「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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法の継承時の鍛錬について、少し思い出したことがありました。2008年頃、私は法の継承時の鍛錬についての私の考えを事務局内の一部の方々に開示させて頂くとともに、その旨を佳子先生にご報告させて頂いたことがありました。その後、鍛錬を受けられながらGLAに残留された方から、鍛錬後にGLAを去られた方に対して、何通かのお手紙が送られたことがありました。GLAを去られた方が開示された情報によりますと、これらのお手紙は全て内容証明郵便であったということです。「一度会ってお話したい」という程度のお手紙ですら内容証明郵便でした。おそらく、これは佳子先生のご指示によるものではないでしょうか。
GLAに残留された方は、例えば「鍛錬の真相を社会全体に開示することはできない。しかし、この方がGLAに戻れるようになるのであれば、この方に対してのみ真相を開示してもよい」のようにお考えになったのではないでしょうか。その想いを佳子先生が察知され、「秘密のお話」をお手紙に書けなくするために、全てのお手紙を内容証明郵便にするよう指示されたのではないかと推測します。「秘密のお話」をしてはならない理由は、ある特定の人がGLAに復帰すればよいということではなく、現在GLAの外で信次先生の法を求めておられる方々全員に対して道を付けなければならず、そのためには鍛錬の真相を社会全体に開示しなければならないからであると考えます。
鍛錬を受けられた方々のうちGLAに残留された方々は、なぜ残留する事ができたのか思い出して頂きたいと思います。「自分が悩乱してしまった一切の原因は自らの内にあった。信次先生はその事を知らしめて下さるために、鍛錬をして下さったのだ」という事を自ら気づかれたのでしょうか。そうではなく、おそらく信次先生または佳子先生がストップをかけて下さったのではないかと思われます。その一方、GLAを去られた方々には、ストップがかけられなかったわけです。そうであるとすると、GLAに残留された方々は「神理を学ぶ場を一つに統合してゆく」という使命を持たれており、その使命を成就するためにストップがかけられた、と考える事が正しいのではないかと思われます。しかし、その方々のみでは使命の成就に向かって歩みだす決心がつかない、というのも偽らざる現状であるのかもしれません。
そこで、重要と思われますことは、鍛錬を受けられた方々の周囲におられる方々です。「神理を学ぶ場を一つに統合してゆく」という事はGLA共同体全体のテーマであり、鍛錬を受けられた方々の個人的なテーマには留まりません。周囲におられる方々は、鍛錬を受けられた方々を励まし、響働し、共に使命を成就してゆかれる事が呼びかけられているのではないでしょうか。1月10日の記事(数多の菩薩湧出のヴィジョン(3))では、7つのプログラムの各テーマについて、「現在の事務局内の部門毎に、検討チームを編成する」という案を述べさせて頂きました。「歴史の整備」についても、その例外ではないと思います。鍛錬を受けられた方々とその周囲の方々によって「歴史の整備」の検討チームを形成し、「共に響働して使命を果たしてゆく」という事を事務局の態勢の面からも明確にしてゆくことが必要ではないかと思われます。
昨年12月14日,19日,20日の記事(GLAの第三代目会長について)では、法華経の「長者窮子の喩」のように、何十年もGLAから離れていた方がGLAに復帰され、第三代目会長に就任されることになるのではないか、との考えを述べさせて頂きました。
「長者窮子の喩」では、長者が窮子を邸宅に連れ戻そうとしても窮子が警戒して応じようとはしないため、長者は召使いにみすぼらしい格好をさせて「いい仕事があるから一緒にやらないか」と誘うよう命じ、邸宅に連れ戻しました。このように、「まず、相手が望んでいるものを提示する」という事が大切であることが解ります。そして、現在のGLAに置き換えますと、「相手が望んでいるもの」とは、「法の継承時の鍛錬の真相」とも呼べるものではないでしょうか。それを開示できない限り、いつまで経っても次代の会長が決まらないという事になってしまいます。
では、「法の継承時の鍛錬の真相」とは何であるのかを考えてみたいと思います。法の継承時の鍛錬について私が考えておりますことは本ブログにて述べてきました。それらは私個人の考えや推測に過ぎないものですが、当たっている部分もあるはずであり、その部分は「真相の一部」と呼べるのではないでしょうか。ただ、本ブログにて述べてきましたことのみでは、「カルマのエネルギーを最大限にまで引き出された、辛く厳しいお話」で終わってしまいます。「鍛錬」であるならば、「果報」が存在するはずであり、それは「鍛錬を頂いたことに対する、感謝と歓びのお話」であるはずです。このように、「辛く厳しいお話」と「感謝と歓びのお話」との両者が揃って初めて「真相」と呼べるのであり、前者のお話のみでは「真相の一部」にしかならないものと思われます。
鍛錬の果報は、実際に鍛錬を頂いた方でなければ開示できないことであり、本ブログにて開示できることではありませんが、「大体の方向性」という事で考えておりますことを述べさせて頂きます。「自分自身の状態」という面から鍛錬の内容を振り返ってみますと、次の4つのステップから成るのではないでしょうか。
ステップ1:鍛錬の前、平常心でいられた自分
ステップ2:カルマのエネルギーを引き出され、悩乱した自分
ステップ3:反省によって内界の浄化を果たしていった自分
ステップ4:反省の結果、平常心に戻れた自分
要は、この「ステップ1の自分」と「ステップ4の自分」とは何が違っていたのか、ということが「果報」になると思われます。私は、「真我誕生」の神理から眺めると、その解答が導き出せるのではないかと思っています。ステップ1,2は「偽我埋没」、ステップ3は「善我確立」、ステップ4は「真我誕生」に相当するのではないでしょうか。「善我確立」とは、自ら意識して「偽我埋没」とは真逆の方向に律してゆくことであり、「善我確立」に取り組んでいる(当時の言葉では「反省」に取り組んでいる)という事実は自覚しやすい事ではないかと思います。それに対して、「真我誕生」は、「善我確立」の結果として自然に果たされることであり、自覚しにくい面があるのではないかと思います。また、「真我誕生」は、「快・苦/暴流・衰退」というエネルギーの傾向という点では「偽我埋没」と共通しているため、その事も自覚しにくさを助長しているように思います。
「真我誕生を果たしたはずだと言われても、ステップ1の自分とステップ4の自分とは、さほど変わっていなかったように思える」というのが、鍛錬を受けられた方々の正直な感想なのかもしれません。しかし、より細かく見てゆくと、様々な点で「魂の成長」の証を発見できるのではないでしょうか。そして、おそらくその時に果たされた「魂の成長」によって、その後の人生が拓けていったのではないか、とも思われます。また、他者視点を導入することも有効かと思われます。自分自身が気づいていなくとも、「ステップ1の自分」と「ステップ4の自分」との違いを、周囲の方は明確に気づいておられたかもしれません。
以前にも述べましたが、「法の継承時の鍛錬の真相」は、次代の会長になられる方のみならず、書籍等の形で社会全体に対して発信してゆく必要があるものと思われます。これによって、「GLAの理事の方々の世代交代」や「神理を学ぶ場を再び一つに統合してゆくこと」が促進されてゆき、GLA共同体全体が次のステップに進めるようになるのではないかと考えます。そのためには、「鍛錬の果報を明確化する」という事は避けて通れないことのように思えます。
「法の継承時の鍛錬」の意味については、「GLA随想3」のレポートや、その他本ブログの記事にて、私の考えを何度か発表させて頂きました。その中で「神の御意志のままに働くための試練」という視点が抜けていたのではないかと思われましたので、この点に触れさせて頂きます。
まず、「神の御意志を感じる」というのは、どのような事であるのかを考えてみたいと思います。信次先生の御著書で何度も警告されているように、自分の耳元で「神」を名乗る存在が囁いてくるというのは「悪霊」と考えて間違いないでしょう。本物の「神」はそのようなことはされません。佳子先生は「神は鉱物の中で眠り、植物の中で目覚め、動物の中で動き回り、人間の中で思惟する」というウパニシャドの言葉を何度か引用されたことがありました。正にこの「神は人間の中で思惟する」との言葉の通り、神は人間の意識の中に入って、「人間の中で思惟する」ことによって人間に御意志を伝えられます。ただ、その時に「神が人間の中で思惟されたこと」と「その人間が勝手に思惟したこと」との区別をつけることは、非常に難しい面があります。私自身もその難しさというものに直面しました。
私は、以前からGLAの事務局のあり方について問題意識を持っていたことは事実です。しかし、問題意識を持つことと、それをインターネット上で発表することとは別問題です。私がインターネット上で意見を発表しているのは、「そのようにせよ」という神の御意志を感じたからに他なりません。つまり、「神が私の意識の中に入ってそのように思惟された」ということです。しかし、「本当にそれが神の思惟されたことなのか」という疑問はずっと持っていました。もしかすると、私自身の中にある「批判・正論癖」のカルマが「神の御意志のような虚像」を意識の中で作り出しているのではないか、と思ったこともありました。また、本来の神の御意志が私の意識のフィルターを通る時に「批判・正論癖」のカルマによって歪められているのではないか、と思ったこともありました。
「神が人間の中で思惟されたこと」と「その人間が勝手に思惟したこと」とを明確に区別するためには、その人間が自らのカルマを客観的に把握するとともに徹底的に浄化してゆくしかありません。そのため、神の御意志のままに働きたいと願う人には、カルマを看取り徹底的に浄化するための厳しい試練が与えられる場合が多いのではないかと思われます。「法の継承時の鍛錬」について「信次先生のされた事は厳しすぎるのではないか」と思われた方も多いのではないでしょうか。しかし、それは「神の御意志のままに働きたい」という本人の願いが引き寄せた試練ではないかと私は考えます。
仮に、過去の層別セミナーの班別研修の記録を精査することにより、「研鑽の充実:テーマ別研修」の青写真にアクセスできたとしましょう。ここで、「なぜ班別研修の記録を精査することができたのか?」と考えて頂きたいと思います。勿論、班別研修の詳細な記録はGLAに保存されているため、職員の方であれば精査しようとすればできてしまうわけですが、「その内容を精査してみよう」という動機がどなたかに湧かない限り、その内容は精査されることはありません。動機が湧いてきたのは、「過去の層別セミナーに班別研修というものが含まれていたこと、そしてそれがどのような内容であったのか断片的な記憶が残っている」ということがベースになっていたのではないでしょうか。
しかし、最近入会された方や将来集って来られる方は、過去の層別セミナーに班別研修というものがあったという事実すらご存じないわけです。知らないものについて「内容を精査してみよう」という動機は湧いてこないはずですから、班別研修をベースにした具現を果たすことは不可能になってしまいます。「具現のインデックス」は、この「不可能」を「可能」に転換しようとするものです。
すなわち、「具現のインデックス」とは、過去に佳子先生の果たされた具現の要点を列挙したものであり、その中で例えば一回の層別セミナーの内容は数ページ程度に要約することを想定しています。最近入会された方や将来集って来られる方は、この「具現のインデックス」に目を通して頂くことにより、例えば「過去の層別セミナーに班別研修というものがあった」という事実を知ることができます。それによって、必要な場合には「班別研修の内容を精査してみよう」という動機が湧いてくるのではないでしょうか。また、今後GLAが憑依問題に対処してゆく際には、「信次先生の果たされた具現」というものも重要になってくるのではないでしょうか。従って、「具現のインデックス」には、信次先生の果たされた具現の要点も列挙されていなければならないものと考えます。
但し、「具現のインデックス」の作成にすぐに着手するのは時期尚早であると思われます。まず、7つのプログラムの他のテーマなどを介在にして、「具現の王道」というものを実際に歩んでみることが先決問題ではないでしょうか。自ら「具現の王道」を歩めるようになると、「未来千年に渡って集われる方々にも具現の王道を歩んで頂くためには、具現のインデックスを如何に作成すべきか」という事が見えてくるようになるのではないでしょうか。「具現のインデックス」の作成は、その時にスタートするのが最善ではないかと考えます。
前記事(「通信ネットワーク環境の整備」に関する追加の考察(2))の内容は、「通信ネットワーク環境の整備」という事にとどまらず、弟子が果たしてゆく具現のあり方全般について、重要な示唆が含まれているのではないかと思われました。それは、弟子が果たす具現は、多くの場合、次のプロセスを踏むことが王道になるのではないか、ということです。
(1)佳子先生の果たされた具現のうち、これから果たそうとする具現に最も近いものを見いだす。
(2)佳子先生の果たされた具現を土台とし、条件が異なる点について具現のあり方を変えてゆく。
このプロセスを踏むことが常に最善とは言えない場合があるのかもしれません。しかし、少なくともこのプロセスを踏める場合には、「土台となる具現」を発見できた時点で、果たすべき具現の青写真に八割方アクセスできていると申し上げて過言ではないと思われます。逆に、このプロセスを踏まない場合には、「弟子が一から青写真にアクセスしてゆく」ということであり、これは多くの場合、「相当に厳しい茨の道を歩む」ことにならざるを得ないのではないかと思われます。「歴史の整備:具現のインデックスの作成」は、未来千年に渡って弟子が「具現の王道」を歩むために必要なものではないかと思い至ったものです。その内容について検討する前に、もう少し「具現の王道」について考えてみたいと思います。
例えば、映像配信システムについて「会員の自宅等に御講演の映像を配信する」ということを出発点にして、「では、どのような形で映像を配信しようか」と検討を始めると、どうしても水準の低い具現しか果たせないのではないでしょうか。この場合は、テキストブック「GLA会員の基本ライフスタイル」に解説されている「聴講」を出発点にする必要があったのではないかと思われます。ただ、テキストブックに解説されている「聴講」は、御講演会場に足を運んでお享けすることを前提にしているため、自宅等に配信された映像によって「聴講」をお享けすることは、テキストブックとは条件が異なるわけです。条件が異なるときに、「どのようにすれば聴講のいのちが実現できるのか」と方向で検討すると、具現の水準が上がってくるのではないでしょうか。
思い起こせば、「GLA随想8 霊操行のご提案」のレポートもそのようにして作成させて頂いたものでした。実は、私は霊操行の手引書の内容を一から検討しながら執筆してみたことがありました。しかし、出来上がった手引書は、佳子先生の執筆された(または監修された)様々な行の手引書と比較して、相当に水準が落ちるもののようにしか思えませんでした。しかし、霊操行というものは「聴講」「映像反芻」「霊的読書」のある種のバリエーションであることに気付いたため、テキストブック「GLA会員の基本ライフスタイル」をベースにして「なるべくテキストブックの内容を踏襲しつつ、変えなければならない点を変える」という方針で執筆しました。その結果、以前よりは高い水準のものが出来たのではないかと考えています。
7つのプログラムの他のテーマについても考えてみたいと思います。「GLA随想4 7つのプログラム(歴史の整備を除く)」のレポートでは「研鑽の充実」について「テーマ別研修」というものを提案させて頂きましたが、これは以前に層別セミナーに含まれていた班別研修が最も近いのではないかと思います。そこで、それぞれの班別研修の内容を土台にすることにより、テーマ別研修の青写真に迫ってゆくことができるのではないでしょうか。
また、「グループ力・響働力に基づくお世話構造」については、「生活実践」が最も近いのではないかと考えます。「近い」というよりも、「生活実践」は「グループ力・響働力に基づくお世話構造」の一部を既に実現しているものと考えることが正しいのではないでしょうか。従って、生活実践未参入の方のお世話をどのように果たしてゆくのか、あるいは神理を学ぶ専門家の方にどのように関わって頂くのか等、「生活実践」とは条件が異なる点を詰めてゆけばよろしいのではないでしょうか。また、11月11日の記事(人生同伴態勢の充実に関する追加の考察)では、「Calling 試練は呼びかける」と「対話者手帳 I」を基本にして、「お世話の指針」となる冊子を編纂する必要性を述べさせて頂きました。しかし、お世話の進め方の指針が既に生活実践にて共有されているのであれば、生活実践のものをベースにすることが正しいのではないかと思われます。