「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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5月23日の記事「GLA公式Facebookページについて」にありますように、現在ではGLA公式FacebookページにてGLAの活動に関する議論が制限されていますが、将来はこの種の議論が解禁されるのではないかと考えられます。
GLAの活動に関する議論が解禁されますと、7つのプログラム等に関してその時点で方針が打ち出されていないテーマについて議論が湧き上がることが予想されます。そうしますと、職員の皆様は、会員の皆様の要請に押されて、各テーマについて方針を発表して進捗させざるを得なくなるのではないでしょうか。
その場合には、本ブログのご提案内容は「最低限の水準」になるのではないかと思います。つまり、本ブログよりも見劣りする方針案を発表したとしても、会員の皆様の賛同を得ることができないのではないでしょうか。但し、私は本ブログで提案させて頂いた内容が必ずしも正しいとは思っていません。それは、「私自身の智慧の限界」ということもありますが、私は「ボーディ・サットヴァ・ウィズダム」というものを拝読したことがないからです。GLA共同体のヴィジョンの大枠はボーディ・サットヴァ・ウィズダムに記載されているはずであり、弟子が描くヴィジョンはこれに整合し響き合うものでなければならないはずです。私自身は、本ブログの内容がボーディ・サットヴァ・ウィズダムにどこまで整合しているのか検証のしようがありませんので、「どこまで正しいのかよく解らない」というのが正直なところです。
しかし、職員の皆様はボーディ・サットヴァ・ウィズダムを拝読できるわけですから、本ブログの内容のうち同ウィズダムに整合していない部分を修正して頂くことが可能であると思います。そして、その過程を経ることによって、本ブログの内容よりも一層青写真に迫る方針案を打ち出すことができるのではないかと思われます。そして、在家の会員の皆様も、職員の皆様に対して、そのことを期待されるのではないでしょうか。
このように、GLA公式FacebookページにてGLAの活動に関する議論が解禁されると、職員の皆様は、7つのプログラム等について、少なくとも本ブログと同等かそれ以上の水準のものを打ち出さざるを得なくなることは間違いないのではないかと思われます。そうしますと、職員の皆様に残されている選択肢は、
という二者択一になるのではないでしょうか。しかし、在家の会員の皆様の声に押されて動かされるというのは、あまりにも見栄えが悪いのではないかと思いますし、それでは「押し上げる力」と響働できる「引き上げる力」を発揮することもできないのではないかと思われます。ぜひ、議論が解禁される前に、前者の選択肢を選び取って頂きたいと思います。それは、「セクショナリズムを脱し、GLA共同体の動向全般について一人一人が責任を負う」という風土を醸成してゆくということでもあります。
本ブログの内容を振り返ってみますと、特に「法の継承時の鍛錬」について実例が不十分であるかもしれません。それは、分派の方々が発刊した書籍を私がほとんど読んだことがないためです。6月20日の記事にて、高橋一栄会長と高橋興和講師のお二人に如是我聞して頂く必要性について触れさせて頂きましたが、他の方々についても如是我聞して頂く必要性があるのかどうか、および如是我聞の内容について、もう一度検討して頂く必要があるのではないかと思われます。そのためには、分派の方々が発刊した書籍などを入手して内容を充分に精査して頂く必要があるのではないでしょうか。
前記事を投稿した後にふと考えたことがありました。前記事は、「映像配信システムを高齢者や病気の方などのために使わせて下さい」と先生に願い出られた職員がおられたことを前提として、その後のことを考察したものでした。しかし、この前提は、本当に正しいものでしょうか。
ひょっとすると、このように願い出られた職員は一人もおられないのかもしれません。そうであったとしても、それが「GLAの偽らざる現状」ということでしょうから、愛の心を育まれ、そこから一歩前に進まれればよろしいのではないでしょうか。他にできることは無いようにも思えます。
5月30日、6月3日の記事では、職員の皆様の中で「セクショナリズムを脱し、GLA共同体の動向全般について一人一人が責任を負う」という風土を醸成してゆく必要性について触れさせて頂きました。その風土を醸成してゆく取り組みについて、さらに考察してみたいと思います。
風土を醸成してゆく第一歩は、「GLA随想5 実現に向けての第一歩を」のレポートに記させて頂いたように、「高齢者や病気の方など四聖日などの場に足を運んで頂くことが困難な方々については、自宅等への映像配信システムを活用して、自宅等にて集いに参加して頂けるようにする」ことを実現することではないかと考えます。但し、同レポートの内容には、若干の修正が必要ではないかと思われます。同レポートは「在家の会員の皆様の押し上げる力を結集する」ことを前提としていましたが、GLA公式FacebookページにてGLAの活動に関する話題が制約されていることから、「押し上げる力」に頼るのではなく、事務局の中のみで実現して頂く必要があるのではないでしょうか。
「高齢者や病気の方などのために映像配信システムを活用する」ということは、高橋佳子先生がかなり解り易いヒントを示して下さったことから、おそらく職員の皆様の中でも既にその必要性に気づかれ実現に向かって動こうとされた方がおられたのではないかと推測します。それにもかかわらず、未だ実現していないのはなぜでしょうか?
事務局の中で何が起こっているのか、外からは全く見えませんが、一つ想像を巡らせてみたいと思います。映像配信システムの意味に気付かれた職員の方は、「映像配信システムを高齢者や病気の方などのために使わせて下さい」と先生に願い出られたのではないかと思います。それに対して先生は、「その要望があなた一人の要望であれば受け入れることはできない。しかし、その要望が職員の総意ということであれば、関芳郎氏を通じて願いの書を提出するように」のように仰ったのではないかと想像します。そこで、その職員の方が関芳郎氏に相談したところ、「映像配信システムは非常用であると先生が仰ったのであるから、非常時に使えばそれでよい」と一蹴されてしまったのではないでしょうか。
上述しましたことは単なる想像に過ぎないことであり、どこまで正しいのか解りませんが、それでも「先生のお言葉をよく吟味して実現することが大切」という一点については間違いが無いものと思います。仮に、上述の想像通りのことを先生が仰ったとすると、「職員全員の連名で願いの書を作成することにより、要望が職員の総意であることを明確にする」「最後に関芳郎氏からサインを頂いて、関芳郎氏から先生に願いの書を提出して頂く」という手順を踏むことが求められているのではないかと考えられます。
職員の皆様全員に関わって頂くということは「GLA共同体の動向全般について一人一人が責任を負うという風土を醸成してゆく」という意味があり、最後に関芳郎氏から先生に願いの書を提出して頂くということは、「関芳郎氏に転換を促す」という意味があるのではないかと考えます。それは「数の力」で圧倒して関芳郎氏を動かしているに過ぎないようにも見受けられますが、それでも将来の転換につながってゆく「何か」が予定されているのではないかと感じられます。それゆえ、上述のように先生が仰ったのではないかと私は想像しました。
前記事の続きです。
職員の皆様の中で「セクショナリズムを脱し、GLA共同体の動向全般について一人一人が責任を負う」という風土を醸成してゆくことが求められているとすると、その風土を醸成するために何が必要かを考えてみます。
その風土を醸成してゆくためには、「その風土を醸成しない限り事務局が正常に機能しないようにしておくこと」が最善ではないかと思います。すると、総合本部長として適任と思われる人物は関芳郎氏以外には考えにくいのではないでしょうか。少なくとも私には、彼以上の適任者は思い浮かびません。
結局、関芳郎氏には、その風土が醸成されるまで、総合本部長の立場に留まって頂くことになるでしょう。そして、風土が醸成され事務局が正常に機能するようになったのであれば、それ以上関芳郎氏に留まって頂く必要がなくなります。この時点で、次の総合本部長が任命され、関芳郎氏には「高橋佳子先生をお証する」という使命の成就に専念して頂くことが予定されているのではないかと思われます。
昨日の記事「セクショナリズムからの脱却を」については、若干の補足説明が必要かもしれません。現在起こっている様々な問題について、「事務局内のセクショナリズムよりも関芳郎氏の判断力の問題のほうが大きく、総合本部長を別の人に変更すべきである」と考える人も多いと思われるためです。
実は、私自身も、数日前まではそのように思っておりましたし、本ブログの過去の記事にも、総合本部長の交代の必要性を示唆する記述が何点かありました。しかし、今は考えが変わっています。
おそらく、次の総合本部長は、より判断力の高い方が任命されると思われ、その方は「先生から頂いたご指示を放置する」「先生から頂いたお言葉を別の言葉に置き換えて会員に発信する」などの解り易い判断ミスはされないかもしれません。では、次の総合本部長の時代には事務局がスムーズに動くようになるのかと考えますと、おそらくそのようにはならないものと思われます。
今から数十年後、高橋佳子先生が御帰天された後は、GLA共同体の果たす具現は100%弟子が担わなければなりません。その際に弟子に求められる具現のレベルを考えますと、現在よりもはるかに高いレベルになるはずです。従って、その時に備えて、今後は弟子の果たすべき具現のレベルが段階的に引き上げられてゆくのではないでしょうか。
つまり、次の総合本部長が関本部長よりも判断力の高い方であったとしても、現在よりも難しいテーマが与えられるため、やはり判断ミスが起こってしうことが予想されます。このような判断ミスによる停滞や混乱を解消し、あるいは未然に防止するためには、職員の皆様の中で「セクショナリズムを脱し、GLA共同体の動向全般について一人一人が責任を負う」という風土を今から醸成してゆく必要があるのではないでしょうか。
より具体的には、職員の皆様から関本部長に対して必要な進言をして頂き、現在生じている様々な問題について、解決への道筋をつけて頂くということです。一人が進言しても関本部長が聞き入れられない場合には、他の職員の皆様の賛同を集めて集団で変革を迫って頂く必要があるかもしれません。そのような事が果たせる風土を醸成することが、次の段階に進むための条件ではないかと思います。
関本部長に退任して頂くべき場合には、それは先生が一言仰れば実現できることですから、関本部長の資質は本質的な問題ではなく、「事務局内の風土を変革すること」こそ本質的な問題であると考えます。