「GLA随想」は2013年5月~2014年4月にかけて「GLAを憂う元会員」氏が発表されていたブログです。作者がコピーは自由であると表明されていたので、コピーを公開させて頂きます。
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次に、GLA共同体が誹謗中傷を契機として「試練はよびかけ」「私が変わります」を生きるとは如何なることであるのかを考えてみたいと思います。
まず、GLAを誹謗中傷したり「高橋信次の霊言」なるものを追い求める人々は、どのような人々であるのかを認識しておく必要があると思われます。GLAの誹謗中傷投稿をしてきた「罰天使」と名乗っている人は元GLA会員であり、1980年代後半にGLAを退会した人のようです。また、現在、「高橋信次の霊言」というものを出版しているグループは、幸福の科学の分派のようです。この分派を主宰している人も元GLA会員であり、1980年代後半、大川隆法氏が高橋信次シリーズを出版している頃にGLAから幸福の科学に移ったようですが、その後、大川氏が信次先生を誹謗するようになったために自分で分派を立ち上げたようです。
私は、5月10日のレポート「GLA随想7 GLAの歴史と三つの柱」にて、「当時は会員の選抜が行われていた」という考えを発表させて頂きました。この考えはおそらく当たっており、彼らは当時、GLAから排除されてしまった人々ではないかと思われます。「会員の選抜」は神のご意志に基づくものであり、当時としては仕方の無かった面があったのではないかと思いますが、とても残念な出来事であったと思います。私は、GLA共同体が「試練はよびかけ」「私が変わります」を生きるためには、何よりも「排除された人々の痛みを受け止める」という所からスタートしなければならないのではないかと考えます。
痛みを受け止めることができたとき、そこから立ち上がってくる「願い」とは何でしょうか。それは、「また、共に神理を学びたい」ということではないでしょうか。ならば、その願いを実現に移してゆくことが呼びかけられているのではないでしょうか。勿論、GLAに復帰するか否かは彼ら一人一人が判断されることですので、「いつでも戻って頂けるように準備を整える」という事がGLA共同体として果たしてゆくべきことではないかと考えます。
そのために、まず着手すべき事は「7つのプログラム」、特に「研鑽の充実」であると思います。神理の理解力には個人差がありますので、なかなか理解の進まない方でも充分に学んで頂けるだけの態勢を整える必要があるのではないでしょうか。そして、信次先生を求める方々のために「信次先生の法の復活」を果たしてゆく必要があると思います。これまで述べてきましたように「信次先生の法の復活」は「佳子先生の法におつなぎする」ことが目的ですが、信次先生を求める方々に対しては、「まず相手の望んでいるものを提示する」という事が大切かと思います。
ただ、「信次先生の法の復活」について、私は「弟子が主導して進める」という考えを示したこともありましたが、この点は誤っていたと思います。弟子が主導して何かを進めるならば、「ベースとなる佳子先生の具現が存在すること」を前提にしなければならず、その前提を欠いてしまうと何をやっても低水準なものに終わってしまいます。ベースとなる佳子先生の具現が存在しない以上、佳子先生ご自身に主導して頂くことが正しいものと今は考えています。
但し、佳子先生が主導して下さったとしても、それだけでは簡単に進まないことは留意しておく必要があると思います。このブログで何度も述べてきましたように、GLAの中で佳子先生のご指示が放置されているように見受けられることが様々存在します。「ご指示頂いたことをご指示頂いた通りに遂行する」という事は単純なことのように見えますが、実際はご指示の必要性、必然性を心に落としていなければ、なかなか果たせないことではないでしょうか。
「信次先生の法を復活させる」ということは、「これまで背負わなくても良かった苦労を背負う」という事であり、「なぜ、こんな事までしなければならないのか」という想いがどうしても沸いてくるのではないでしょうか。そうしますと、また佳子先生のご指示が放置されるという結果に繋がってしまいます。否定的な想いに打ち克つ「愛」と「志」を弟子が育まない限り、「信次先生の法の復活」は果たせないことであると思います。先にご提案させて頂いた、「佳子先生との一体化を果たしてゆく霊操行」は、この「愛」と「志」を育んでゆくために、とても相応しい行ではないかと考えています。
事務局の内情は外から見えませんので、2つのQ&AがなぜGLAのホームページに掲載され続けているのか正確なことは私には解りませんが、想像を巡らすことはできます。以下申し上げることは全て私の想像に基づくものであることを、まずお断りしておきたいと思います。
2つのQ&Aのような文章を書いて何とも思わない人、そしてそれをGLAのホームページに掲載できる立場にある人ということになりますと、私には関芳郎氏以外に思い当たる人はいません。2つのQ&Aは関芳郎氏の主導によってホームページに掲載されたのではないでしょうか。そして、これらを削除するよう進言する職員もおられたのかもしれませんが、関芳郎氏が耳を貸さないために掲載され続けているのではないかと想像します。
私自身、2つのQ&Aがおかしいという認識を持ったのは、様々な思索を巡らせたからではありません。2つのQ&Aを一読した瞬間に違和感を覚え、何か悪臭が漂ってきたように感じました。それはある種の「感覚」と呼べるものであるかもしれません。その「感覚」を共有できる相手であれば、多くの言葉は要らないはずです。「このQ&Aは何か変だと思います」「やはりそうですか。削除しましょう」という程度の会話で終わってしまうのではないでしょうか。
しかし、この「感覚」を共有できない相手に対しては、この程度の会話では通用しません。「何がどのようにおかしいのか」という事を、他教団の例なども引き合いに出しつつ、理論立てて説明しない限り相手は納得しないでしょう。関芳郎氏が正にこの「感覚」を共有できない相手ではないかと思われます。佳子先生は関芳郎氏を名指しされた事はなかったと思いますが、「関芳郎氏に理解できるように説明すること」を職員の皆様に暗に求められてきたのではないでしょうか。
これに対して職員の皆様はどのように思われたでしょうか。「自分の仕事だけでも忙しいのに、他人の仕事にそこまで首を突っ込んでいられない。それよりも、もっと話の解る人を総合本部長に任命して頂きたい」というのが本音ではないかと思います。佳子先生のご指示が遂行されなかったのは、このような経緯によるものではないかと私は推測します。
GLAを病院に喩えると、佳子先生は医師である病院の「院長」であり、在家の会員は「通院患者」であり、職員の皆様は院長を支える「病院のスタッフ」であると考えることができます。では、関芳郎氏は何なのかと考えますと、スタッフのリーダーのような外見を整えていますが、実は「入院患者」ではないでしょうか。彼の病状は「想念の働きが極度に歪んで硬直化している」というものであり、通院治療では完治する見込みが無く、常に院長の目の届く所に置くために、入院させられているように見えます。
彼が「総合本部長」という立場にあるのも、「想念の歪み」という「空」が「GLAの方針」という「色」として現れやすくするためではないかと思えます。この病気には「特効薬」というものは存在せず、彼が「想念の歪み」という「空」を「色」として現わしたときに直ちにそれを指摘して修正させる、ということを頻繁に繰り返すしか治療方法は無いように見受けられます。そして、それはほとんで院長である佳子先生お一人が果たされてきた事ではないでしょうか。しかし、佳子先生お一人では、どうしても治療の頻度が下がってしまいます。治療の頻度を上げてゆくためには、病院のスタッフ全員が入院患者の治療に協力してゆく姿勢を持つ事が欠かせないのではないでしょうか。
また、関芳郎氏の問題を指摘する人は、佳子先生よりもむしろ職員の方々のほうが望ましいのではないかと思います。それは、佳子先生から頂いた指摘については、彼はよく吟味することなく表面的に受け入れてしまうように見受けられるからです。一方、職員の方々から頂いた指摘については、彼自身がよく吟味し納得しなければ受け入れることは無いでしょう。この「自分自身でよく吟味し納得する」というプロセスこそ、彼にとって必要なものではないかと思われます。
「ご指示頂いたことをご指示頂いた通りに遂行する」ということの意味を、以上のような観点からもう一度見直して頂きたいと思います。
6月5日、6日の記事(2つの「Q&A」について思うこと(1)~(3))では、GLAのホームページに掲載されている2つの「Q&A」(インターネット上の批判的投稿および『高橋信次の霊言』と称するもの)について、私の意見を述べさせて頂きました。しかし、半年以上経過しても、これらのQ&Aが依然として削除されず残っていますので、さらに意見を追加したいと思います。
2つのQ&Aについて考えるときに、GLA以外の宗教団体の事を心に置いてみるとどうでしょうか。誹謗中傷を受けた教団はGLAだけではありません。GLAおよび他教団が「誹謗中傷に対して如何に対応しているか」という事は、否応無く世間の人々に比較されてしまいます。その結果、何が起こるのかを考えてみるべきかと思います。
「宗教団体に対する誹謗中傷」と言われて、多くの人が思い起こすことは立正佼成会に起こった「読売事件」ではないかと思います。昭和31年1月から約3ヶ月に渡って、読売新聞が立正佼成会を弾叫するキャンペーンを張ったことがありました。それは、立正佼成会の土地取得に不正があったなどとする記事を連日報道するものであり、開祖(当時の会長)の庭野日敬氏が参考人として衆議院の法務委員会に呼ばれる事態にまで発展しました。この煽りを受けて立正佼成会の会員数が激減してしまいましたが、立正佼成会は関係機関に「土地の不正取得は無かった」との調査結果を配布した以外は、完全に沈黙を守りました。
会の内部には「報道が虚偽であるなら読売新聞を訴えるべき」という声もあったようですが、庭野氏は「それは宗教者の取るべき道ではない」として退けました。「報道された事実は無かったけれども、周辺住民の不安を煽っていたという点で私達に至らない点があったのではないか。読売新聞はその事を戒めて下さった仏の使いであり、私達の師である」とし、読売新聞のことを「読売菩薩」と呼んで感謝したということでした。この出来事は、正に「試練は呼びかけ」「私が変わります」という神理実践そのものであり、神理はGLAの独占物ではないということを改めて感じます。
以上の点を踏まえて、2つのQ&Aをもう一度読み直してみますと、そこには「GLAは全く悪くない。悪いのはGLAを誹謗中傷している人達である。だから、GLAは彼らを黙らせればそれで良い」という思想が根底に流れていることが感じられます。そこには「試練は呼びかけ」も無ければ、「私が変わります」もありません。勘違いして頂きたくないのは、私は「法的措置を講じることが正しいか否か」を問題にしているのではありません。法的措置を講じたのは、佳子先生のご指示によるものと思いますし、それは「魂を救済する」という目的があったものと理解しています。そうではなく、「誹謗中傷を契機として神理実践を果たす志を示せるのか否か」という事が問題であり、志を示せないのであればQ&Aは削除すべきということです。
このQ&Aを放置するならば、「GLAは言っていることは立派であるが、正にGLAが提唱している神理実践において、GLAは立正佼成会に見劣りする」という誤解が生じてしまうのではないかと思います。弟子の一人一人には、魂の道程というものがあり、その途上では神理を体認体解できず、神理から外れた思想を抱いてしまう事も止むを得ないことかもしれません。しかし、「個人の至らなさ」というものが「GLA全体の至らなさ」であるかのように誤解される事は避けなければならないものと思われます。
そのためには、多くの人が意見を交換して、ホームページの内容の妥当性を維持してゆく必要があるのではないかと思われます。「多くの人」と言いましても、現状では在家の会員の意見表明が制限されているわけですから、職員の皆様に果たして頂く必要があるのではないでしょうか。さらに広く考えますと、この種の神理に反する思想というものは、ホームページには掲載されない「会員のみに対する発信」であったとしても、問題が大きいように思えます。私は、職員の皆様一人一人が職掌範囲を超えて「GLAの方針全般について責任を負う」という事が必要ではないかと考えます。
もし、この私の考えが正しいとすると、これは私が申し上げる以前に、佳子先生が職員の方々に指示されたことではないかと思います。少なくとも、2つのQ&Aが掲載される事を未然に防止できるようなご指示、あるいは、掲載されたとしてもすぐに削除できるようなご指示は、必ず存在すると思われますので、「過去に佳子先生から頂いたご指示・ご指導」を改めて振り返って頂き、「ご指示頂いたことをご指示頂いた通りに遂行する」ということの大切さを再認識して頂きたいと思います。
ただ、佳子先生のご指示が遂行されなかったのは、遂行されなかっただけの理由があると思いますので、その点を次に考えてみたいと思います。
「コミュニティ・デザイン2001」を遵守する必要性についてはこれまで何度か申し上げてきましたが、現在のGLAホームページの「GLAの教義」のページの内容に基づいて、その必要性について改めて説明してみたいと思います。
最初に、高橋佳子先生がご著書やご講演を通じて一般人に「魂の因果律」を説かれるときに、どのようにされているのかを振り返って頂きたいと思います。そうすると、「前置きが長い」ということに気付かれるのではないでしょうか。佳子先生は「魂の因果律」という本題に入る前に、「魂とは如何なるものか」「心とは如何なるものか」という前置きに相当のページ(あるいは時間)を割いておられます。なぜ、そこまで前置きを長くする必要があるのでしょうか。
「GLA随想3」のレポートでは「魂の因果律」と「意識のシステム」の関係について私の考えを発表させて頂きました。これは、「魂」は潜在意識に該当し「心」は想念帯および表面意識に該当する、というものですが、この考えはおそらく現在のGLAにおいては正しいのではないでしょうか。「現在のGLAにおいては」というのは、「過去のGLAにおいては違っている」ということです。信次先生のご著書「心の指針」(旧版)の122~125ページによれば、「心」とは「神仏の精を受ける場、器であり、意識の中心をなしているもの」であり、「魂」とは「心を含めて、潜在意識、想念帯、表面意識の全体」であると説明されています。
信次先生のご説明に従えば、「魂の因果律」なるものは成立しなくなります。しかし、これは、信次先生のご説明は間違っているということではありません。元々の日本語において「魂」「心」という言葉の意味や概念というものは曖昧漠然としており、「魂」「心」という言葉を如何に定義付け、また如何に使ってゆくかは、神理を説く人の方針によって違ってくるのではないでしょうか。この場合では、信次先生と佳子先生では、言葉の使い方についての方針が違っていたということです。
一般人のことを考えてみますと、特に「魂」という言葉の概念が非常に曖昧であると思われます。「魂とは心のことである」と認識している人もいるでしょうし、「魂とは幽霊のような存在である」と認識している人もいるでしょう。その認識を放置したままで「魂を因として、果報として心が生じる」などと説明されても、理解できるはずがありません。「魂」を「潜在意識」、「心」を「想念帯と表面意識」とする現在のGLAの概念は、おそらく世界中を探してもほとんど例が見られない独特のものではないでしょうか。従って、「魂の因果律」を一般人に説くためには、「魂」「心」という言葉の概念を「現在のGLAの概念」に合わせて認識して頂くことが不可欠になるものと思われます。
ここで、表面意識、想念帯、潜在意識のことを考えてみますと、表面意識は比較的認識しやすいものではないかと思われます。想念帯は、ある程度止観シートに取り組まなければ認識しにくく、潜在意識すなわち現在のGLAの概念における「魂」は最も認識しにくいものではないでしょうか。「魂」という言葉を説明するために、「魂とは潜在意識のことである」と説明することも考えられます。しかし、心理学用語で「潜在意識」という言葉は、GLAの用語では「想念帯のつぶやき」に相当するようです。これが「魂」であると誤解されては困ります。GLAの用語で「潜在意識」とは仏教の八識論でいう「アラヤ識」に相当しますので、「魂とはアラヤ識のことである」と説明することも考えられます。しかし、「アラヤ識」という言葉自体、一般人には馴染みの薄い言葉ではないでしょうか。
結局、「現在のGLAの概念」における「魂」を一般人に理解して頂くためには、数多くの事例を使って、様々な側面から概念を形成して頂くしか方法が無いように思えます。佳子先生が「魂の因果律」を説かれるときに前置きが長くなるのは、このような事情によるものと考えられます。
以上のような前提に立って、「GLAの教義」のページの内容を見てみますと、冒頭に以下の文章があり、その後に「魂の因果律」の解説が続いています。
『人間は魂の存在
わが国の高度経済成長期、人々の心が物質的な豊かさに傾いていた時代にあって、高橋信次先生は、人間の内なる次元の大切さを説かれました。人間は死んだら終わりではなく、永遠の時を生き続ける魂の存在であること、誰の人生にも目的と使命があることを訴えられたのです。「魂の学」の基には、そのように、人間を、肉体の存在としてだけではなく、魂の存在として見るまなざしがあります。忘れていた魂の感覚を蘇らせ、永遠のまなざしから一瞬一瞬を全力で生きてゆくことの大切さを教えてくれるのです。「魂の学」の中核となる理論 ――「魂の因果律」
では、私たちは、魂の存在として、この世界をどのように生きてゆけばよいのでしょうか ──。高橋佳子先生は、私たちが永遠の魂として今を生きることができる道を具体的に解き明かされています。その中核となるのが、「魂の因果律」という理論です。』
しかし、この短い文章で、「魂」という概念と、「心」という概念とを明確に区別した上で認識することは、多くの一般人の方にとって不可能なことではないではないでしょうか。「魂」と「心」を区別できなければ、「魂の因果律」も理解することはできません。
「GLAの教義」のページを作成された方は、佳子先生のご著書やご講演に基づいて社会発信の智慧を吸収できるような力をまだ育んでおられないように見受けられます。それゆえ、一般人にとって理解し難い文章をホームページに掲載してしまったのではないでしょうか。その力を育むためには、9月28日の記事にも書かせて頂いたように、「対象(会員または非会員のうち何れか一方)を限定して自らを『型』に投げ入れる」という鍛錬が必要であり、そのためにも「コミュニティ・デザイン2001」を遵守して頂く必要性を感じます。
一昨日(9月26日)の記事にて「コミュニティ・デザイン2001」の意味について考察しましたが、今ひとつ的を得ていなかったように思われましたので、再考したいと思います。
「コーディネーション」または「社会発信」を果たしてゆくために必要な「智慧」とは何であるのかという点について、一昨日の記事は「先生が下さったご指導の総体が智慧である」という考えを前提にしていました。この考えによりますと、先生が下さったご指導の内容(「これをしてはならない」「こうしなければならない」など)は、「対象となる人」が相違すれば異なりますので、「コーディネーションの智慧」と「社会発信の智慧」は異なる、ということになってしまいます。
しかし、「人間の諸相」の一節には「智慧とはただ“なる”ことであった」とあります。このことから、コーディネーションについても、社会発信についても、「ただ“なる”こと」が「智慧」ではないかと考え直しました。つまり、「自分自身が相手になりきって相手の心のひだまで感じられるようになること」「その上で相手にとって最も必要なことを、最も理解しやすい形でお伝えすること」が「智慧」ではないかと思えてきました。これは言葉を変えますと、「先生が下さったご指導」そのものが智慧ではなく、「ご指導の内容を自ら見出してゆく力」こそが智慧であるということになります。そうしますと、「コーディネーションの智慧」も「社会発信の智慧」も本質的には同じものであり、コーディネーションを極めれば社会発信についても達人になれるということになります。
「ただ“なる”こと」という本質的な智慧は、千年の伝承を果たしてゆくにあたって不可欠なことではないでしょうか。現在の会員を対象とするコーディネーション、あるいは現在伝道対象として想定している人々に対する社会発信について先生が下さったご指導は、そのままの内容では、信次先生の法の復活、集団帰依のお世話、神理のローカライズなどを果たしてゆくにあたって不十分ではないでしょうか。弟子が「ただ“なる”こと」という本質的な智慧を恢復して不十分な点を補ってゆくことが今後は必要になってくるものと思われます。
但し、「ただ“なる”こと」の智慧を体得してゆく最初の段階では、「対象を限定して自らを『型』に投げ入れる」ということが必要ではないでしょうか。これは、具体的には、「コーディネーションまたは社会発信の何れか一方の分野に限定し、その分野について先生が下さったご指導の内容を刻印して、その通りに動く」ということです。「自らを『型』に投げ入れる」ことの重要さはテキストブック「GLA会員の基本ライフスタイル」にも詳述されています。「『型』の通りに動ける」という事がある程度果たせる段階に至って、初めて「『型』にとらわれずに自在に動く」という鍛錬に挑戦できるのではないでしょうか。
コーディネーション担当の方がホームページを作成された際、先生は内容について全くご指導をされず、「担当を変更するように」というご指示もされなかったように見受けられます。それは、「コーディネーションの『型』を離れて自在に動く練習をするのは時期尚早であるから、そのことに自ら気づきなさい」という意味ではなかったかと思われます。