「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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1月18日の記事(神意・青写真にアクセスする段階(2))の続きです。
神の御意志を具現しようとする人は、過去世も、今世も、来世も、絶えざる試練に遭遇することが避けられないように思います。それは、神の御意志というものは、人間が持っている常識、倫理観、道徳観を覆すものが多く、神の御意志を感じたとしても、人間はなかなかその通りには動けないためです。
私が7つのプログラム等について自分の考えをインターネット上で公開した時もそうでした。それ以前に私は自分の考えを事務局内の一部の方にお伝えしていましたし、その旨を佳子先生にご報告させて頂きましたので、自分の役割はそれで終わったものと考えていました。常識的に考えると、事務局の内情を知らない在家の会員が貢献できるのは、その程度までではないでしょうか。GLAを退会してでもインターネット上で自分の考えを公開するというのは、私自身、妥当な行動とは思えませんでした。
また、公開する内容の中に関芳郎氏個人の資質に関する記事が多く含まれている事も、釈然としないものを感じていました。私が彼の資質について問題意識を持っていた事は事実ですが、他人に至らない点があるからといって、その事をインターネット上で書き連ねるというのも妥当な行動とは思えませんでした。
私自身が妥当性を感じない事は、たとえ神の御意志を感じたとしても、簡単にその通りに動くことはできません。最終的には、私は妥当性を感じないまま、上述しました事を実行に移したわけですが、それは、非常に厳しい形で試練を与えられ、せかされるようにして実行に移した、ということが実情です。
「法の継承時の鍛錬」の書籍のストラクチャーについて、昨年10月15日の記事(「法の継承時の鍛錬」の書籍の発刊について)にて簡単な案を紹介しましたが、その後に気づいたことも含めて、もう一度ストラクチャーを検討してみたいと思います。私は、次のようなストラクチャーは如何かと思います。
第1章 法の継承時の出来事
この章では、法の継承時に信次先生がどのような事を仰ったのか、それを契機としてどのような出来事が起こったのかを紹介します。
第2章 出来事の第一の意味
この章では、魂の因果律を解説するとともに、信次先生の仰った事は「弟子のカルマを引き出す鍛錬であった」ということを明確にします。なお、魂の因果律を解説は、本ブログの昨年10月15日の記事にありますように、佳子先生のご著書における解説を踏襲することが正しいものと思われます。
第3章 体験談
この章では、鍛錬を受けられた方々のいくつかの体験談(実際は如是我聞)を紹介します。
第4章 出来事の第二の意味
この章では、第3章の内容に基づいて「鍛錬の果報」を明らかにしてゆきます。「GLA随想3 法の継承時の鍛錬」のレポートでは、「試練・煩悩・菩提心比例の法則」あるいは「完全な喜びの実践」という言葉を使いましたが、この点についても佳子先生が一般向けに使われているお言葉を踏襲することが正しいのではないかと思われます。例えば「魂の発見」の191ページには、「世界とつながるために自らを闇に染める――使命への発射台」というお言葉がありますので、このお言葉などを使って解説することが正しいのではないかと思われます。
法の継承時の鍛錬についてはこのブログで何度か触れてきましたが、「歴史の整備」のテーマは「GLA40年を振り返り、未来千年の礎とする」であったと考えられますので、法の継承時の鍛錬がなぜ「未来千年の礎」につながってゆくのかを考えてみたいと思います。
法の継承時の鍛錬は、一人一人の内に巣くう「己心の魔」というものが如何に恐ろしいものであり、かつ、見えにくいものであるかを教えて下さった鍛錬ではなかったと思います。法の継承時の鍛錬そのものは、煩悩地図、止観シート、魂の因果律などの神理の体系が未だ整っていない時代に実施されました。しかし、神理の体系が整った後になっても多くの方が鍛錬の意味を見い出すことができませんでした。それは、それだけ見えにくいものであるという事ではないでしょうか。
「己心の魔」は、普段の生活の中で現れてこなかったとしても、ある条件が整った時に姿を現し、様々な混乱を引き起こします。それは、過去に幾多の文明を壊滅させていった元凶であり、注意を怠るならば千年の伝承を途切れさせてしまう元凶にもなります。すなわち、GLA共同体が千年の伝承を果たしてゆくにあたって、最大の障害として立ちはだかるものがこの「己心の魔」ではないでしょうか。法の継承時の鍛錬は、その「戒め」という意味で未来千年に渡って伝承してゆくべき事ではないかと思われます。このように考えますと、このテーマに対する取り組み方について、私の考えを見直さなければならないのではないかと思われました。
私は、「鍛錬後もGLAに残留された方々に如是我聞して頂き、その範囲内で鍛錬の意味と内容を書籍にて発表する」という形で、このテーマを終結させてよろしいのではないかと考えていました。しかし、未来千年に渡って「戒め」として伝承してゆく事を考えますと、鍛錬後にGLAを去られた方々についても可能な限り情報を集め、詳細な記録をまとめておく必要があるのではないかと思われました。なお、GLAを去られた方々についての情報を現時点でGLAが公表する事は差し控えるべきであり、少なくとも関係者全員が逝去され、関係団体も消滅した後に為すべきことかと思われます。
但し、情報を集め記録をまとめるのは、当時の事をご存知の方々が存命中に果たさなければならないため、できるだけ早い段階でスタートして頂く必要があるように思います。その取り組みにおいて大切なことは、やはり「感謝と畏敬の念を忘れてはならない」という事ではないかと思います。鍛錬を受けられた方々は、GLAに残留された方々も、GLAを去られた方々も、それぞれ痛みを引き受けて下さいました。痛みを引き受けて下さった理由は、ご本人が認識されていなくても「未来千年の礎になる」という願いに基づくものではないでしょうか。その事を思いますと、感謝と畏敬の念をなくして進められるものではないと思われます。
前記事の最後に「試練」という事に触れましたので、引き続いて「試練」ということについて考えてみたいと思います。「試練」を如何に受け止め如何に対応してゆくべきかは、例えば「Calling 試練は呼びかける」のご著書に開示されています。このご著書では、様々な形で「試練の内容」と「試練が呼びかけていること」には深い関係がある事が明かされています。しかし、「すっきりしない神意」を具現してゆける方々は、このご著書の内容にあまりこだわらない方がよろしい場合があるのではないかと思います。
神が人間に対して御意志を伝えられているのに、人間がその事に気づかない、あるいは気づいているのに動こうとしないとき、神がその人間に対して試練を与えられることがあります。この場合、「試練が呼びかけていること」とは「命じた事を遂行せよ」という事であり、それは「試練の内容」とは無関係な場合が多々見受けられます。その場合は、神の御心を何度も訊ね、感じた神の御意志の通りの事を遂行してゆく以外に解決方法は無いものと思われます。
前記事で触れさせて頂いた、佳子先生に与えられた「よびかけ」(と私が考えていること)についてもそうでした。「試練の内容(佳子先生の体調不良)」と、「試練が呼びかけていること(「人間のまなざし」シリーズの発刊と学びの遂行)」との間には特段の関係は無く、「試練の内容」をどれほど吟味しても「試練が呼びかけていること」は見えてきません。
前記事も本記事も、佳子先生の説かれた事に反するような事ばかり述べておりますが、このように考えて頂きたいと思います。99.9%の方は、佳子先生の説かれた事を愚直に学び実践されればそれでよろしいのであって、本ブログにてそれに反する記事があっても気にする必要は無いものと思います。但し、残り0.1%の方は、それでは道が付かない場合があるかもしれません。その場合は、本ブログの記事を思い出して頂いて頂ければ、もしかすると道が付いてゆくかもしれません。
少し話題を変えて、「神意・青写真にアクセスする段階」について私の考えを述べてみたいと思います。このブログでは、様々な青写真について私の考えを述べさせて頂きましたが、その中には段階の異なる青写真が混在しておりますので、一度まとめておいた方がよろしいのではないかと思いました。
佳子先生は「すっきりセンサー」というご指導を下さったことがありました。「すっきりセンサー」というのは、ある考えが神意・青写真に適うか否かを判断するときに、「一点の曇りもなくすっきりするか否か」という観点から判断する、というものでした。現在、佳子先生が弟子に与えられているテーマは、おそらく「すっきりセンサー」によって正否を判別できることばかりではないかと思われます。
このブログで再三述べてきました2つの「Q&A」(インターネット上の批判的投稿および『高橋信次の霊言』と称するもの)についても、その範疇に属するものではないでしょうか。これら「Q&A」を書いてみて(あるいは読んでみて)、一点の曇りもなくすっきりするでしょうか。もし、すっきりしないものが残るとすると、それは「すっきりセンサー」の基準から考えますと、「神意・青写真から外れている」と判断することができます。そして、これら「Q&A」が掲載され続けているということは、「すっきりセンサー」のご指導が心に落ちていない、ということではないかと思われます。従って、大多数の方々は、「すっきりセンサー」を絶対的な基準として捉え、それを実践してゆくことが呼びかけられているのではないかと考えます。
しかし、私は「すっきりセンサーを絶対的な基準とする」という事から離れるべき方もおられるのではないかと思います。「すっきりセンサー」を基準として様々な青写真にアクセスできるようになりますと、神との一体化が深まってゆき、やがてアクセスする事が一層難しい「すっきりしない神意」というものにアクセスできるようになるように思われるためです。「すっきりセンサー」が働く場合というのは、「青写真の全体像が見える場合」に限られるのではないかと私は思います。つまり、「全体像が見えるから、すっきりする」という事ではないでしょうか。
一方、神が描かれる青写真の中には、人間には全体像が見えないものも様々存在するように思えます。それは、「完遂までに長い時間がかかるもの」「多くの人が関係するもの」「常識を覆すような要素が含まれるもの」などです。そのような場合、神は人間に対して、「当面の間、その人間が何を果たすべきか」という形でご意志を示されることがあります。すると、その人間は青写真の全体像が見えないために、「すっきりしない」「何のためにそれを果たさねばならないのか解らない」という想いを抱えてしまうことになります。しかし、それを遂行できるようになれば、その人の果たせる具現の範囲が大きく広がってゆきます。
昨年12月6日の記事(歴史の整備:法の継承時の鍛錬のさらなる意味について)にて述べましたように、「人間が神の御意志を感じる」という事は、「神が人間の中で思惟された」という事に他ならないことですが、「神が人間の中で思惟されたこと」と「その人間が勝手に思惟したこと」とを明確に区別することは難しい点があります。そのため、「すっきりしない神意」というものを感じた場合は、それが本当に神意として正しいものなのか否か、何度も自分自身に問いかけて結論を出さなければならないように思えます。そして、「正しい」と判断した場合には、たとえその人が犠牲を払ってでも、それは遂行しなければならないことではないでしょうか。同記事にありますように、私自身もこのブログを開設するにあたってそうしてきたつもりです。
「すっきりしない神意」に従うことは、佳子先生であっても難しい場合があるのではないかと思います。「GLA随想7 GLAの歴史と三つの柱」のレポートの7ページには、佳子先生に与えられた「よびかけ」(と私が考えていること)について触れさせて頂きました。その内容には、多分に私の推測が含まれていますが、「人間のまなざし」シリーズによって多くの会員がついてゆけなくなるような学びを敢行することについて、佳子先生ご自身も「すっきりしない想い」というものを抱えておられたのではないかと思われます。
繰り返しになりますが、大多数の方は「すっきりしない神意」というものを考える必要はなく、佳子先生からご指導頂いている通り、「すっきりセンサー」を基準として考えて頂くことが正しいのではないかと思われます。そこから離れるべき方は、その方ご自身が自覚されるはずです。それは、もしかすると、厳しい試練のような形で現れるかもしれません。