「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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法の継承時の鍛錬については、「GLA随想3」のレポートおよび6月20日、7月22~24日、9月27日~10月7日の記事等にて、私の考えを述べさせて頂きました。これらに加えて「頑固さを砕く鍛錬」があったのかもしれないと思い至りましたので、紹介させて頂きます。
信次先生が御帰天される前に、例えば「あなたこそが後継者である」「GLAはダメになるから、GLAの外で活動するように」などと告げられた方が、法の継承後にその通りの行動を取ったとしましょう。法の継承時、佳子先生には何の実績も無かったわけですから、信次先生のお言葉をそのままの意味で受け取ってしまったとしても仕方無い面があったのではないでしょうか。従って、「信次先生のお言葉を忠実に遂行した」という行為は特に問題視する必要は無いのではないかと考えます。しかし、問題はその後の行為ではないでしょうか。
その後の数十年間にその方が積まれてきた実績と佳子先生が積まれてきた実績を比較すると、どちらが「真の後継者」であったのか、一目瞭然で解ることではないでしょうか。その方が、この一目瞭然で解ることから目を背け、あくまでも信次先生のお言葉に固執しようとするならば、それは「頑固」と申し上げるしかありません。その方は、頑固さを砕かない限り、GLAに復帰されることはないでしょう。
そのように考えますと、信次先生がその方に対して仰った言葉の意味が見えてきます。それは「頑固さを砕く鍛錬」のためではないでしょうか。信次先生は、その方がGLAから出てゆくように仕向けられ、その方が頑固さを砕くまでGLAに復帰できないようにされたのではないかと思われます。そして、信次先生がその方に鍛錬を課されたのは、おそらくその方ご本人が出生前に希望されたからではないでしょうか。
映像配信システムに関して、若干の疑問を感じていましたが、ようやく解答らしきものにたどり着くことができましたので発表させて頂きます。
実は、私は、2008年3月、会員の自宅等に四聖日等の映像を配信する映像配信システムを整えることが呼びかけられていると感じましたので、関芳郎氏に対し、そのシステムを整えて頂けるようにお願いするお手紙を差し上げたことがありました。その理由は、勿論、高齢者など介護の必要な方がGLAの集いに参加されることの困難性を解消するためです。私は関芳郎氏が動かれるかどうか疑問に思っておりましたし、多額の費用がかかることでもありますから、佳子先生にもお手紙の写しを送らせて頂きました。これは、要するに、関芳郎氏が動かれない場合には佳子先生が動いて下さることを期待していたということです。
その当時から映像配信システムを整える計画はあったのかもしれませんが、実際に2009年にGLAから全会員に発表されるまで、私はその計画について全く何も存じておりませんでした。つまり、私にとって「本来の目的を伏せたまま映像配信システムを整えて頂く」という形のヒントは、不要であったということです。また、職員の中にも、ノーヒントで映像配信システムのヴィジョンに共感できた方はおられたのではないかと思われます。例えば、1980年代に佳子先生のお写真がGLA誌に掲載されるように動かれた方であれば、共感して下さったのではないでしょうか。そのような方が総合本部長に就任されていたならば、ノーヒントで、弟子の発心のみに基づいて映像配信システムが構築され、構築された当初から本来の目的のために使われていたに相違ない、としか思えません。
実際にそうなっていない理由は、これまでの記事で述べさせて頂いたように、佳子先生によって「自ら発心して動くことができる人」の力が押さえ込まれているからであり、それは「できない人」すなわち一部の職員の鍛錬のためであったと考えています。そして、「できない人」に動いて頂くためには、解りやすいヒントも必要であったということでしょう。
私が感じていた疑問とは、「鍛錬のための犠牲が大きすぎるのではないか」ということでした。本当に映像配信システムを必要としている人は、人生の時間があまり残されていない人が多いと思われますし、実際に映像配信システムの恩恵を受けることなく旅立たれた人も相当数に昇るのでは思われます。一部の職員の鍛錬のために、これだけの犠牲を会員の皆様に課すということは、どうにも納得しきれないものを感じていました。
大きな犠牲の上に立ってでも鍛錬を遂行しなければならない理由を考えておりましたところ、それは「“千年続く”誰もが菩薩になれる道」を構築するためではないかと気づかせて頂きました。10月28日の記事にもありますように、将来のGLAにおいては、縁覚段階の人を育む「縁」を提供することが難しくなるものと予想されます。そうしますと、現在のGLAにて佳子先生が提供して下さっている「縁」と、その「縁」によって目覚めた人の如是我聞が大きな役割を果たすのではないでしょうか。つまり、将来のGLAにおいては、これらの如是我聞を霊操し追体験することが縁覚段階の人の重要な修行になるのではないかと考えられます。
そのように考えますと、「できない人」には、「会員の皆様の大きな犠牲の上に立って修行をさせて頂いている」という自覚を確かにして頂くとともに、是が非でも発心して動いて頂き、如是我聞に結んで頂くことが必要ではないかと思えます。
10月24日の記事(歴史の整備:「誰もが菩薩になれる道」の伝承(2))では、佳子先生の御帰天とともに「第5段階への道」、「第6段階への道」はかなり厳しく細いものになり、「第7段階への道」は消えてしまうかもしれず、如来が出生されたときにこれらの道が復活するのではないか、と述べました。この考えは少々おかしかったと思われましたので、もう一度考え直してみたいと思います。
将来のGLAにおいて如来クラスの方が指導者になったとしても、その指導者が縁覚段階の人を育める「縁」を佳子先生と同様に提供できるかと考えてみますと、かなり難しいのではないかと思われます。それは、その指導者の資質のみならず、GLAの組織形態も大きな制約になるためです。将来のGLAでは、指導者が誰であるにせよ最高意志決定機関は伝道研鑽部会であり、伝道研鑽部会の承認が無ければ何も進めることができなくなるものと考えられます。例えば今回の映像配信システムのように、指導者が合理的な理由を開示せず多額の費用を投じるようなことは伝道研鑽部会の承認が得られないことではないでしょうか。一方、合理的な理由を開示してしまえば、それは縁覚段階の人を育む「縁」としては使えなくなってしまいます。
そのような制約の中でも「縁」を提供してゆくことは可能であるものの、充分なものとは言えないのではないかと考えます。やはり、縁覚段階の人が自らの境地を育むにあたって「如来クラスの指導者を頼りにする」というのは誤りであって、そのような指導者の存在を前提とせず、「第5段階への道」~「第7段階への道」を実現しなければならないのではないでしょうか。それが実現できて初めて「“千年続く”誰もが菩薩になれる道」が完成するのではないかと考えます。
その実現のために最初に果たすべきことは、現段階で「第5段階への道」~「第7段階への道」を実現するにあたって、佳子先生が如何なる「はたらき」を果たして下さっているのか明確にしてゆくことではないでしょうか。佳子先生の「はたらき」は、「ご指導を下さる」「縁を整えて下さる」等の外的側面と、「それによって弟子の心境に如何なる変化が生じたのか」という内的側面とが考えられます。次に、その「はたらき」を別の方法で実現してゆく手段を見出してゆくことが必要になるのではないかと思われます。このうち外的側面については、上述しましたように未来千年に渡って再現することは難しいため、内的側面の「心境の変化」というものを如何に起こしてゆくかが鍵になるのではないでしょうか。
そこには、様々なアプローチの仕方があると思いますが、一つの可能性として、未来千年のGLAでは、「GLA40年」の期間の如是我聞に基づいて、佳子先生が果たして下さった「はたらき」の外的側面を「自分自身に下さったもの」と弟子が受け止めて霊操し、内的側面の「心境の変化」を自ら起こしてゆく、という事が考えられるのではないでしょうか。「GLA40年を振り返り、未来千年の礎とする」とは、そのような意味であるのかもしれません。
前記事の「7つの道」のうち、「第4段階への道」~「第7段階への道」について、もう少し考察を進めてみました。
まず、「第4段階への道」について、前記事では、第3段階の人を後押しする方は佳子先生である場合が多いと述べましたが、一部の場(例えばTL経研)ではそうではないことに気づきました。TL経研の方の如是我聞の中には、“TL経研の先輩”と呼ばれる方がよく登場し、その“TL経研の先輩”なる方が後輩の皆さんを上手に後押しされていることが解ります。その方がどなたであるのか明確ではありませんが、TL経研の中には佳子先生から過去世が菩薩であったことを告げられた方がおられましたので、多分その方ではないかと推測しています。
その方がご自身の判断で後押しをされているのか、それとも佳子先生のご指示に基づいてされているのかと考えますと、おそらく両方のケースがあるのではないかと思います。つまり、その方がご自身の判断で後押しできた場合にはそれで良しとし、出来なかった場合には佳子先生が後押しのご指示をされる、という形になっているのではないでしょうか。そうすますと、「第4段階への道」を整えることは、菩薩の修行のテーマであり、菩薩の任務であるということになります。やはり、それだけ難しいものであるという事になるのではないでしょうか。
次に、「第5段階への道」~「第7段階への道」について、前記事では、相手が自ら気付けるように「縁を整える」ことが重要であり、それはかなり手間がかかるとともに一層高い智慧が必要であると述べました。佳子先生が与えて下さっている「縁」の例として「7つのプログラム」を挙げましたが、この「7つのプログラム」を縁覚レベルの人を鍛錬する「縁」とすることについて、もう一つ気付いたことがありましたので、それを以下説明させて頂きます。
これまでの記事の繰り返しになりますが、「7つのプログラム」は2008年に発表されたものの、佳子先生が直接ご指示を下さった事を除いて何も進捗していません。私は、この事をいぶかしく思うとともに、不思議にも思っていました。特に、映像配信システムを本来の目的(高齢者や病気の方の自宅等に四聖日等の映像を配信すること)のために使うことは、とても解りやすい、簡単な事であると思いますが、なぜこの程度の事ができないのでしょうか。この程度のことが果たせないのに、上述のように「第4段階への道」を整えるような難しいことになぜ挑戦できるのでしょうか。これは、「小学校レベルの四則演算すらできない人が、大学レベルの数学の問題が解く」事のように、あり得ないことのように思えました。
「あり得ないこと」が起こっているとすると、その理由は一つしか考えられません。それは、職員の中で自ら発心して「7つのプログラム」を実現してゆける方々全員に対して、佳子先生から「7つのプログラムについては、許可があるまで動いてはならない」とのご指示があったのではないでしょうか。在家の会員については個々に指示することが難しいため、GLA公式FacebookページにてGLAの活動に関する議論を一律に制限する、という方法を取っておられるのではないかと思われます。
つまり、職員の中で「自ら発心して道を付けることのできない人」のみが選抜されて、「7つのプログラム」をテーマとする鍛錬が与えられているように見受けられます。わざわざ「できない人」ばかりを集めたとすると、「5年経っても何も進捗しない」という結果が生じるのは、ある意味では自然なことではないでしょうか。
GLA誌には、職員の方々に対する佳子先生のご指導が時折掲載されていますが、「会員の皆様を徹底的に愛すること」というご指導もありました。しかし、職員の方々の中には、佳子先生のご指導の通りに動こうとする人々もいれば、動こうとしない人もおられるのではないでしょうか。「動こうとしない人々」に対して「動きなさい」と指示して動かしたところで何にもならないわけであり、「その人々が自ら発心して動けるような縁を整える」ということが境地を育んでゆく上で大切なのではないでしょうか。「7つのプログラム」はそのような「縁」であったのだと思います。
この事例からも、縁覚段階の人を育むために「縁を整える」ということは高い智慧が必要であることが解ります。私自身、この「縁」のからくりを見破るまでに5年もかかってしまったのは、それだけ難しいことであったのだと思います。おそらく、できないはずの人が発心して動き始めたときに、現在ストップをかけられている人も動けるようになり、「7つのプログラム」が本格的に進捗し始めるのではないでしょうか。