」というテーマに正面から向かってゆけるようになるのではないかと思われます。
ローカライズは、土地と時代の要請に応じて、「新たないのちを込める」「新たに神理を説き直す」ということですが、それを果たしてゆく際にも「佳子先生のお言葉をベースに置く」ということが、やはり肝心になるのではないかと考えます。
関芳郎氏を総合本部長に据え置いたまま千年構想を推進してゆくことについても、「はたらきの布陣」という側面から考えると、さらなる意味が見えてくるように思えます。
私たちは、「組織のリーダーの資質がその組織の命運を決める」という観念を自然に持ってしまっているのではないでしょうか。例えば、国家の運営がうまく進まないときは「総理大臣を交代させよう」、企業の運営がうまく進まないときは「社長を交代させよう」という発想が自然に湧いてきます。その延長線上で、千年構想などGLAにおいて弟子の果たすべきテーマが進捗しないときに「総合本部長を交代させよう」という発想が湧いてくるのも、ある意味では自然なことではないかと思われます。
しかし、「千年」という長きに渡る伝承のことを考えますと「個人の資質」というものに頼るのは危険であり、総合本部長が誰であっても千年構想を推進してゆける態勢を整えることが呼びかけられているのではないでしょうか。総合本部長が誰であろうとも、GLAのリーダーは常に「大いなる存在、神」ですから、神の御心を感じ、神の御心を具現してゆけば千年構想を推進してゆけるものと考えられます。但し、「神の御心を感じ、神の御心を具現する」ということを一人で果たすことはなかなか難しい面があることも事実です。その事を多くの人々の響働によって実現してゆく態勢こそが「はたらきの布陣」ではないでしょうか。
総合本部が方針を打ち出さない限り動きようの無いテーマについても「総合本部が方針を打ち出すまで待つ」ということではなく、「はたらきの布陣を構成する方々が方針案を協議し、事務局に働きかけてその内容を承認させる」という形で進めてゆくことが呼びかけられているのではないかと思われます。
8月25日の記事では、「伝道研鑽部会をGLAの最高意志決定機関にする」というヴィジョンを発表しました。それは勿論、「会則をそのように改正する」という意味です。同記事ではその事は「すぐにでも実現すべきことである」と書きましたが、その前に「最高意志決定機関としての実質を備える」という事を先に実現しなければならないのではないかと考え直しました。つまり、会則の内容はこれまでと変わらない状態で、伝研生を中心とする「はたらきの布陣」が実質的に千年構想の方針を決定し、推進してゆく態勢を実現してゆくことが呼びかけられているのではないでしょうか。会則の改正は、「その事を確認的に明確化する」という形で為されることが最善ではないかと思われます。
「GLA随想9 千年構想」のレポートでは、「神の御心を因とする、宇宙に流れる因縁果報のはたらきの布陣に就く」こと、「宇宙に因縁果報の流れを発現する」ことについての私の考えを発表させて頂きました。そして、近日中に「一切の人を救済してゆく願い」を思い出される方が続出する可能性があることに思い至りますと、「はたらきの布陣」についてもさらなる内容が見えてくるように思えます。
「一切の人を救済してゆく願い」は、大いなる存在、神が抱かれている願いと相似形を描くものです。従って、「一切の人を救済してゆく願い」を思い出しその願いに基づいて動く人は、「他人の命によって動く人」ではなく、「神の命によって動く人」ではないでしょうか。これは言葉を変えると、神の御心を「因」とし、自らを「縁」とし、神の御心を具現するという「果報」を生み出せる人ということになります。
但し、「一切の人を救済してゆく願い」を思い出される方が続出したとしても、GLA総合本部の方針というものは簡単には変わらないかもしれない、ということは心しておく必要があると思います。その事は、7つのプログラム、あるいは千年構想を進めてゆく上で制約になるかもしれません。しかし、「神の命によって動く人」とは、制約は制約として、その範囲中で神の御意志を最大限に実現してゆくことができる人でもあると思います。
一例として、7つのプログラムの「研鑽の充実」について考えてみたいと思います。「GLA随想4」のレポートで発表させて頂いたように、「研鑽の充実」は、止観シートの研修を中心として研鑽システムを整えてゆくことが正しいものと私は考えています。GLA総合本部がその方針を採らなければ、例えば地域拠点で止観シートの研修を行なうことはできないものでしょうか?各地域拠点で止観シートの研修を行なうかどうかは、その地域のお世話人の皆様の判断で出来ることではないかと思われます。それは、建前としては「7つのプログラムの一環として行なっているわけではなく、会員の皆様の実情に鑑みれば止観シートの研修が必要と思われたので実施している」ということになります。一部の地域で止観シートの研修が実施され、その果報が他の地域に伝わってゆきますと、全国の各地域で止観シートの研修が実施されるようになり、研修のあり方について智慧の交換もされるようになるのではないでしょうか。
また、「人生同伴態勢の充実:身近で相談に乗ってもらえるお世話の態勢」について考えてみたいと思います。「GLA随想4」のレポートでは、「第1段階 5~6人程度のグループによるお世話」「第2段階 お世話メンバーの拡充」「第3段階 事務局との連携」という三段階のお世話のヴィジョンを発表させて頂きました。このうち「第1段階」のお世話については、部分的ではありますが、既に生活実践などで実現されていることではないでしょうか。また、この「第1段階」のお世話メンバーに加えて、数名程度のベテラン会員に参加して頂いて「第2段階」のお世話を実現することは、その地域のお世話人の皆様の判断で実現できることではないかと思われます。
私は「第3段階」のお世話になりますと事務局に動いて頂く必要があると考えていましたが、「トータルライフ・パートナーズシステム」については、在家者の皆様のみでも進めてゆけるのではないかと考え直しました。つまり、地域のお世話人の皆様が「専門家の支援が必要」と判断された場合、開けゆく道のお世話人に相談され、専門家の方にお世話チームに加わって頂くことは、双方のお世話人同士の話し合いで実現可能なことであると思います。その事は所属本部の事務局およびTL総合事務局に対して一応報告しておいた方がよろしいのではないかと思いますが、特に両事務局に動いて頂く必要はないのではないかと思われます。
また、「人生同伴態勢の充実:円環的人生観に基づく魂の一貫したお世話」について考えてみたいと思います。「GLA随想4」のレポートでは、「今生におけるお世話」と「来世に向けてのお世話」のヴィジョンを発表させて頂きました。このうち「来世に向けてのお世話」とは、要するに「人生記録の作成に同伴する」ということですが、これは人生記録を作成する方が「どなたかに同伴して頂きたい」と希望され、他の方が「同伴させて頂きたい」と希望すれば自然に実現してゆけることであって、「GLA総合本部の方針」としてその事を掲げて頂く必要は特に無いものと思われます。「人生記録の重要性」「他者視点の重要性」を会員の皆様に強調して頂くことや、同伴を促進してゆくことは、お世話人の皆様の判断で進めてゆけることではないでしょうか。
以上のように、総合本部が方針を打ち出さなくても、在家の皆様の発心で進めてゆけるテーマはいくつもあります。これらのテーマを実現してゆくことは、GLAのパラダイムを転換してゆく大きな「うねり」になってゆくのではないでしょうか。総合本部が方針を打ち出さない限り動きようの無いテーマも数多くありますが、パラダイムを転換してゆく「うねり」はこれらのテーマにも道をつけてゆくことになるのではないかと考えます。
「千年構想」については、このブログでも何度か取り上げてきましたが、千年構想の「願い」とは何かと考えますと、現在のGLAでは「千年の伝承を果たす」ということが「願い」であるかのように受け取られているのではないでしょうか。この点についてもう一度考え直しましたところ、「そもそも何のために千年の伝承を果たす必要があるのか」という「根底にある願い」を明確化する必要があるのではないかと思われました。それによって「千年の伝承」の中身が大きく変わってくるからです。
例えば、「来世においても自分自身が再びGLAに集いたい」ということが「根底にある願い」であるとすると、今後ともGLAは佳子先生の法に共感できる人だけを集めてその範囲内での伝承を続けてゆけば充分であり、それを千年続けることが「千年の伝承」である、という考え方も成立するのではないでしょうか。
一方、「地獄を滅消し一切の人を救済する」ということが「根底にある願い」であるとすると、それは地獄界との縁が深い人々(地獄界と天上界を行き来している人々)に直接関わって、地獄界との縁を断ち切って頂くことが不可欠になります。そのような人々はなかなか佳子先生の法に共感できず、また、悪霊の憑依を受けている場合も多いため、これらの問題に道を付けてゆくことが「千年の伝承」の重要な要素になるのではないでしょうか。
勿論、私は「根底にある願い」として後者のものが正しいものと考えていますが、その事が現在のGLAにおいて明確化されていないのは、「根底にある願い」を明確化するように佳子先生が促してこられなかった、ということが背景になっているように思えます。促してこられなかった理由は、「地獄を滅消し一切の人を救済する」と言われても、その願いを実感できない人が多いためではないでしょうか。私は、「GLA随想9 千年構想」のレポートを作成する際にも、この問題の取扱いについて悩みましたが、「“地獄を滅消し一切の人を救済する”という願いを実感できない人が多い以上、その願いを前面に出すことは時期尚早である」と考え、その願いについては言及を避けたという経緯がありました。
しかし、9月12日の記事にありますように、近日中に「一切の人を救済してゆく願い」を思い出される方が続出し、GLAのパラダイムの転換が起こる可能性があるということに私は気づきました。この予測が正しいとすると、それは千年構想の「根底にある願い」についても明確化する時期が訪れるということに他ならないのではないでしょうか。そして、「根底にある願い」を明確化することは、弟子の発心によって果たされることが呼びかけられているのではないかと思われます。ここで、「弟子の発心」とは、9月16日の記事にあります「真の発心」ということであり、先生からの促しに基づく発心ではありません。「千年構想」に対して先生に関わって頂ける期間は、あと僅か数十年程度しか残されていません。残りの期間は弟子が主体的に進めてゆかない限り「千年構想」は一切進捗しませんので、今からその覚悟で臨んでゆく必要があるのではないでしょうか。
かつて、GLAの中で「有余(うよ)の菩薩」(まだ修行すべきことが有り余っている菩薩)についてお話を聞いたことがありました。信次先生、佳子先生が日本に出生されることが決定された際、天上界の諸如来、諸菩薩は共に出生することをこぞって希望されたということです。しかし、信次先生、佳子先生は、「お前たちの力は要らぬ。私たちは有余の菩薩とともに出よう」と仰ったということでした。
7つのプログラムが進捗しないのも、千年構想が進捗しないのも、初代弟子としてほとんど有余の菩薩ばかりが選抜されたということが発端になっているのかもしれません。もし、如来か上位の菩薩クラスの人を弟子のリーダーにしていれば、7つのプログラムや千年構想をもっとスムーズに進捗させることができたのではないかと考えます。しかし、そうなっていないのは、未来に対する見通しが立たないからではないでしょうか。今後は、千年の長きに渡って、世界中で千年構想が推進されてゆくことになります。おそらく、如来や上位の菩薩クラスの人は「各国において常に」配置できるだけの人数がいないため、その事を前提にしてしまうと、千年構想を推進することが不可能になるのではないでしょうか。
如来や上位の菩薩クラスの人は特に困難が予想される場合に配置され、通常の場合は有余の菩薩が「はたらきの布陣」を形成することによって千年構想を推進することが求められているのではないかと考えます。今後、その事を世界中で実現してゆくためには、まず、「現代日本において実現する」ということが必要であるように思えます。