「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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前記事では、「第1段階への道」~「第7段階への道」まで「7つの道」を整えるという事は大変に難しいことではないか、との私の考えを述べさせて頂きました。私の考えが本当に正しいのか否かは、実際に前記事にあるような形で歴史の整備を進めてゆけば判明することではないかと思いますが、現時点で私が考えておりますことを述べさせて頂きたいと思います。
(1)「第1段階への道」~「第3段階への道」について:
この段階では、「止観シートに取り組めるようになる」ということが明確な目標になります。止観シートに向かってゆく気魂を整えるための日々の行として、菩提心発掘の書写行や瞑想行などが準備されています。また、今後「研鑽の充実」が果たされてゆくことにより、止観シートの研修や、止観シートの取り組みに誘うためのテーマ別研修なども充実してくるのではないでしょうか。これらによって「第1段階への道」~「第3段階への道」は、相当に充実してくるものと考えます。本当にこれらによって充分であるのか否か、実際に結果を見てみないと解らない点もありますが、不十分な点があったとしても、それは弟子の力によって埋め合わせてゆけるものではないかと考えています。
(2)「第4段階への道」について:
第4段階の悟りの内容は、「内と外をつなぐ」という側面では「いかなる事態にあっても新しい色心束を始めることができる」というものです。すると、逆に考えると、第3段階では、「事態によって、新しい色心束を始めることができる場合と、できない場合がある」ということになるのではないでしょうか。ここで、「できない場合」であっても、誰かが少し後押しして下さることにより、新しい色心束を始められる場合があります。後日また「できない場合」が生じたとしても、また誰かが少し後押しして下さることにより、新しい色心束を始められる場合があります。そのような事を繰り返しているうちに、誰も後押しして下さらなくても、常に新しい色心束を始められるようになるのではないでしょうか。それが「第4段階の悟りに到達した」ということであると思われます。
現在のGLAを拝見しておりますと、この後押しをして下さる「誰か」とは佳子先生である場合が多いように思います。この役割を弟子が担うとしても、相手の状況をよく把握して後押しの内容やタイミングを見極めなければならないため、なかなか難しい場合が多いのではないかと考えます。このため、佳子先生が御帰天された後は、本人の努力によって色心束を転換してゆかなければならない場合が多くなるのではないかと考えています。「第4段階への道」は、それだけ険しく、また細くなってしまうのではないでしょうか。
(3)「第5段階への道」~「第7段階への道」について:
この段階からは「縁覚」の修行になります。現在のGLAにおいて、本人が一段階上の具現を果たせない場合に、佳子先生が後押しをして下さるという点では「第4段階への道」と同様ですが、「後押し」の内容が異なっているのではないでしょうか。声聞段階の人を後押しする方法は、文字通り「声を聞かせる」ということですが、縁覚段階の人は、「縁によって覚える」ということが必要になります。そのため、佳子先生は、弟子が自ら気付けるような「縁」を整えて下さるという形で後押しして下さる場合が多いのではないでしょうか。
「声をかける」というのは短い時間で済むことですが、相手が自ら気付けるように「縁を整える」というのは、かなり手間がかかるとともに一層高い智慧が必要であるように思えます。佳子先生が御帰天された後、このような形で後押しを頂くことは、なかなか期待できないことではないでしょうか。「GLA随想8 霊操行のご提案」で紹介させて頂いた霊操行は、境地を育んでゆく一助になるのではないかと思います。しかし、本当にそれだけで充分であるのかどうか、充分でないとすると何が必要であるのか、「よく解らない」というのが私の正直な考えです。
以前、GLAの中で「菩薩は如来が出生している時にのみ誕生する」というお話を聞いた記憶があります。私の記憶が正しいとすると、それは、縁覚段階の人の境地を高めてゆくことはそれだけ難しく、特に「第7段階への道」は如来でなければ実現できない、ということなのかもしれません。その通りであるとすると、佳子先生の御帰天とともに「第5段階への道」、「第6段階への道」はかなり厳しく細いものになり、「第7段階への道」は消えてしまうかもしれません。その場合、またどなたか如来が出生されると、これらの道が復活するのではないでしょうか。
考えてみますと、「7つのプログラム」も、縁覚段階の人が菩薩としての広い心を育んでゆくための貴重な「縁」ではないでしょうか。これだけの「縁」を整えて下さる方とは、もう出会えないということを心に置いて挑戦して頂きたいと改めて思います。
「GLA40年を振り返り、未来千年の礎とする」について、また別の視点から検討してみたいと思います。
「GLA40年」とは、一言で表現すると「誰もが菩薩になれる道が拓かれた40年」と表現できるのではないでしょうか。GLA40年の最後に期間に説かれた「菩提心発掘」は、「誰もが菩薩になれる道」の総仕上げの神理であったと思えるのです。「菩提心発掘」という神理の性質について、私の考えは「GLA随想4 7つのプログラム(歴史の整備を除く)」の18~19ページに発表させて頂きました。簡単に要約しますと、「菩提心発掘」は煩悩に対峙する事が難しい人であっても、「書写」や「瞑想」などの行を通じて、とりあえず煩悩の問題を横に置いて取り組むことができるという可能性を有していますが、煩悩に打ち克つ可能性を持っている人がその段階に留まってしまわないように、相当に場が成熟していなければ前面に打ち出せない神理である、というものです。このように、煩悩に対峙する事が難しい人にすら道が開かれたということは、「全ての人に道が開かれた」ということになるのではないでしょうか。従って、ある意味では「菩提心発掘が説かれた事を以って神理は一つの完結を迎えた」と考えてもよろしいのではないかと思われます。
しかし、「誰もが菩薩になれる道とは如何なる道なのか」と問われたとき、「このような道である」と明確に回答できる人は皆無に等しいのではないでしょうか。それでは、「誰もが菩薩になれる道」を未来千年に渡って伝承してゆくことができなくなります。従って、「誰もが菩薩になれる道」について定見を深め、千年の伝承を果たしてゆく準備を整えてゆくことも「歴史の整備」の重要な目的の一つではないかと考えられます。
悟りの九段階の視点から眺めますと、「誰もが菩薩になれる道」は、「7つの道」から構成されているのではないでしょうか。それは、段階外の人が第1段階に上がれる「第1段階への道」、第1段階の人が第2段階に上がれる「第2段階への道」、…(以下同様に)……第6段階の人が第7段階に上がれる「第7段階への道」です。そうしますと、「誰もが菩薩になれる道」について定見を深めてゆくためには、これら「7つの道」のそれぞれに対して定見を深めてゆく必要があるのではないでしょうか。
(1)如是我聞の分類
「7つの道」について定見を深めてゆくためには、GLAの場で発表された如是我聞(対話ご指導を含む)が、それぞれ「7つの道」の何れに属するかを分類してゆく必要がありそうです。但し、如是我聞は「発表されたもの」、すなわち佳子先生が発表すべきとして選択されたものに限ります。その理由を説明します。人間は誰しも、何もできない赤ん坊から人生を始めなければならず、その後に悟りの九段階を一段づつ昇ってゆくことになります。ここで、過去世において既に到達した段階までなら、「思い出す」ことによって比較的スムーズに昇ってゆけますが、過去世に到達した実績の無い段階では大変な苦労が伴います。従って、「ある境地に至った如是我聞」が幾つかあった場合、それは「今生、新たに獲得した境地」の場合と、「思い出した過去世の境地」の場合とに分類されるはずです。そして、佳子先生が発表すべきとして選択されたものは、全て前者に属するものではないかと考えられます。
(2)如是我聞の特徴の抽出
次に、「今生、新たに獲得した境地」の如是我聞と「思い出した過去世の境地」の如是我聞とを比較し、前者の如是我聞の特徴を「7つの道」ごとに抽出しておく必要があるのではないでしょうか。おそらく、その境地を獲得するまでの期間の長さ、試練の大きさ、本人の苦悩の大きさなどの点で、かなりの差が見られるのではないでしょうか。換言すると、例えば第6段階から第7段階に上がった人が多数おられたとしても、それは「第7段階への道」が整っている証拠にはならないわけであり、真に「第7段階への道」が整っているのか否かを見極めるための判断基準が必要ではないかということです。
(3)成立条件の抽出
次に、「今生、新たに獲得した境地」の如是我聞が成立した条件を抽出しておく必要があると思います。本人の「志」が第一の条件であったことは勿論ですが、ここで抽出すべきものは、「GLA共同体に備わっていた条件」ということです。「理」の側面から考えると、「ある神理が説かれていた」という条件が必要であったかもしれません。また、本人をサポートする「場・システム」というものが必要であったかもしれません。また、佳子先生による個別のご指導やご同伴などを頂いた場合は、それも必要な成立条件であったと考えられます。7つのプログラムの「歴史の整備」として当面果たしてゆくことは、ここまでではないでしょうか。
(4)成立条件を転換する
上述した成立条件のうち、「佳子先生による個別のご指導やご同伴」は、数十年後に佳子先生が御帰天されたときに無くなります。つまり、「7つの道」のうち佳子先生個人に強く依存しているものがあるとすると、それは「そのままの形では千年の伝承を果たせない」ということになってしまいます。従って、今後数十年かけて、佳子先生が現在果たして下さっているお役割を可能な限り弟子が担えるように成立条件を転換してゆく必要があるのではないでしょうか。ここまで来ると、GLA共同体の態勢全般に関わることであり、「歴史の整備」というテーマから相当に離れますが、「必要である」ということは間違い無いものと思われます。但し、「7つの道」を全て整えるという事は大変に難しいことであると私は考えます。この点については、稿を改めて考えを述べてみたいと思います。
(5)未来千年の礎とする
未来千年に渡って、「7つの道が全て整っているGLA」とは、ある意味で理想的な姿と呼べるのではないでしょうか。感動的な如是我聞が数多く分かち合われたとしても、「7つの道」の何れかが不備であれば、「誰もが菩薩になれる道」はそこで途切れているということになります。7つの道が十全に整っているのか否かは、それぞれの道において、「佳子先生が発表すべきとして選択された如是我聞」と同様の特徴を有する如是我聞が継続的に誕生しているのか否か、という観点から判断されるべきものと考えます。しかし、上述のように、「7つの道」を全て整えるという事は大変に難しいことではないかと私は考えています。「礎」という言葉から「もう既に出来上がっている基礎」というイメージを持たれる方は多いのではないかと思いますが、「未来千年の礎とする」というのは、「未来千年に渡って、そこに向かって挑戦し続ける」と考える方が正しいのではないかと思われます。
「GLA40年を振り返り、未来千年の礎とする」というテーマは、広い意味があり、様々な見方が出来るのではないかと思いますので、前記事とは別の側面で検討してみたいと思います。
「GLA40年」および「未来千年」という言葉を厳密に解釈しますと、「GLA40年」とは1969年4月8日~2009年4月7日であり、「未来千年」とは2009年4月8日~3009年4月7日であると考えることができます。すると、既に「未来千年」が始まって4年半の期間が経過したことになります。なお、この場合、「礎とする」は「行動や判断の基礎とする」という意味になります。なぜ、時期について厳密な解釈をするのかと申しますと、ちょうど「未来千年」が始まった頃を境として、「GLAの方針」と「高橋佳子先生の方針(と思えるもの)」との間で、乖離が目立つようになったからです。これは、既にGLA40年を礎にして方針を決定すべき時期に突入しているということではないかと思われます。
例えば、GLA誌に掲載されていた7つのプログラムの方針案のことを考えてみたいと思います。これは、佳子先生が元々下さったお言葉が不明になるような形で発信されました。佳子先生がその事を注意されなかったのは、「GLA40年を礎にして判断せよ」ということであり、弟子が下した判断については極力干渉されない方針を採っておられるからではないでしょうか。GLA40年の期間に佳子先生が下さった一つ一つのお言葉の重さと深さを振り返り、その振り返った結果を礎として検討しますと、オリジナルのお言葉が解らなくなるように改変して会員に発信することが正しいのか否か、自ずと明らかになるのではないでしょうか。
また、映像配信システムが本来の目的(高齢者や病気の方の自宅等に四聖日等の映像を配信すること)のために使われていないことも、その現れではないでしょうか。GLA40年の期間、信次先生、佳子先生が弟子にどれほどの御慈愛を注いで下さったのかを振り返り、その振り返った結果を礎として検討しますと、映像配信システムの本来の用途が何であるかについても自ずと明らかになるのではないでしょうか。
「GLA随想2 GLAの歴史概観」のレポートにありますように、「歴史の整備」について佳子先生が元々下さったヒントは「GLA40年を振り返り、未来千年の礎とする」ではなかったかと推測します。この「未来千年の礎」の意味についてよく吟味できていなかったと思いますので、もう一度考えてみることにします。
GLA40年の歴史というものは、ある側面から眺めますと、「人を排除していった歴史」と呼べるのではないでしょうか。具体的には、これまでのレポートや記事にありますように、法の継承時の鍛錬、1981年の予言、「人間のまなざし」シリーズの学びなどが該当します。そして、現在も「佳子先生の法に共感できること」「面接にあたっておかしな様子が見られないこと」を入会承認の基準としていることは、「人の排除」が依然として続いているという事ではないでしょうか。
これらは全て神の御意志に基づくものであり、止むを得ない事情があったという点では、確かにその通りであると思いますが、それだけでは割り切れない「痛み」を感じることも事実ではないでしょうか。そうしますと、その「痛み」を「一人も排除しないGLAを実現する」という「願い」に転換することができるはずですし、その「願い」こそを「未来千年の礎」とすべきではないかと思われます。「一人も排除しない」ということは、「一切の人を救済する」と同義であるとも考えられますが、「目の前に集ってきた人を一人も排除しない」という意味に考えますと、かなり具体的で身口意に結びやすいことではないでしょうか。
但し、「一人も排除しない」ということは相当に難しいことであり、智慧と努力を尽くして、その願いに一歩一歩近づいてゆくしかありません。特に外国においては、ほとんど共同体の基盤が整っておらず、今後「人」「理」「場・システム」のバランスを取りながらすそ野を広げてゆく必要がありますので、「一人も排除しない」ということとは両立できないかもしれません。それでも、現時点で会員を制限するのは「一人も排除しないGLA」を実現するためである、という「願い」は確かにして頂く必要があるのではないでしょうか。
ここで、「一人も排除しない」ということを具体的に考えてみたいと思います。例えば上述の入会承認の基準については、単に基準を緩和したところで何の解決にもなりません。信次先生の法を求める人々、憑依に悩む人々を充分にお世話できる態勢を整えるということが「排除しない」ということではないでしょうか。そのためには信次先生の法の復活を果たしてゆくしか道は無いものと考えます。
また、将来予想される「集団帰依」についても同様です。「GLA随想9 千年構想」のレポートに認めさせて頂いたことですが、他教団がGLAに集団帰依することを決断したとしても、「今まで通りの信仰を続けたい」と思う方々は必ず存在するはずです。同レポートでは、その方々のために「導入教義を設計する」というヴィジョンを示しましたが、その方々を排除しても構わないのであれば、もっと安易な方法があります。それは、別教団を設立し、相応の財産分けをした上で穏便に離れて頂く、という方法です。「一人も排除しない」という願いと決意がなければ、このような安易な方法に流されてしまい、「導入教義の設計」という重荷を背負うことはできないのではないでしょうか。
「GLA随想10 高橋信次先生の法の復活」のレポートでは、「法の継承時の鍛錬の真相についてGLAが書籍等の形で公式な見解を発表することが欠かせない」との考えを発表させて頂きました。「書籍等」というのは、「書籍またはホームページ」ということですが、このテーマについては「書籍」という形が妥当ではないかと考えます。書籍の凡そのストラクチャーは、「魂の因果律の説明」「鍛錬内容の説明」「鍛錬を頂いた方々の如是我聞」の順でよろしいのではないかと思われますが、ここで「魂の因果律の説明」をどのように構成するか、という点で問題を感じておりました。
「GLA随想3 法の継承時の鍛錬」のレポートでは、「意識のシステム」すなわち「潜在意識」「想念帯」「表面意識」の三層の相互関係に基づいて魂の因果律の全体像を明らかにしましたが、これは神理を学んでいない一般人に理解して頂けるのかどうかということが、感じていた問題です。佳子先生による一般向けの御著書や御講演では、「意識のシステム」に関する解説は、ほとんど見当たりません。これは、ほとんどの一般人にとっては、人間の内界を「魂」と「心」の二層に分けて認識することが限界であり、「潜在意識」「想念帯」「表面意識」の三層に分けて認識することは難しい、ということではないかと思われます。
魂の因果律と意識のシステムとの関係を考えてみますと、「潜在意識は魂に属する」「表面意識は心に属する」ということは常に成立すると思われますが、想念帯がどちらに属するのかという点で、次の二つの関係A,Bが考えられます。
佳子先生は会員向けの御講義の中で「“魂”を因とし、三つの「ち」を縁とし、果報として“心”が生じる」と明かされましたので、そうしますと「関係Aが正しく関係Bは誤りである」ということになります。しかし、御著書の中では三つの「ち」が縁になる、ということが明記されておりませんので、関係A,Bの何れが正しいのか曖昧になっているのではないでしょうか。魂の因果律が明かされている御著書は「あなたが生まれてきた理由」「Calling---試練はよびかける」「魂の冒険」の三点ですが、関係A,Bの双方を念頭に置いて読み進めてみますと、何れが正しいとも決め難い内容になっています。御講演の内容は精査していませんが、おそらく同様ではないかと思われます。
これは、「一般向けの御著書、御講演では、関係A,Bの何れが正しいのか曖昧にしておき、場合によって使い分ける」という方針ではないかと考えられます。「法の継承時の鍛錬」の書籍における「魂の因果律の説明」の箇所も、この方針に従って、佳子先生の御著書、御講演と歩調を合わせる内容にし、新たな概念は導入しないことが得策であるように思えます。「鍛錬内容の説明」の箇所では、例えば、「“魂”に増長慢のカルマを抱えていた人は、信次先生のお言葉を契機として、カルマのエネルギーが“心”に流れ込み、増長慢で悩乱した」という説明の仕方をすることになると思われます。この説明の仕方によれば、三つの「ち」による影響が省略されてはいますが、特に不自然な点はなく、充分に納得して頂ける内容になるのではないでしょうか。
「法の継承時の鍛錬」の書籍は社会発信の一端であるため、その編纂は開けゆく道の皆様に担って頂くことが妥当であると考えられます。ただ、書籍の編纂に取り掛かる前に、まず、GLAのホームページにて、神理を解説する鍛錬を積まれた方がよろしいのではないかと思われます。「GLA随想4」のレポートでは、「魂の学」エッセンスの中の「運命を変えよう」のページを骨格として「GLA の教義」のページを構成すべき、との考えを発表させて頂きました。この考えは正しいと思いますが、さらに「魂の因果律」の解説も付け加えると如何かと思います。
ホームページに掲載される「魂の因果律」の解説は、後に「法の継承時の鍛錬」の書籍に掲載される内容であり、過去の佳子先生の御著書、御講演の何れにも無かった「法の継承時の鍛錬の意味を解説してゆく土台を整える」という目的を有しています。従って、御著書、御講演のストラクチャーをそのまま流用するわけにはいかず、これらを参考にしつつ、弟子がストラクチャーを構築しなければなりません。ホームページ上の「魂の因果律」の解説が、本当にその目的に適ったものになっているのか、また、一般人に解りやすい内容になっているのかなどの点について、会員の皆様から意見を頂きながら改訂してゆくことにより、後に発刊される書籍の水準も高まってゆくのではないかと思われます。