「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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GLAと法華経の関係について基礎研究が進んできますと、GLAと法華経の関係について様々な事が明らかになってくると思います。しかし、明らかになった事を全て記載しようとすると書籍は煩雑になってしまいますので、その中からテーマを絞った形にすることが望ましいのではないかと思われます。あるいは、書籍は一冊で終わりではなく、様々なテーマについてシリーズ物のように発刊することが予定されているのかもしれません。書籍のストラクチャーは、基礎研究が進まないと見えてこない面があると思いますが、現時点で私の意識に浮かんできたヴィジョンについて、以下に紹介させて頂きたいと思います。これは、法華七喩の中の三車火宅の喩と、三草二木の喩にテーマを絞ったものです。
第1章 法華経の二つの喩
この章では、三車火宅の喩と三草二木の喩の内容とともに、これらが現代仏教の中で如何に解釈されているかを説明します。二つの喩をイメージしやすいように、喩の内容を表した挿絵などがあってもいいかもしれません。
第2章 神理概説
この章では、煩悩地図、止観シート、真我誕生、菩提心発掘などの神理の内容を解説します。
第3章 神理実践報告
この章では、様々異なる条件を抱えた人々による神理実践報告を紹介します。
第4章 新しい解釈
この章では、様々異なる条件を抱えた人々が共通の神理を学んだことにより神理実践を果たせたという事を振り返ります。そして、この「共通の神理」こそが三車火宅の喩における「大白牛車」であり、三草二木の喩における「雨」である、という新しい解釈に読者を導きます。
本年1月11日~13日の記事(GLAと法華経:書籍の編纂について)では、GLAと法華経の関係を証した書籍を発刊するにあたって、佳子先生に多大な負担を背負って頂くことになるという考えを述べさせて頂きました。ただ、このことは本ブログの他の箇所で述べております「佳子先生のお役割を勝手に決めない」「弟子が100%の力を出し切る」という事と矛盾していたように思います。そこで、書籍を発刊するにあたって、「弟子が100%の力を出し切る」ためには何が必要であるのかをもう一度考え直してみたいと思います。
GLAと法華経の関係を証した書籍を発刊するにあたって、プロジェクトリーダーを関芳郎氏に担って頂くことが呼びかけられているというのは正しいと思われます。また、GLAホームページの出来栄えなどから考えますと、彼がその役割を(少なくとも単独で)担われる事は、ほとんど無理というのも正しいと思われます。しかし、「参謀役」の方がおられると、それが可能になるのではないでしょうか。
参謀役の方の役割は、「なるべく関芳郎氏の意向を尊重しながら彼の力を引き出し、書籍の内容を整えてゆく」という事になります。佳子先生には、「必要と判断された場合に参謀役の方に対してご指導をして頂く」という形で関わって頂ければよろしいのではないでしょうか。将来のGLAにおいても、ある人に対して無理そうなテーマを与え、そのテーマを果たせる力をある程度備えている別の人を参謀役に就ける、という修行の方法が採られる場合があるのではないかと思われます。「今回の参謀役の方に対するご指導」は、未来千年に渡って参謀役を担われる方にとって欠かせないご指導になるものであり、このご指導こそ、未来千年に渡って伝承すべきものであると思われます。
前記事を書いた後に思ったことですが、関芳郎氏が書籍の執筆を発心されるということは、現状では難しいかもしれません。「法華経とは高橋佳子先生およびGLAの出現を予言したものである」という認識を持てなければ書籍の執筆を発心することは出来ないはずであり、「GLA随想6 法華経に基づく伝道」のレポートなどに基づいてその認識を持つことは、彼にとって難しすぎるかも知れないと思っています。それだけの感性が彼にはまだ育まれていないのではないでしょうか。
上述のレポートでは、書籍のストラクチャーを検討する前に、法華経がどのような形でGLAの出現を予言しているかについて、基礎研究を充実する必要性を述べさせて頂きました。実際に多くの方々が基礎研究に参入され、GLAと法華経の関係が一層明らかになってきますと、関芳郎氏も目を覚まされ、書籍の執筆を発心されるのではないかと思います。「基礎研究」は、直接的にGLAの方針について議論するものではありませんので、今すぐにでもGLA公式Facebookページにて有志の方々が始められてもよろしいのではないかと思います。
基礎研究を早い段階でスタートさせるということは、「関芳郎氏のため」というばかりではなく、かつて法華経信仰をされてきた方々の「願い」を成就してゆく、という意味もあるのではないかと思われます。かつて法華経信仰をされた後、法華経信仰を捨ててGLAに入会された方々は、おそらく「その選択は正しかった」と思っておられるのではないでしょうか。しかし、ただ「正しかった」では割り切れない「何か」が引っかかっている方もおられるのではないかと思います。例えば、「自分一人が神理を学ぶだけではなく、かつて共に法華経を学んだ方々にも神理を学んで頂きたい」という「願い」を感じられたことは無かったでしょうか。
そのような「願い」があるとすると、その願いを成就してゆく一番の早道は、「GLAと法華経の関係を証した書籍を発刊する」という事以外に考えにくいのではないでしょうか。そして、書籍を発刊するためには、基礎研究を充実させてゆく必要性があることもご理解頂けるのではないかと思います。基礎研究を開始するにあたって、関芳郎氏が現段階で例えば「基礎研究を始めましょう」などと会員の皆様に呼びかけられることは、考えにくい事であると思います。有志の方々の発心が無ければ基礎研究はスタートすることはなく、書籍が発刊される時期もそれだけ遅れることになるのではないかと私は考えています。
前記事では、信次先生のお言葉を根拠とし、関芳郎氏が願いと志を表明されるのであれば、佳子先生に多大な負担を背負って頂いても、彼に書籍の執筆を担って頂くべきであるとの考えを述べさせて頂きました。しかし、この点について周囲の皆様のご理解とご協力を頂くためには、もっと直接的な根拠を示さなければならないのではないかと思われました。
インターネット上の情報によりますと、関芳郎氏はかつて洗礼者ヨハネとしてイスラエルに出生されたということです。この話が真実であるのかどうか私には解りませんが、お二人はとてもよく似た人物であるように思えますので、その情報が正しいものとして、考察を進めてみたいと思います。聖書によりますと、洗礼者ヨハネは、領主ヘロデが弟の妻であったヘロディアと結婚した際、「汝、兄弟の妻を犯してはならない」というモーセの言葉を根拠として、「それは姦淫であるからよろしくない」と意見しました。これによって洗礼者ヨハネはヘロデに疎まれて投獄され、さらにヘロディアの策略によって斬首されることになりました。彼は「イエス・キリストを証し、イエス・キリストの歩む道を整える」という使命を持っていたようですが、結局その使命を果たすことなく人生を終えることになりました。
その後悔を生き直すため、関芳郎氏は今生の人生にて「佳子先生をお証しする」という使命を持たれたのではないかと考えられます。洗礼者ヨハネが使命を果たせなかった原因は、「そもそもなぜ姦淫してはならないのか」というモーセの教えの本質というものに彼が迫ることができず、ただモーセの言葉を表面的に解釈することしか出来なかった事にあると思われます。そのような「心の働かせ方」が使命を果たせなかった原因であるならば、その「心の働かせ方」そのものから変革してゆかなければ「後悔を生き直す」事にはならないのではないかと思われます。
「佳子先生をお証しする」という事は、「佳子先生の法と法華経は、その本質(イデア)において同一である」という事を書籍などによって世に知らしめるという事であり、そのためには書籍の執筆者自身がその事をよく理解していなければお話になりません。「表面的に現れた言葉」という意味では、佳子先生の法と法華経とは全く異なりますので、言葉を表面的に解釈するような「心の働かせ方」では両者の共通の本質に迫ってゆくことはできません。これは、おそらく関芳郎氏にとって最も苦手とすることではないかと思われますので、彼自身も多大な苦労を背負われることになり、佳子先生にも多大な負担を背負って頂くことになるのではないかと思われます。しかし、逆に、そうであるからこそ「過去世の後悔の生き直し」が果たされてゆくのではないでしょうか。
但し、「心の働かせ方」を変革してゆく事はなかなか難しい面があるのは確かであると思います。私が提案させて頂いた「霊操行」は、「心の働かせ方」を変革してゆくために有効な行であると思いますが、周囲の職員の方々のご協力も欠かせないのではないでしょうか。普段の関わりの中で関芳郎氏の「心の働かせ方」が何か変だと感じた場合は、その事をすかさず指摘して頂くとともに、彼がその指摘を理解できない場合には理解できるように智慧を使って説明を果たして頂く事も必要かと思われます。また、実際に職員の方々がそのように動かれるためには、関芳郎氏から職員の方々に対して「そのようにして下さい」とお願いされる必要もあると思われますし、何よりも感謝の想いで職員の方々からの指摘を受け止めて頂く必要もあるのではないでしょうか。これらの事も彼にとって「100%の力を出し切る」という事に含まれるはずだと思われます。
「GLA随想6 法華経に基づく伝道」のレポートでは、GLAと法華経の関係を証した書籍を発刊する必要があること、および、そのプロジェクトリーダーを関芳郎氏に担って頂くことが呼びかけられているのではないか、との考えを発表させて頂きました。後者については、信次先生が関芳郎氏に対して「どうか、佳子の事を証して下さい」と仰った事が根拠になっています。
しかし、GLAホームページの出来栄えや、彼がこれまで果たしてこられた事を考えますと、彼がその役割を担われる事は、ほとんど無理ではないかと思えて仕方がありません。法華経信仰されている方々を感動に導くような文章は、彼には到底執筆できない、というのが私の正直な考えです。ただ、それは「絶対に不可能」という意味ではありません。彼が自らそれを発心することは可能ですし、佳子先生のご指導に従って彼が「100%の力を出し切る」ことも可能かと思われます。従って、佳子先生が詳細な点に至るまでご指導されるならば、彼が執筆を進めてゆくことも可能になるものと思われます。「100%の力を出し切る」というのは、ただがむしゃらに一生懸命取り組めば良い、という事ではない筈です。これまでこのブログで述べてきましたように、「一度頂いたご指導は日々反芻して刻印する」という事も必要かと思いますし、「佳子先生のお役割を勝手に決めない」という姿勢も必要かと思われます。
但し、もし関芳郎氏が書籍を執筆されるならば、佳子先生ご自身が執筆される場合や、他の弟子が執筆して佳子先生が監修される場合と比較して、佳子先生に何倍もの負担を背負って頂く必要が生じます。しかもそれは他の誰のためでもなく「関芳郎氏お一人のため」であり、彼がその役割を担われなかったとしても他の人は誰も困りません。本当に佳子先生にそれだけの負担を背負って頂くとすると、何よりも関芳郎氏ご自身がそれだけの願いと志を表明される事が絶対条件ではないでしょうか。「GLAと法華経の関係を証した書籍をぜひ執筆したい」「それによって佳子先生をお証する使命を果たしたい」と彼が心底から願われるならば、それは実現してゆく事が予定されているのではないかと思えます。